第6話君の名を僕はまだ知らない その2
不意に俺の中で疑問が生まれた。これだけ仕事でも付き合いがあるのに、思い出せない。本当にもう、かすりもしないのだ。
たしか……こんなんだったよな?
みたいなのも全く浮かんでこない。下の名前元からあった? ってレベルだ。たまに苗字があだ名になる人っているけど、多分乙成もそのタイプの人間だ。学生時代のクラスTシャツも、みんなニックネームになっている所で、乙成だけ苗字だったんだろうなぁ。
まぁ、俺も似たようなもんで、クラスにもう一人前田が居たから、気が付けば勝手に前田(廉)ってなっていたが。クラスの主導権を握っている女子の圧が怖くて意見なんて出来なかった。
暗い過去を思い出した所で、乙成だ。なんやかんやで朝霧さんとは結構話すみたいで、今も朝霧さんからたこワサを勧められて食べてる。ワサビ苦手なのか? ゾンビが身悶えながら食べてる姿が、ちょっと面白い。
「なんやぁ! 前田、元気ないやないか。飲んどんのか?」
すっかり出来上がりつつある北見部長が絡んできた。それにしてもこの独特なイントネーションの関西弁がいつも気になる。本場の関西人が聞いたらバカにしてる? って感じるレベルだ。こんな話し方しているけど、本当は所沢出身って知ってるんだぞ。
「お前なぁ、一番下っ端なんだから、みんなの料理盛ったりせぇよ!」
出た。
「はは……うっかりしてて……サラダ取り分けますよ」
「あぁ、俺トマト食われへんから退けといてなぁ」
俺がいそいそとサラダを取り皿に取り分けている途中で、呑気にスマホをいじりながら北見部長は言い放った。なんだよトマト食われへんって。そんなナリして子供みたいな事言っているのが腹立つ。トマトの方も、あんたにそんな事言われてびっくりした事だろうよ。
「滝口ィ、お前先輩なら前田をちゃんと教育せなあかんでぇ」
滝口さんも笑って誤魔化しているが、苛ついている。仲良くやってる様に見える二人だが、滝口さんはめちゃくちゃ北見部長が嫌いだ。でもキャバクラに連れてってくれるし、ケチではないから仕方なく遊ぶらしい。北見部長は程よく滝口さんに持ち上げて貰えて気分良く酒が飲めるし、滝口さんもタダで遊べるから、二人とも丁度良い所で互いの利害関係が一致しているのだろう。
「前田はホンマに男らしくないなぁ、そんなんやったら、女も出来へんやろ?」
余計なお世話だ。こんな偉そうにしてるけど、キャバクラで女の子に「かげち〜って呼んで」って言っているのいつかバラしてやる。
「部長、前田くんはちゃんといますよ?」
「ホンマか朝霧!」
北見部長がめちゃくちゃ食いついて前に乗り出した拍子に、テーブルの上に置いてあったグラスの一つが傾き倒れた。全く、どこまで世話を焼かせるんだこのハゲは。
朝霧さんが含みのある笑みを浮かべてこちらを見ている。まだ乙成との事を勘ぐっているのか。
ここで俺がめちゃくちゃ否定する事は容易い。しかし、好意はないとは言え、めちゃくちゃに否定されたら、流石に乙成も傷付くのではないか。腐っても女の子なんだし。いや、比喩的な意味じゃなくて。
「前田さんと私は、皆さんが思うような間柄ではないですよ」
俺がモヤモヤと考えていたら、乙成が珍しく発言した。周りのみんなも驚いたのか、一斉に乙成に注目した。
「前田さんは、私のある問題を解決してくれる為に協力してくれている、最重要人物なんです」
「乙成ちゃん、それってどういう意味?」
やけにかしこまった雰囲気の中、朝霧さんが乙成に質問した。北見部長も黙ったまま乙成の事をジッと見ているし、滝口さんはマジで分からんと顔に書いてある。
てか、おいおいまさかここでゾンビの話をするつもりじゃ……?
「実は、私のゾンビ化を食い止め浄化する為に、私の好きなキャラクターの声を演じて貰っているんです! そうしないと私の体はどんどんゾンビ化が進み、最後はきっと、本当のゾンビになってしまうんです!」
言っちゃった……。漫画や小説ならともかく、リアルでそんな事言ってたら本気でイカれてると思われるぞ。
俺はみんなの顔を順番に見た。皆一様に黙っている。
「…………」
「…………」
「……?」
滝口さんだけなんか良く分かっていない顔をしているけど、これはマジでヤバい。張り詰めた空気が、周りの席から聞こえてくる騒がしさと相まって最高に気まずいし、おまけに薄ら寒い。この個室の中だけ冷房効いてない?
