第6話
――あかねちゃん。
私を呼ぶ声。幼馴染の加奈子は、私の根幹の象徴だった。
加奈子と知り合ったのは、私が私になる前。私が自分を茜と知った時には、私は加奈子を加奈子だと知っていた。加奈子は一人じゃ何にも出来ない子だった。すぐに泣いて、私の袖を掴む。先生に指名されたら泣く。グループが私と外れたら泣く。とにかく泣いた。泣けばいいと思っているの、と加奈子の母親が加奈子に言う。加奈子がそう思っていない事くらい、私は知っていた。大人も周りの子も知らない加奈子のことを、私は知っていた。加奈子は、よく私の手を握って言った。涙と鼻水が私の手に落ちた。
「できない、こわい。でも、本当はわたしもやりたい、でも、うごけない」
母さんに言っても、弱虫って言われるだけだから、そう言って私にだけ教えてくれた。私は加奈子の手を握って、大丈夫、かなだって出来るよ、あかねがついてるでしょ――何度も繰り返した。
そう、私は私をあかねと呼び、加奈子をかなと呼んでいた。加奈子は、私を今でも茜ちゃんと呼んでいる。
加奈子の事は、どう思っているのかわからない。友達とも違う気がする。後でできた友達と、どう考えても加奈子は違う存在だった。ただ、ずっと一緒だった。ずっと私が面倒を見てきた。加奈子が、ずっと私についてきたのだ。
「あかねちゃんとはなれるのやだぁ」
加奈子は本当によく泣いた。鬱陶しい時もあった。私だって、辛くって怖い時だってある。でも、加奈子にはそれを見せられなかった。私が一緒になって泣こうものなら、皆にがっかりされるから。加奈子の親も先生も、私の親も皆しっかりした強い私を望んでいた。私がしっかりしていれば、皆褒めてくれるし、自慢の子になれる。そう思っていた。
「あら、そんなことないわよ。うちの子、家では何にもしないの」
かなこちゃんは、お手伝いいっぱいして、優しい子よね――母が加奈子の母にそう言った。――そんなあ、加奈子は他に何もできないから、茜ちゃんはいっぱいお習い事してるもんねえ――加奈子の母はそう続け、私に首を傾け聞いた。私はとりあえず笑って頷いた。加奈子の母は、加奈子の事をよく悪く言った。優しい人だと思っていたけど、親の話がわかってくると、この人が話す時は妙に空気がねっとりして、居心地が悪くなった。きっと私を褒めるのと、同時に加奈子をけなすせいだ。その割に、加奈子が褒められた時は悪く言いつつ声が甘ぁくなってぞっとした。でもこの時は母の言葉の方が気になった。
私はいい子でいたつもりだったけれど、母にとってはそうじゃなかったらしい。習い事も加奈子の面倒を見るのも頑張っているのに。少し呆然とした。温かなものが逃げて行ってしまう、いや、そもそもそこには何もなかったかのような気持ちになった。少し落ち着かない気持ちで加奈子を見た。加奈子はモンシロチョウを見ていた。
家に帰って、私は母に聞いた。――私、何もできていない? ―― 加奈子よりできていないの、この言葉はのみ込んだ。振り返った母は眉を不快そうに顰めていた。
「そうね。あんたはなんでもできるけど、優しさがないのよねえ」
この間だって、私が疲れてるのに何にも気付かなかったし――そこから言葉は続かなかった。大きなため息を吐き出し、母は洗面所へ向かった。明りを点けるには中途半端な午後の居間は薄暗かった。窓からだけ少し光が入っていた。母の大きな足音と、やけに響く水の音を聞きながら、私はそこに立ち尽くした。
とりのこされた、そんな気がした。
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