ワルツはいかが? 2
「ブノアさん……、本当に店番をしていただいていいんですか?」
翌日、朝の客足が落ち着いた十時十二分、ウォレスが連れてきた人物を見たサーラは唖然とした。
ウォレスかマルセルか所有者はわからないが、彼が使っている東の一番通りの邸にいた素敵な紳士執事ブノアが、白いシャツの上に白地に小さな花柄の、何とも可愛らしいエプロンを身につけていたからだ。
今からブノアに店番をさせるよとさわやかに言ったウォレスを小さく睨んだ後で、恐る恐るブノア本人に訊ねると、彼はにこやかに微笑んだ。
「ええ、構いませんよ。勝手を教えていただけますか?」
素敵紳士はどこまでも寛容であるようだ。
(というかその花柄エプロンはどうしたのかしら……)
サーラの視線に気がついたのか、ブノアはエプロンに触れながら「妻のです」と教えてくれる。
「エプロンを貸してほしいと頼んだらこれを貸してくれまして」
(……いいのかしらそれで)
ブノアの妻は、もしかしなくてもお茶目な人なのだろうか。普通、五十代前半ほどの素敵な紳士に花柄エプロンは渡さないと思う。
「新品らしいですから安心してください」
新品であればいいという問題でもなかろうが、身に着けている本人がそれで構わないのならばサーラが余計なことを言うべきではないだろう。
すでにリジーも懐柔されている今、これ以上はサーラも断り切れない。
よくわからないがやる気になっているブノアに、客とのやり取りを教え、困ったら裏にいるアドルフやグレースを呼んでほしいと伝える。
「……お父さん、そういうことだから、出かけてくるわ」
疲れた顔でアドルフに言うと、アドルフも困惑した表情で「失礼のないようにね……」と目を泳がせた。突然の展開に思考がついて行っていないようだ。
(動揺しすぎてパンを焦がさないといいけど……)
そんなことになったら、責任もってウォレスに買い取ってもらおう。
出かける支度をしていると、すでに話がいっていたのか、リジーがやって来た。
ブノアを見て目を丸くした後で、「こんな素敵なおじさまが店番なら毎日来るわ」などと言い出す。ブノアが店番でなくともほぼ毎日来ているくせに、調子のいいことだ。
ポルポルの前に停まっている馬車に乗り込むと、御者席のマルセルが馬を走らせる。
「きゃあっ、すごーい!」
馬車に興奮しているリジーに、サーラは苦笑するしかない。
(まあ、平民で馬車を持っているのは富豪くらいでしょうからね)
もっと言えば、このような高級馬車を持っているようなのは大富豪でも少ないだろう。
家紋が入っていないので、ウォレスはこれでも下町用にこの馬車を用意したと思うが、もう少し馬車のランクを下げたほうがよかったのではなかろうかと、ちょっとおせっかいなことを思った。
「どこに向かうんですか~?」
「私が使っている邸だよ」
リジーはウォレスが下町で使っている邸に行ったことはない。
サーラも二度ほどお邪魔したことがあるだけだが、あの殺風景な雰囲気は少しは変わっただろうか。
馬車の窓からぼんやりと外を見ていると、じっとこちらを凝視する視線に気がついた。
「どうかしましたか?」
対面座席からこちらを見ているのはもちろんウォレスである。
「いや、サーラは馬車に乗り慣れているのかなと思ってね」
「どういう意味ですか?」
ゆったりと座席に腰かけていたサーラは、ウォレスがサーラの隣に視線を向けたのを見て同じように横を向いた。
隣に座るリジーは窓にかじりついて目をキラキラさせている。
「リジーはミーハーなので」
「そういう意味ではないんだが……」
苦笑するウォレスに、サーラは首をひねった。
けれどもウォレスはそれについてはそれ以上何も言わず、窓の外を確かめると「そろそろつくよ」と告げる。
馬車は一度邸の門の前で停車し、マルセルが御者台から門を開けると、再び発進した。以前と同様、邸の規模と比べて使用人が少なすぎるようである。
玄関の前で馬車が停まると、ウォレスが先に降りて手を差し出してきたので、素直に手を借りて馬車を降りる。
同様にリジーにも手を貸したウォレスが、リジーに「大丈夫だった?」と訊ねた。
