ROUND 4

第19話 死神 vs コンプライアンス①

 ……目が覚めると、まだ夜明け前だった。


 カーテンの向こうは暗く、いつの間にか蛙や夜鳥の鳴き声も聞こえなくなり、シン……と静まり返っている。薄目を開けたその先に、ぼんやりとデジタル時計の蛍光色みどりが見えた。4時44分。何だかタイミングが悪いな、と思い、寝返りを打とうとして……体が動かないことに気がついた。


 金縛りだ。


 ぼくは息をのんだ。初めての経験だった。手も足も、首すらも動かせない。そういえば寝る前は豆電球を点けていたはずなのに、いつの間にか消えている。部屋の中は静かすぎるくらい静かだった。何だか嫌な予感がして、ぼくはお腹の辺りがぎゅうっと締め付けられるのを感じた。


 4時44分。


 時計の表示から目が離せない。ベッドの下に何かいるような気配がして(大抵は勘違いなのだが)、ぼくは思わず泣きそうになった。だけど、助けを呼ぼうにも声すら出そうにない。息が苦しい。瞬きするのも忘れて、ぼくは暗闇の中ただ一点を見つめ続けた。


 4時44分。


 ……さっきからずっと、4時44分のままのような気がする。おかしい。もう1分以上は経っているはずなのに、全然45分にならない。時計が壊れてしまったのか、それとも……心臓の音がどんどん早くなって行くのが、自分でも分かった。その時だった。蛍光色の4の文字を遮るようにして、すぅっ、と黒い影がどこからともなく現れた。


「ひ……っ!?」


 


 決して勘違いなどではなかった。明らかにぼくの目の前に、誰かが立っている。誰か? 人間じゃない。自然と粟立あわだつ肌で、ぼくはそれを感じ取った。人間だったらこんなに、冷気を発しているはずがないもの……!


『……テ』

「……!」

『……テ……キテ……』

「ひぃ……!?」


 黒い影がぼくを見下ろし、ボソボソと何事か囁き続けている。声質から、どうやら女性のようだった。だけどもちろんお母さんでも、お姉ちゃんでもない。聞いたこともない女の人の声だ。一体何と言っているのか?

 

 やがてゆっくりと、黒い影がぼく覗き込むように顔を近づけてくるのが分かった。逃げ出すことも、助けを呼ぶこともできず、ぼくは目に涙を浮かべた。


『キテ……ナイデ……!』


 雑音のようにくぐもっていた声が、次の瞬間突然はっきりと、ぼくの耳元で響いた。


『生きて……死なないで……』

「え……!? えっ!?」

『応援してます。これからも頑張ってください』

「……逆に怖い!」


 ぼくはとうとう気絶した。次に目が覚めた時、豆電球は点いたままだった。時計を見ると、7時過ぎだったし、黒い影は部屋のどこにも見当たらなかった。


「悠介、アンタ目の下にクマができてるわよ」

「うぅ……」


 黒い影はそれからも度々、ぼくの前に現れるようになった。毎回毎回、決まって4時44分だ。どう言うわけか、その時間になるとぼくは決まって目を覚まし、そして毎回毎回、ベッドの上で金縛りに遭っている。


 その時はいつも、部屋はまるで墨汁をこぼしたみたいに真っ黒で、何の音も聞こえなくなる。たとえどんなに電気を点けて寝ていても、何者かに消されてしまっているのだ。一体何者か? 分からない。分かっているのは、見知らぬ女性の、幽霊だと言うことだけだ。おかげですっかり、ぼくは最近寝不足になってしまった。


「何か悩み事でもあんの?」

 お姉ちゃんがパンにイチゴジャムを塗りたくりながら、他人事のように聞いてきた。

「実は……」

 ぼくは眠い目を擦りながら、幽霊のことを話して聞かせた。件の幽霊は毎回、ぼくの枕元に立ってはうつろな目でぼくを見下ろし、ボソボソとこう囁き続けるのだ。


「『負けないで』とか……『希望を捨てないでね』とか……毎回毎回、幽霊がぼくを励ましに来るんだ」

「呪いじゃんそれ! アンタ、呪われてるわよそれ」


 お姉ちゃんがたちまち目を輝かせ、嬉しそうに笑った。弟が呪われていることが、そんなに嬉しいものだろうか?


