幽霊になった男 6
調べてきてあげようと安請け合いしたウォレスは、次の日になってもその次の日になっても現れなかった。
リジーなどはパンを買いに来たついでに長時間居座っては、連日「今日も来ないねえ」と寂しそうにつぶやいている。
(あんな怪しい男に関わりたくなんかないから、来ないに越したことはないわ)
そう思うものの、少しだけ残念に思う気持ちがあるのは、サーラが今回の事件に引っかかりを覚えているからだろう。
市民警察は下町の治安を守る集団で、探偵ではない。けれども、今回の事件が起こったときに、最初から他殺の可能性を排除していたのがどうにも気にかかるのだ。
リジーが仕入れてきた情報にしてもそうだ。
失恋して自殺する人間が、果たして世の中にどれほどいるだろうか。
そこまで思いつめるほどの大恋愛をする人間なんて、極めて少ないと思う。
それなのに、事件が起こってわずか一日で、商会長は自殺が濃厚だとされて、死因に失恋による自殺という自殺の理由としては非常に分母の少ない理由があげられた。
それはまるで、そうであるように誰かが誘導しているかのようにしか思えない。
さらに言えば、片思いの相手が男爵夫人で、その男爵夫人が会長補佐と不倫関係に遭ったという情報まで出てきている。
相手が貴族のご婦人である以上、この手の情報が下町で広まるのはおかしい。
下手に噂をすれば貴族の逆鱗に触れる可能性が高く、知っていても普通は胸の中にとどめておくものだ。
リジーが嬉々として話すくらいだから、男爵夫人の不倫の話は、口に出しても問題ない程度に広まっている周知の事実だと思われた。
(男爵夫人の噂すら誰かが意図的に流しているみたいに思えるんだけど)
勘ぐりすぎだろうか。
サーラがそっと息を吐き出したとき、店の奥からアドルフの声がした。
「サーラ、悪いんだけどね、東の一番通りのお邸に配達に行ってくれるかい?」
「一番通りのお邸?」
サーラは首を傾げた。
パン屋ポルポルの客は下町の、南半分の客ばかりだ。
貴族街を出てすぐの一番通りに住むお金持ちに客はいないはずだった。
「今朝がたご注文があってね。ええっと、はい、地図だよ」
カウンターまで出てきたアドルフが、手書きの地図と、それから届けるパンが入った袋を渡してくれる。ずいぶんとたくさん注文してくれたようだ。
「すでにお金は受け取っているから、パンを渡すだけでいいからね」
「わかったわ。じゃあ、行ってきます」
我が家にはもちろん馬車なんて洒落たものはない。腰を悪くしているグレースを長時間歩かせるわけにはいかないので、出かけている間の店番をグレースに頼んで、サーラは袋を持って店を出た。
今であれば、昼の忙しい時間帯も終わったので、グレースもカウンターの椅子に座ってのんびりできるだろう。
パン屋ポルポルは家族で細々と経営しているので、よほどの事情でないと配達サービスはしていない。
今回の客は東の一番通りのあたりに邸を構えていることから連想できるように、相当なお金持ちのようだ。たぶん、配達の手数料も弾んでくれたのだろう。
パンの袋を抱えて、とことこと石畳の道を歩く。
南門から貴族街の門に向かって一直線に伸びる大通りや、それから一番通りから二番通りと名のつく大きめの通りは石畳が敷かれているが、他の細い道は砂利道のままだ。
雨が上がって数日がたち、道も乾いているので砂埃の舞う道は避けたい。
わき道に入れば近道ができるが、食べ物を持っている以上、舗装された道を行くべきだろう。
三番通りが交差するあたりをすぎると、街並みが変わる。
大きな建物が並び、高級そうな店も増えて、着ている服も豪華だ。
下町の貴族街の近くは、中流階級の人間ばかりが住んでいる。中流階級と言っても、事業を営んでいる富豪などは下手な貴族よりもお金持ちだ。
最近では階級の壁を飛び越えて、富豪の娘が下級貴族に嫁いだり、逆に下級貴族の娘が富豪に嫁いだりする例もでているらしい。
とはいえ、平民と結婚する貴族を嗤う、頭の固い古参貴族も多いわけで、このあたりの壁は一朝一夕ではなくならないだろうとも思われた。
まるで、下町と貴族街を隔てる高く分厚い壁のように。
(ええっと、このあたりよね)
平民は姓を持たない。
南の方の下町に住む人は、わざわざ家の玄関の前に名前なんて書かないが、大きな邸のあるこのあたりでは家長の名前を記す家が多いようだ。
(門のところにマルセルって書いてあるってお父さんは言ってたけど……)
一軒一軒名前を確かめながら歩いていると、東の一番通りの真ん中の当たりにひと際大きな邸を見つけてぎくりとした。
大きな鉄の門の奥には広い庭があり、さらに奥にはまるで貴族の邸宅かと思うような巨大なお邸が建っている。
(……本当にここ?)