「思ったより揺れるんですね!」
目をキラキラさせてリジーが答える。
(揺れるって、この馬車は揺れは少ない方だと思うわよ)
と思ったが、口に出すのはやめておいた。
マルセルが玄関を開けると、玄関ホールには四十代後半ほどの品のいい女性が立っている。
「家政婦長のベレニスだよ。そしてブノアの奥方だ」
なるほど、この人があの素敵紳士に花柄エプロンを渡したお茶目な妻かと、サーラは妙な感慨を覚えた。
というのも、ベレニスはヘーゼルナッツ色の髪を一つにひっつめた、気真面目そうな外見をしていたからだ。詰襟の、スカートの広がりの少ない紺のお仕着せに、白いシンプルなエプロンを身に着けている。
(……こっちのエプロンを貸してあげればよかったのにね)
口端をきゅっと持ち上げたアルカイックスマイルは、まるで厳格な家庭教師《ガヴァネス》のようだと思った。
「お待ち申し上げておりました、お嬢様方。まずはお着換えをいたしましょう。パーティーが一週間後とのことですのでドレスは既製品を用意しましたが、サイズが合わないようでしたら直しを入れる必要がございます」
発音にも一切の訛りがない、手本のような話し方だ。ただし抑揚も少ない。
リジーはベレニスの放つ厳格なオーラに圧倒されたようで、「は、はい」と小さく震える声で返事をした。
(これで狼狽えていたら、本当の貴族の社交は無理でしょうね)
サーラは苦笑して、ベレニスに向かって一礼する。
「お心遣い痛み入ります。よろしくお願いいたします」
ベレニスは少しだけ目元を和らげると「ご案内いたします」と言って踵を返した。
「じゃあ私も――」
そう言ってついて行こうとしたウォレスを肩越しに振り返り、ベレニスは有無を言わさぬ迫力のある笑みを浮かべる。
「坊っちゃんはなりません。あと三十分もすれば楽師が到着するでしょう。それまでにホールの確認をお願いいたします」
「わ、わかった……」
(この家政婦長、なかなかすごいわね)
ウォレスを抑えられるという意味でも、ベレニスとは仲良くなりたいところだ。そしてその秘訣を訊いてみたい。
ウォレスの背後ではマルセルが笑いを必死にかみ殺しているのが見えた。
玄関ホールの奥の大きな階段を上り、二階の西の部屋へ向かう。
「広すぎて迷いそうね……」
リジーはそう言うが、部屋数は多いけれど邸自体は単純な作りなので、迷うことはないだろう。貴族の、それも高位貴族の邸はこれとは比較にならないほど複雑な作りをしているところもある。
(それにしても、楽師、ねえ。わざわざダンスの練習のために呼びつけるなんて……)
ウォレスはこのお遊びにいったいいくらかけるつもりでいるのだろうか。
貴族はお金を使うことを美点と考える。
お金を回すことで経済が回るから、金を使うのは一種の奉仕活動のようなものだ。
ウォレスにとってはこれもある意味貴族の義務であり経済活動なのだろうが、銅貨一枚のパンを売っているパン屋の娘としては、どうしてももったいなく感じてしまうのだ。
二階の部屋に入ると、そこには二人のメイドらしき女性がいた。
ドレスが二着用意されていて、一つが淡いブルーのもの、もう一つがクリームイエローのものだった。既製品らしいが、生地の光沢を見ても、高級品だろうことは一目でわかる。
サーラとリジーのどちらがどちらのドレスを着るかは、すでに決められていたようだ。
サーラは淡いブルーのドレスを持ったメイドが、部屋に作られた衝立の奥へと誘導する。
手慣れた様子でサーラからワンピースをはぎ取ったメイドは、おっとりと頬に手を当てた。
「胸に詰め物をしますがよろしいですか?」
ぴくっとサーラの眉が動くが、必死に笑顔を作ると「はい」と小さく頷く。
(嫌なことを思い出しちゃったじゃない)
誕生日プレゼントだと補正下着をよこされたことを思い出したのだ。
忘れかけていた怒りが沸々と蘇ってきそうになったが、顔をしかめているとメイドに怪しまれるので、必死に怒りを腹の底へと押しやる。
苦しくない程度にコルセットがしめられ、胸にパットが入れられる。それほど大きくないクリノリンを付けた後で、ドレスを着させられた。