「アンタが悪いわそれは。何か呪われるようなことしたんでしょう? 何したの? 白状しなさい!」

「してないよ! ぼく、ほんとに何も……!」

「フゥン……まぁでも、励ましに来るんなら別に良いんじゃない? 害はないんでしょう? ほっとけば?」

「良くないよ……もうずっと寝不足なんだから」


 幽霊にまで励まされるだなんて、一体ぼくはどんな呪いを受けてしまったんだ。


「ね……私が占ってあげようか?」

「いや、良いです……」


 お姉ちゃんは最近占いにハマっているらしく、いつもぼくを捕まえては占ってこようとする。だけどぼくは正直あまり占いが好きではなかった。お姉ちゃんは毎回毎回、最低最悪の結果を占って……ぼくを怖がらせるのが趣味なのだ。


「分からないことがあったら、chatGPTに聞くから」

「何よ! 現代っ子! アンタ死ぬわよ」

「まだ占ってないじゃないか!」

「アハハ……そんなに不安なら、一度お祓いでも受けてみれば?」


 笑顔で死の宣告をされ、怖くなったぼくは、その日稲荷神社に向かったのだった。


「ふむ。じゃあ一度、その女の幽霊とやらをここに呼び出してみようかの」

「そんなことできるの!?」


 稲荷神社に行くと、コックリさんが得意げに胸を張った。


「当たり前じゃ。ワシを誰だと心得ておる。降霊術など朝飯前よ!」

「でも……誰に降すの?」


 降霊術というからには、霊の受け皿……依り代みたいなものが必要になる。今回は女性の幽霊と言うことで、いるかちゃんに協力してもらうことにした。


「大丈夫なの? 幽霊なんかに取り憑かれて……風邪引いたりしない?」


 16時44分。社の中央で正座したいるかちゃんが、不安そうな顔で尋ねた。


「唇が紫色になったりしたら嫌だわ」

「大丈夫大丈夫……多少、お肌が青白くなるかもしれん」

「まぁ……そう言うことなら」


 それからコックリさんは白い紙のついた棒を振りながら、いるかちゃんの周りで、珍妙なダンスを踊り始めた。ぼくはその間、ドンドコドンドコと、適当に太鼓を叩き続けた。いるかちゃんの膝の上で、猫が煩そうに耳をぴくぴくさせた。果たしてこんな時間から、幽霊が降りてきてくれるのだろうか? ぼくは腕時計を覗き込んだ。16時44分……気のせいだろうか? さっきから時間が止まっているような……。


ーッ!」


 やがてコックリさんが、何を思ったのか突然叫び声を上げ、棒を天井に掲げた。

「お……!」

 するとどう言うことだろう。どこからともなく白い煙が立ち込め始めたではないか。白い煙はたちまち社の中を埋め尽くし、まるでヴェールみたいになって、中央にいたいるかちゃんを覆った。魔法少女の変身シーンみたいだ、とぼくは思った。目のやり場に困るけど、どう言うわけか目が離せない。


「おぉ……!」

「ゲホ、ゴホ……!」


 やがてゆっくりと霧が晴れていく。いるかちゃんは正座したまま、ガックリと項垂れていた。


「……成功したの?」

 美肌効果があったようには見えない。ぼくらが固唾を飲んで見守っていると、やがてゆっくりと、いるかちゃんが垂れていた頭をもたげ、

『……ここはどこ?』

「おぉ!」

「成功じゃ!」


 か細い声を上げながら、いるかちゃんが……その中にいる女の幽霊が不安そうに小首をかしげた。

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