すべてを奪われた少女は隣国にて返り咲く

狭山ひびき@広島本大賞ノミネート

第一部 町角パン屋の洞察力

幽霊になった男 1

「きゃああああああ――‼」


 その日、朝のしじまを切り裂くような裂帛が、ヴォワトール国の王都の下町に響き渡った。




 冬から春に移り変わるこの頃は、雨が多くなる時期だ。

 先月の終わりから三日ほど雨が続き、ようやく分厚い雨雲が遠ざかってくれた朝のことだった。


 ヴォワトール国の王都の南西。


 北にある貴族街から離れたずっと離れたこのあたりは、いわゆる歓楽街と言われる場所である。

 大通りに面した場所には明け方までにぎわう飲み屋が、西に流れる幅の大きな川に面した場所には娼館が立ち並ぶ。

 王都の不夜城であるここは、夜中でも人が多く行きかう場所だ。むしろ夜の方が人足が多い。


 去って行く客を艶のある少し気だるげな視線で見送り、ついでに少しばかり外の空気を吸おうかと店から出た娼婦は、数時間前まで降っていた雨で増水した川を眺めながら、のんびりと湿った道を歩いていた。


 娼婦が歩けば、高級娼婦になにかあってはたまらないと、娼館の男衆が少し離れてついてくる。

 しゃなりしゃなりと柳のように細い腰を揺らして歩いていた娼婦は、ふと、橋げたのあたりに何か黒くて妙な塊があるのに気がついた。


「ねえ、あれはなんだろうねえ」


 男衆がついてきているのに気がついていたので、娼婦は億劫そうに振り返りながら訊ねる。

 勾配のない平坦な川であるため、目の前の川は普段ならば流れが緩やかだ。

 物資の運搬のために作られた人工的な川であるから、流れが急では困るのである。

 しかしこの三日ほど続いた雨のせいで水かさが増した川は、いつもよりもずっと流れが速い。


 この時期、酔ったせいで橋から転落して死亡する人間が、毎年一人、二人は必ず出ていることから、娼婦の問いかけを拾った男衆の反応は早かった。

 近くの、ライバルであるはずの別の娼館に駆け込んで、人を集めるように言う。

 普段は売り上げを競うライバル店でも、何かあったときの結束は固い。

 娼館が立ち並ぶこのあたりは、油断すればすぐに治安が悪くなるからだ。


 男衆に娼館に戻るように言われた娼婦はしかし、湧き上がる好奇心に抗いきれず、彼らについて見つけた「何か」を確かめに行った。

 増水した川に流されないように腰に縄を括り付けた男衆が、数人の仲間に縄の端を持たせて、慎重に川に入っていく。

 泳ぎが堪能な彼は、慎重に慎重に橋げたまで泳いでいき、それから大声を上げた。


「市民警察を呼べ‼」


 男は持っていた別の縄を「何か」にかけると、岸で待つ男衆たちに合図を送る。

 男衆たちがロープを手繰り寄せると、浮き沈みしながら川岸までやって来たのは、水を吸ってぶよぶよになった男の遺体だった。


「きっ、きゃああああああ――‼」


 娼婦がたまらず悲鳴を上げる。

 好奇心で様子を見に来たはいいものの、まさか本当に死体が上がるとは思っていなかったのだ。


 どうせ何かのごみだろうと思っていた娼婦は、目の落ちくぼんだ水死体に嘔吐き、その場にうずくまった。

 男衆の一人が娼婦を抱きかかえて娼館へ運んでいく。


 まもなく、駆け付けた夜番の市民警官が駆けつけてきた。





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