背中が編み上げになっているので一人では着られないドレスである。
ドレスを着終わると、衝立の外に出された。リジーはまだ着替え中のようである。
「いかがでしょう?」
メイドが訊ねると、ベレニスはまるでテストの採点をするかのように視線を厳しくして、サーラの全身を確かめた。
「ウエストが少し余るわね。これ以上は紐で絞れないの?」
「これが限界です」
「そう……。では、今日はこれでいいけど、当日までに少し詰めたほうがいいわね。丈は大丈夫。手袋は?」
「こちらに」
メイドが白いシルクのグローブをベレニスに手渡した。手袋には銀糸で刺繍も入っている。
(……高そう)
手袋は二の腕のあたりまでの長さのあるものだった。
メイドが丁寧にサーラに手袋をはめ、リボンを結んで固定する。
続いて用意されたのは細いヒールの靴である。
靴を履くと、ベレニスに一周回るように言われたので、サーラはくるりとその場で一回転した。
「よろしいですわ。よくお似合いです」
ベレニスから及第点が出て、ホッと息を吐き出したのはサーラだけではなかった。メイドも安心したように胸をなでおろして、部屋のソファにサーラを誘導してくれる。
続いて衝立からリジーが出てきて、サーラと同じようにベレニスの検分がはじまった。
リジーは緊張しているのか、肩が少し上がり気味で、ベレニスにさっそく注意されている。
(ふふ、よく似合っているわ)
サーラはそう思ったが、当の本人は憧れのドレスを前にカチンコチンに固まっているようだ。
「少し丈を直しましょう。あとはいいでしょう」
サーラのときと同じように手袋がはめられ、靴を履き替えさせられる。
普段履きなれない靴にリジーが少しよろけてメイドに支えられた。
ベレニスがすかさず注意をする。
「背中が丸まっています。まっすぐに立つようにしてくださいませ。それから、その靴で優雅に歩けるようになっていただかないと、とてもではありませんがダンスはできませんよ」
リジーが青ざめ、助けを求めるような顔をサーラの方へ向ける。
(ね、貴族女性は華やかなだけじゃないのよ)
これでなかなか大変なのである。
がんばって、という思いを込めて微笑み返すと、何故か睨まれてしまった。解せない。
「では、楽師の方が到着されるまで、少し歩く練習をいたしましょう」
家庭教師――ではなく、ベレニスが言う。
促されて立ち上がると、サーラはリジーと一列になるように立たされた。
「手を叩きますので、歩いてくださいませ。姿勢はまっすぐ、優雅に。頭がぶれてはいけません」
パンパンという手拍子に合わせて歩く。
(意外と体が覚えているものね)
サーラは懐かしさを覚えてちょっと微笑んだが、前を歩くリジーはそうではないようだ。
まっすぐ立つのも精一杯のようで、一歩歩くごとにふらふらしている。
ベレニスがこめかみを押さえた。
「リジーさんはこの部屋でメイドとともに歩く練習をしてくださいませ。サーラさんはこちらに」
ベレニスに促されて、サーラは廊下に出された。
「廊下の端まで歩いて、戻ってきてくださいませ」
「かしこまりました」
サーラがドレスの裾を持って一礼し、言われた通り歩き出した。今度は手拍子なしである。
ゆっくり歩いて戻ってくると、ベレニスは「結構です」と言った。
「問題ないようですね。とても美しい動作でした」
「ありがとうございます」
ベレニスから合格をもらったので、サーラは一足先に一階のホールに案内された。サーラが一緒だとリジーが集中できないだろうから一緒にいない方がいいと言う。
ホールに向かうと、ちょうど楽師が到着したところのようだった。
ヴァイオリン奏者のようだ。
マルセルが楽師を案内しているのを見ていると、「サーラ」と背後から声をかけられる。
ゆっくりと振り返ると、後ろにいたウォレスがゆるゆると目を見張った。
サーラはドレスの裾を持ち、わずかに腰を落とす。
「素敵なドレスを、ありがとうございます。ウォレス様」
パッと、ウォレスの頬に朱が差した。
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