第12話
――翌日、早朝五時。
千咲は毎日の日課であるロードワークに出かけるために準備をしていた。
「うん、洗濯機は回してるし、朝ご飯の下準備もOK。ロードワークは一時間やって、帰ってきたら洗濯物を干して朝ご飯を用意して、そのあとはお母さんと音々呼を起こす。よし、完璧ね」
そうして事前に慌てることのないように頭の中でスケジューリングするのが千咲の癖となっていた。それは千咲の几帳面さが際立った証といえよう。
「今日は坂道ダッシュもしようかしらね」
テニスにおいて足腰の強さは何よりも重要視される。広いコート上を行ったり来たり、その切り返しの時にかかる足腰の負担は重い。中途半端な耐久力では、足首を捻ったり靭帯を痛めたりしてしまう。
高校に入っても当然やるからには一番を目指したい。プロテニスプレイヤーになりたいという欲求は今のところ低いものの、元来負けず嫌いなこともあり、今度の全国大会では優勝を手にしたいと思っている。
「あ、サポーターをし忘れてたわね」
膝の関節の負荷をできるだけ軽くするためにも必要だ。スポーツ選手にとって怪我とは切っても切れない悪縁ではあるが、それでもできる限り付き合いたくはない。なのでサポーターは必要不可欠なのだ。
千咲は自分の部屋に戻り机の上に置いていたサポーターを手に取った。そしてそのまま部屋を出ると、向かい側の扉が開く。そこからはヨレヨレになったパジャマ姿の音々呼が出てきた。
眠そうにしながらフラフラとしているその姿はとても愛らしい。思わず抱きしめたい衝動にかられてしまう。
まだ起きるには早いが、もしかしたらトイレかもしれない。
「おはよ、音々呼。トイレ?」
そう聞くと、コクンと頷く。どうやら想像は当たっていたようだ。
この子が声を失ったのは三年前のこと。当初は何故こんなにも天使な妹が、と嘆いたものだ。しかし誰よりもショックはこの子のはずなのに、自分や母を悲しませまいと思ってか、自分たちの前ではいつも笑顔を見せてくれている。
(でもきっと……辛いはずよね)
自分だけが他と違う。その事実は大人でさえ強烈な心痛を抱くだろう。それが幼児ならなおさらではなかろうか。
自分の気持ちに正直なはずの子供なら、声が出ない衝撃に絶望を感じてしまうはず。特にこれから接していく他の子供たちと比べられることもあるし、自身もまた比較して悲痛さを感じることもあるかもしれない。
そして大人になっても、そのハンデは何よりも重く生き辛いことだろう。
そんな将来を思い、姉として何もできない無力感が本当に恨めしい。だからせめて音々呼が楽しく過ごせるような家庭にしたいと思うし、ずっと支えてあげたいと思っている。
「冷蔵庫に音々呼が好きなはちみつジュースを入れてるから、喉が渇いてたら飲みなさいね」
またもコクンと頷くのを見て千咲は微笑みを返し、
「じゃ、お姉ちゃんは走ってくるわね」
そう言いながら、音々呼に背を向ける。
「ん……いってらっしゃぁい」
「うん、行ってきまーす」
やはり家族から送り出してもらえるのは心が温かくなる。自分が一人ではないということを実感できるからだ。
自分もまた音々呼を一人にしないように傍にいてあげよう。
千咲はゆっくりと玄関に向かい靴を履きながら、思わずクスリと笑みが零れる。
(それにしても、あの子は本当に可愛い声よね)
そう、本当に昔と変わらず……。
そこで千咲はすべての動きを止めた。いや、止めざるを得なかった。
だが思考だけは徐々に動き始める。
(え……え? ちょ、ちょっと待って……私、今……誰の声を聞いた……の?)
有り得ないと思いつつも、聞き間違いなど有り得ないと心が否定する。何故ならそれは三年前にもずっと耳にしていて、ずっと心待ちにしていた音だったのだから。
しかしそんなバカなという気持ちも込み上げている。何せ今までそんな兆候など一切なかったのだ。
医者である母が精魂を注いで研究しても原因すら分からなかった。それなのに前触れも何一つない状況で急に……。
だがそれでも千咲の胸中は不確かではあるものの、湧くほどの希望に支配されていた。もうロードワークどころではなかった。
弾かれるように玄関から飛び出し、トイレへと向かう。ノックをするが、反応は返ってこない。するとキッチンの方へ物音がした。
すぐにキッチンへ向かうと、そこにはちみつジュースを飲もうとしている音々呼の姿があった。
「っ……ね……音々呼?」
表情を強張らせている千咲が急に現れたからか、明らかに驚いている様子の音々呼。
千咲は構わず大股で音々呼の前まで行き、その肩をグッと掴む。
「ね、音々呼? さっき……喋らなかった?」
その問いに対し、音々呼はタブレットを探すようにキョロキョロとするが、
「違う! お願い! 喋ってみて!」
真剣な眼差しをぶつけながら言う。
その気迫に物怖じしてしまったのか、音々呼は不安そうな顔をする。そして――。
「あ……お、おねえ……ちゃん?」
か細い声。絞り出すような声だった。それでも確かにその音は千咲の耳から脳へと伝わったのである。直後、まるで雷に打たれたかのような衝撃が千咲の全身に走った。
「う、嘘……ね……音々呼……音々呼ぉぉぉぉっ!」
感情のままに声を上げ、愛する妹をギュッと抱きしめる。また音々呼もそこで自分が声を出せたことに驚いている様子。恐らく先ほどは寝ぼけてしまっていて無意識だったのだろう。
そこへ――。
「――ったく、何だいバタバタギャアギャアとうるさいじゃないか」
母である舞香が不機嫌そうな表情で顔を見せた。
「お、お母さんっ! あ、あのね! 今その、だから、あの、音々呼がね、今ね――」
「あーはいはい、いいから落ち着きな。何をそんなに慌ててんだい。ほら、音々呼も困ってるじゃないか」
姉で千咲の興奮ぶりに戸惑いを見せている音々呼。そんな妹から少し離れると、自分が経験した奇跡の瞬間を説明し始めた。
ただ当然ながら、音々呼が喋ったという事実をそのまま受け止めることはできないようで、椅子に座っている音々呼に近づき、努めて優しく問い質す。
「音々呼、千咲の言っていることは本当かい? 本当なら喋ってみてくれないかい?」
舞香のその表情は、不安だけでなく期待も込められていた。千咲が嘘を言う子だとは思っていないからだ。しかしながら勘違いということもあり、自分の目で、耳で確かめたいと思っているのだろう。
そして二人の視線が真っ直ぐ音々呼に向けられるなら、音々呼の小さな口がゆっくりと開く。
「…………お……かあさん……」
「っ!? ……も、もう一度……言ってくれないかい?」
「おかあ……さん」
その直後、感極まったかのように音々呼を抱きしめる舞香。その顔はすでに大量の涙に覆われていた。
するとその涙に呼応するかのように、音々呼の目からも涙が流れ始め、それが堰を切ったかのように激しい泣き顔へと変わっていく。そんな二人を見て、千咲も横から二人を抱きしめて一緒に涙を流す。
そうしてしばらく富士河家には嗚咽が響き渡った。しかしそれは悲しいものではなく、歓喜と祝福に満ちていた。
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