こんな邸に住んでいるのならば料理人の一人や二人、雇っているはずだ。わざわざパン屋でパンを買う必要はないだろうに。
入るのを躊躇していると、門番だろうか。それにしては身なりが整っている五十歳ほどの男が、にこりと微笑んで通用口を開けた。
「もしかして、パン屋ポルポルのお嬢さんでしょうか?」
「そ、そうですが……」
「お待ち申し上げておりました。どうぞこちらに」
まるで一流の執事のような丁寧な物腰の紳士だった。
こんな紳士を門番にするなんて、邸にはいったいどんな人間が住んでいるのだろう。
恐る恐る通用口をくぐれば、広がっているのは何とも殺風景な庭だった。
雑草などは生えていないが、木も花も植えられていない。
芝すら植えられていない庭の中央を、門からカーブを描く石畳の道が玄関まで伸びているが、門と奥の邸の古さから考えると、石畳の道だけが異様に白くて真新しかった。
まるでここだけ最近作られたようである。
(なんか生活感のない家……)
まるで貴族の別荘か、ずっと空き家だった家に最近引っ越してきたかのようだ。
男に案内されて玄関をくぐると、サーラの違和感はますます膨れ上がった。
玄関の中も殺風景なのである。
装飾品は何もないし、人の生活臭もしない。
掃除は行き届いていてとても清潔な感じがしたが、ただそれだけだった。
「こちらですよ」
紳士な門番が一階のサロンに案内してくれる。
パンを配達しに来ただけなのに、どうしてサロンに通されるのだろうかと不思議に思ったが、相手は客なので口には出さなかった。
門番が部屋に案内すると言うのも妙だったが、邸の中にはほかに使用人らしき人がいないからかもしれない。
違和感がぬぐえないままサロンへ向かうと、サロンの扉の前に背の高い男が一人立っていた。
「マルセル、後はお願いしますね」
紳士門番が男をマルセルと呼んで、サーラはハッとした。
門のところに書かれていた家主の名前である。
「パン屋ポルポルです。ご注文のパンをお持ちしました」
これで帰れると、手に持っていたパンを差し出すと、マルセルはにこりと微笑んだ。
灰色の髪に、深緑の瞳が印象的な二十代半ばほどの紳士である。いや、騎士と呼んだ方がしっくりくるかもしれない。肩幅が広く、体は引き締まっていて、さぞ騎士服が似合うだろう。
(あれ、でも、どこかで見たような……?)
初対面のはずなのに、サーラの頭の隅に何かが引っかかった。
「ありがとうございます。どうぞお部屋に。主がお待ちです」
(主?)
と言うことは、マルセルが家主ではないのだろうか。
違和感がどんどん大きくなる。
怪訝に思いながらも必死に表情を取り繕っていたサーラだったが、マルセルが開けたサロンの中に座っていた男を見て、張り付けていた笑顔が瞬く間に剥がれ落ちた。
「あなた……!」
思わず声を上げてしまう。
だが、仕方がないだろう。
何故ならサロンの中には、三日前にパン屋ポルポルを訪れ、わけのわからない質問をしてきたウォレスと名乗った男が座っていたからだ。
(あ! 思い出した! この人、御者台に座っていた人だわ‼)
サーラはマルセルを振り向いて、何故気がつかなかったんだろうと舌打ちしたい気分だった。
珍しく金持ちからの注文が入ったと思ったが、恐らくサーラをここに呼び出すための口実だったのだろう。
ウォレスはサロンの一人がけソファに優雅に足を組んで、艶っぽい微笑みを浮かべている。
「やあ。まどろっこしい真似をしてすまなかったね。ちょっとこちらにも事情があって。まあ座りたまえ」
回れ右して帰りたかったが、そうもいかないだろう。
この男が何者かは知らないが、下町の高級住宅街に巨大な邸を構えられるほどの金持ちであるのは確かだ。
下町の南半分に暮らすサーラ達にとっては、金持ちも貴族もあまり変わらない。いや、金にものを言わせて問答無用で店を潰すことができる分、下手な貴族よりも金持ちの方が厄介だろう。
(……それに、この男が貴族である可能性も否めないわ)
貴族ならば下町に邸は構えないものだ。だが、男の所作を見るに、相応の――それも、かなり上流の教育を受けた人間であるように思えた。
わが身が可愛ければ逆らわない方がいい。
ましてやサーラの背後には父や母、兄がいる。サーラの行動一つで彼らにも多大な迷惑がかかると思えば、素直に従うのが最善だろう。
サーラがソファに腰かけると、少しして先ほどの紳士門番がお茶と茶菓子を運んで来た。
門番より執事が似合うと思ったが、もしかして彼は門番ではなく執事だったのだろうか。そのくらい、美しい所作でお茶が出される。
「ありがとうございます」
お礼を言うと、紳士は穏やかに目元を微笑ませて去って行く。
マルセルはパンの袋を紳士に渡すと、サロンの扉の内側に静かに立った。これでは何かあっても逃げられないなと、サーラは内心ため息だ。
「緊張しなくていいよ。どうぞくつろいでくれ」
そう言われてくつろげるはずがないだろうと、サーラは舌打ちしたくなる。
しかし出されたものに口をつけないのも失礼だろう。
ウォレスが優雅にティーカップに口をつけたのを見て、サーラもティーカップに手を伸ばした。
まず香りを確かめて、目を細める。
いい香りだ。かなり上等な茶葉が使われているのだろう。
紅茶の香りと味を楽しんでいると、視線を感じてサーラは顔を上げた。
「どうかしましたか?」
「いや……」
ウォレスが驚いたように目を丸くしているのが不思議だ。いったい何に驚いているのだろうか。
ウォレスはこほんと咳ばらいをして、それからとろけるような笑みを浮かべた。
「君が知りたがっていた情報は集めたよ。だから、君の推理を聞かせてくれないだろうか」
サーラは、そっとため息を吐いた。
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