第36話 聖女オリヴィア


 浮き上がろうとするたましいを、力強い腕が押さえている。

 ルシアンが、私を……引き留めてくれている。


 オリヴィアが小さく舌打ちした。


『行くな、オリヴィア』


 どうして私をオリヴィアと呼ぶんだろう。

 私は織江でしかないのに。


『オリヴィア、私にはあなたが必要なんです』


 そんなことを言われたら、未練が残ってしまう。

 うれしくて、切なくて、でも別れなければいけないのが悲しくて。

 もうどうしていいかわからない。


『私だけではない。皆があなたを待っている。元のオリヴィアではない、あなたを』


 私を。

 オリヴィアではなく、私を待っていてくれている。

 涙が出るほどうれしい。私だって、本当は逝きたくない。


「ルシアンが干渉してきたようね。あの冷めた男がここまでするなんて……」


 オリヴィアが忌々しげに言う。


「でも、わかっているわよね? この体は私のものだって。あなたは人の体を盗む泥棒なの? 本来の持ち主である私が死ねばいいとでも?」


「それは……」


 その言葉に、ぐらつく。

 また浮き上がる感覚が強くなる気がした。


「ルシアンだってあなたのほうが操りやすいから、あなたを引き留めているだけよ」


 そんな言葉は信じない。

 でも、やっぱりこの体は――


『その女が何を言っているかはだいたい想像がつきますが、耳を傾ける必要はありません。よく聞いてください。オリヴィアは……あなたです』


「え……?」


『この体の本来の持ち主は、あなたなのです』


 どういう、こと?


「何を言われてるか知らないけど、さっさと逝ってくれないかしら?」


 オリヴィアにはルシアンの言葉が聞こえていないらしい。

 そして、ルシアンにもこちらの会話は聞こえていない。おそらく、私の声も。

 それよりも、私がこの体の持ち主って?


『ずっと不思議だった……なぜ神力が回復していくのか。なぜ以前のオリヴィアより、清浄な神力を感じるのか。だから調べました』


 調べた?


『今詳しい話をしている時間はありませんが、あなたはもともとオリヴィアなのです。だから、あなたが体を明け渡す必要などない。あなたが乗っ取られたのは、聖女として神殿に入る直前です。闇オークションであなたを買った貴族の未亡人――』


 ぱちん、と音がして、ルシアンの声が途切れる。

 オリヴィアが凶悪な笑みを浮かべていた。


「はぁ、ようやく外からの雑音を遮断できたわ」


「……」


 でも、私の体を留めようとする感覚は消えていない。

 おそらく声だけを遮断されたのだと思う。 


「で。さっさといなくなってくれないかしら、泥棒さん。ルシアンが何か言っていたとしても、それは出鱈目よ」


「ルシアンよりもあなたを信じる理由はもうありません。そのルシアンが言っていました。この体は、もともと私のものだったと」


 オリヴィアがさらにいら立った様子を見せる。


「寝言ぬかしてんじゃないわよ、お前はただの病弱な日本人よ!」


 鬼のような形相で彼女が言う。

 言葉遣いも、だんだんと乱れてきている。


「……どうして、聖女になる前の出来事を夢で見るのか、不思議でした。あんなにも生々しい、まるで自分が体験したかのような。そして、その夢の中では、オリヴィアは臆病で弱虫なんです。まるで私みたいに」


「だから自分がオリヴィアだって? 図々しいにもほどがあるわね。脳が入れ替わったわけじゃないんだから、お前が見たのは記憶の残滓ざんしに過ぎないのよ」


「私もそうだと思っていました。でも、さっき私がオリヴィアだとルシアンに聞いて……少し記憶が戻りました」


 孤児院とは名ばかりのあの場所に閉じ込められ、闇オークションで売られた。

 私を買ったのは、ルシアンが言いかけていた、貴族の未亡人。

 最初はとても優しかった。

 おかあさまと呼びなさいと言い、たくさんのものを与えてくれた。

 でもある時から急に私を手ひどく扱うようになって、肉体的にも精神的にも虐待された。

 ――そこから先は記憶がない。

 でも、今ならわかる。


「あなただったんですね。


「何言ってんの?」


「あなたが、私の体を奪った。最初は優しくしていきなり手ひどく扱ったのも、さっきみたいに私のたましいを弱らせて乗っ取りやすくするためでしょう?」


 オリヴィアが馬鹿にしたようにため息をつく。 


「妄想癖もそこまで来ると立派ね。お前は日本で十六歳まで生きたでしょう!」


 そう。

 私は日本で生まれ、十六歳まで生きた。最後の瞬間は記憶がないけれど。

 目の前のオリヴィアが聖女になったのは、約三年半前。その頃に乗っ取られたのだという。

 普通なら、計算が合わない。

 でも……ここと日本は時間の流れが違う。


「昔、母が……言っていたんです」


「はぁ?」


「妊娠初期に、私の心拍が確認できなくなったことがあったそうです。でも翌週にもう一度エコーを見たら、心臓が動いていたって。そこから無事出産に至りました」


「だから?」


「あなたが聖女として神殿に入ったのがだいたい三年半くらい前とすると、日本では十七年半くらい前になりますね。もし……あなたに体を奪われた私の魂が、日本に逃げて、お腹の中で死んだばかりの赤ちゃんに憑依したのだとしたら。だいたい計算が合いますね」


「妄想を垂れ流してんじゃないわよ!」


「妄想と思うならそれでもいいです。ところで、なぜ私が十六歳で死んだと知っているんですか? アナイノを通じて適合者である私を探し出したということに嘘はないでしょうけど、それでいつどうやって私をオリヴィアの体に送ったんでしょうね」


「……」


 彼女が小さく舌打ちする。

 ああ……やっぱり。

 私はいつ死んだのか憶えていない。あんな体だったから、いつ突然死したっておかしくはなかったんだけど。

 でも、いくら私が病弱だったとはいえ、彼女がいつ起こるかわからない私の死の瞬間を待ち構えて私の魂をオリヴィアに送ったなんて考えられない。

 だから――彼女は、私の魂をオリヴィアの体に送り込んだのだろう。


「私を、殺したんですね」


「どこにそんな証拠が? いい加減にしなさいよ!」

 

 彼女がどうわめこうが、もう気にしない。

 私の死の原因も、いまさら追及しようと思わない。


 ルシアンは、私が本当のオリヴィアだと言ってくれた。

 現時点で証拠があるわけじゃない。それが絶対に間違っていないとは言い切れない。 

 でも、私を心から必要としてくれている人たちがいるから。

 私は、オリヴィアとして生きていく。


 そう決意したとたん、私の姿は織江からオリヴィアに変わった。


「死因はもうどうでもいいです。でも、あなたが妄想だと言おうと、私が聖女オリヴィアです。この体は絶対に譲りません」


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