「「プハッアハハハ!」」
「……へ?」
突然のみんなの笑い声に、俺は拍子抜けして変な声が出た。
「乙成ちゃんそれ何の冗談ー? 最高なんだけど!」
「なんか変わった子やなって思っとったけど、おもろいなぁ!」
「ん? ゾンビ? なんかよく分かんねぇけど、乙成って天然なんだな!」
「え? え? 私本当の事……」
良かった、みんなアホで。
ではなくて、なんか知らないけれど、みんな何故か冗談だと思ってくれたみたいだ。本気で話した乙成は、なんでみんなが笑っているのかよく分かっていないみたいだが。
乙成の告白により、俺達の不純異性交遊疑惑は完全に流れた様だ。お陰で変に絡まれる事ももう無いだろう。
そんなこんなで、二時間に及ぶ飲み会は一旦お開きとなった。滝口さんと北見部長はこのままキャバクラに行く様なので、俺達三人は挨拶を済ませると駅に向かった。
「じゃあ私こっちだから〜お疲れ」
「お疲れ様です」
軽く酔っ払ったのだろうか、朝霧さんは少しふわふわした状態で、俺達とは違う路線のホームに向かって行った。聞くと自宅から会社まで二時間近くかかるらしい。今から千葉の何処ぞやかまで帰るのだろう。お疲れ様です。
「なんか色々ありましたね。前田さんは全然酔ってないみたいだけど、お酒強いんですか?」
帰りの電車の中で、乙成が口を開いた。最初は嫌がっていたのに、案外楽しかった様だ。
「いや、ああいう場ではなんか酔っ払えないんだよな、気使うからかもしれないけど。それよか、やっぱ参加して良かったよな?」
「うーん……たまになら良いかもですけど、毎回これは嫌です! やっぱり家で推しを愛でている方が何倍も有意義ですよ!」
もうすっかりいつもの乙成に戻っていた。でも少しでも乙成が、外の世界と繋がりを持てたのなら無理矢理連れて行った甲斐があった。
満員電車とまではいかない車内で、乙成はしみじみと考える様に会話を続けた。
「それにしても、前田さんに演技の才能があったなんて……二年も一緒に働いてきていたのに盲点でした。素人童貞なのには驚きましたけど」
「は?! なんでそんな事知ってるの?!」
「さっき居酒屋で滝口さんが言ってました。前田さんがトイレに行ってる間に」
クソ、滝口め。普段は心の中でもちゃんと「さん付け」するが、今日という今日は許さん。来週出社したら、まず真っ先に滝口の引き出しに、奴の嫌いなイカ製品を敷き詰めておこう。
「でも、あの水瀬カイトさんの声に瓜二つなんて、本当に凄い事ですよ! その事実だけで大勢女性を囲っていてもおかしくない程なんですから!」
「やめろ滅多な事を言うな! 怒られる! その水瀬って人は、そんな凄いんだ?」
乙成が冗談でも言っちゃいけない社会の闇に触れた所で、俺は話題を変える為に水瀬カイトについて聞いてみる事にした。
「もう凄いなんてもんじゃないですよ! 顔良し声良し性格良しの完璧人間なんです! 蟹麿を演じた当初は大学生だったそうです、それでめちゃくちゃ人気が出て、本格的に声優業に専念する様になったとか。今はそのルックスで、俳優やモデルもやったりしている様ですが、やっぱり声のお仕事が一番思い入れがあるって、自分の原点なんだって、自身の配信で話していて、リスナー全員涙で画面が見えなかったとか……かく言う私も、リアルタイムで見れなかったので、アーカイブで見ていたら、なんか色んな思いが溢れて涙で画面が歪みました」
「へ、へぇ〜なんか、かなり熱量の高いファンが多いんだね」
ドン引きって際限ないんだな。こう何度もこの手の話を聞かされていれば、慣れるかと思ったのに。乙成が涙で画面が見えなくなった時の話を聞いている内に、いつの間にか乙成の普段利用している駅のホームに降り立っていた。
「あ、あれ? 前田さんまだ降りないですよね? 私と一緒に降りちゃって良かったんですか?」
「なんかつい流れで降りちゃった……。まぁ一駅だし、歩くよ。ついでに送ってく」
乙成はお礼を言うと、またいつものオタクトークに戻った。夜道は危険だから、ちゃんと送り届けないと。通りすがりの人が腰を抜かす。
「そう言えば、さ」
「はい?」
「あの台本の事だけど、主人公の名前のところ、お前とか君とかばっかりじゃん? やっぱ名前で呼ばれたいとか思わないの?」
「あぁ、まろ様全集の事ですね? 確かに名前を設定しても、あのゲームに名前を呼んでくれる機能がないのでどうしても君とかお前呼びになっちゃうんですよね……もしや! ななな名前で読み上げてくださるのですか?!?!」
乙成は興奮して変な喋り方になっている。やっぱり名前呼びってそんなに良いものなのか。
「乙成がそうしたいんだったらって話ね、てか乙成って下の名前なんだっけ?」
「……え? 二年も働いて来たのに知らないんですか?」
「う……悪い、すっかりど忘れして……」
俺が平謝りすると、乙成は頬を膨らませて不機嫌そうに歩き出した。俺が声をかけあぐねていると、不意に立ち止まって振り向きざまに俺の方を見て口を開いた。
「私はちゃんと覚えてますよ? 朝霧美晴さんに、北見景親部長、滝口雅美さんに、それと、前田廉太郎さん。……ね?」
乙成は何処か寂しそうな顔をして俺を見た。外灯に照らされた影がユラユラと動くと、俺と乙成の間には、遠くで吠える犬の鳴き声と消えかけの外灯のパチパチという音くらいしか耳に入らなかった。
「乙成……俺……」
「あいり」
「え?」
「私の名前は、乙成あいりです。前田廉太郎さん、よろしくお願いします」
そう言うと、乙成は右手を差し出し握手を求めた。俺がおずおずと自身の手を差し出すと、乙成はにっこり笑って、その灰色の温かい手で俺の手をしっかり握り締めた。
「私のお家ここなんで! じゃあ前田さん! 来週から名前呼びでお願いしますね!! ちゃんと週末お勉強するように! お休みなさい!」
乙成は手を振って、自身の住んでるアパートの階段を駆け上がって行った。残された俺は、相変わらず何処かで吠えている犬の鳴き声に耳を傾けながら、少し冷える秋の空気を体中に感じた。
「……歩くのだるいな。タクシー呼ぼ」
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