30-5 まなざしが含む熱 同僚の鍛錬

 どんなに眠くても、アンジェは剣術部の朝練に参加するようにしている。雪が降りしきるような冷え込む朝も、部員と同じジャージに素足で鍛錬に挑む。フェリクスは相変わらず毎回顔を出して負荷運動と型稽古の相手になった。ルナの方針で、剣術部での稽古の時はライトニングダッシュをはじめとした魔法による補助は一切使わない。それは対戦相手であるフェリクスに手の内を明かさないためでもあるが、何よりアンジェの身体を物理的に鍛えるためでもあった。自分を打ち倒そうとしているアンジェに対するフェリクスの視線は変わらずに優しく、背中を押し、間違った型を直す手は大きく温かだ。アンジェはその度に先日のお詫びのケーキ会でのフェリクスの言葉を思い出し、胸の奥がぎしりと軋んだ。


「フェリクス様、あの……」


 朝練のメニューが全て終わり、部員と共に清掃をしながら、アンジェはフェリクスを見上げる。


「昨日、王宮ではイザベラ様にお会いになりましたか?」

「イザベラ? そういえば夕食の席にいなかったな。彼女がどうかしたのかい」


 同じくモップで床掃除をしているフェリクスは不思議そうに首を傾げると、アンジェは眉間にしわを寄せて俯いた。


「いえ……昨日の午後、ご気分がすぐれず早退なさいましたの。わたくし、心配で……」

「そうだったのか……今日は来るのかな?」

「……それは聞いておりませんの」

「そうか……」


 王宮は広く、王族ひとりひとりに侍女や秘書や典医など必要な人員が配置されている。生活全般や日常的な用事はすべて各人の私室に必要な機能が備わっているため、親子や従兄妹の間柄であっても何日も顔を合わせないこともたびたびある。だからこそ国王ヴィクトルは、王族は出来る限り夕食を一緒に食べることと定め、血族の絆をより強固なものにしようとしているのだ。夕食に顔を出さない王族がいたとして、そのことについて誰かに尋ねたりしなければ、その人物がどこでどのように過ごしているのかを意識することもない。フェリクスがイザベラの動向を知らないのは当然のことであったが、それでも王子はアンジェに対して申し訳なさそうな表情で言葉を続けた。


「アンジェ、君が心配するのも最もだ。僕も従兄として彼女が心配だよ。今日アカデミーに来ていたら様子を見て、もし休んでいるようだったら一緒にお見舞いに行こう。イザベラも可愛がっている君の顔を見れば気分が違うだろう」

「ええ……」

「大丈夫だよ、アンジェ。イザベラはここしばらく忙しくしていたようだから、疲れが出たんだろう」


 事情を知らないフェリクスの励ましは、水に張った薄い氷のように今にも踏み潰されて割れてしまいそうだった。イザベラとクラウスの間柄について、当然と言えば当然、フェリクスには知らされていないだろう。今日イザベラが休んでいたとして、事情を知らないフェリクスと共にイザベラを見舞ってもよいものだろうか? 朗らかで常に前向きで物怖じせず、どんな困難も挫けず克服していくフェリクス。祥子の言葉ならば生粋の陽の者というらしい。秘密の恋の終わりの痛みを胸に抱える少女にとって、その眩しさは毒にならないだろうか? そんなことを考えているうちに床磨きが終わったころ、鍛錬場の入り口にストロベリーブロンドがひょこりと覗いた。


「アンジェ様、みなさん、おはようございますっ!」

「……リリィちゃん」

「おはよう諸君、精が出るな」


 リリアンに続いて顔を覗かせたのは、コートに身を包んだルナだった。アンジェの感覚では常のルナよりも声が大きくハリがあり、鍛錬場内に自分の登場を知らしめんとしているかのようだ。実際、ルナの声を聞いて、部長ガイウスと部員数名がびくりと身体を震わせるのがアンジェの視界の隅に入る。当然それはルナも確認していたようで、クックッと笑いながら靴を脱ぎ、靴下で鍛錬場に入ってきた。リリアンも慣れた様子で靴を脱いでその後に続く。


「おはよう殿下、アンジェの子守とはご精が出ますな」

「おはようルネティオット」


 ニヤニヤと笑いながら声をかけられたフェリクスは、いつものように仏頂面になるのではなく、素直な称賛をその端正な顔に浮かべた。


「アンジェは目覚ましい成長ぶりだよ、ルネティオット。部活以外の指導は君がしているのかい」

「んー、まあな。それだけじゃないが」


 ルナはアンジェの方をちらりと見ると、ニヤリと口の端を挙げながらウィンクして見せた。エリオットとのライトニングダッシュの練習が、アンジェの物理身体能力フィジカルにも影響を与えているということなのだろう。リリアンにもその意図が伝わったらしく、少女は頬をつやつやさせながら得意げな顔でアンジェを見上げている。


「筋肉は負荷運動をするにつけついてくるものだが、これほど早く型を習得できるとは、正直驚いているよ。僕ものんびり構えてはいられないな」

「ありがとう存じます、フェリクス様。この勢いで追い抜けると良いのですけれど」

「それはどうかな、そうやすやすと負ける僕ではないよ」

「お前、そういうが、アンジェは……」


 アンジェの成長についてルナとフェリクスが口論を始めたあたりで、アンジェはフェリクスの手からモップをそっと引き抜くと、自分のと合わせて掃除用具入れにしまいに行った。部員ではなく王族のフェリクスは掃除をしなくても咎められることはないのだが、アンジェがするならと自分からモップを手に取り、ニコニコしながら塵一つ見逃さずに掃除をした。アンジェも当然綺麗に掃除をしたが、掃除の仕方など誰からも教わっていないはずのフェリクスがこんなにも見事に仕上げるのは、ひとえに几帳面な彼の性格の表れだろうなと思う。モップを清掃用具入れにしまい終え、鍛錬場の入口あたりを振り仰ぐと、ちょうどガイウスも自分のモップをしまいに来たところだった。


「ヴェルナーさん、今朝もお疲れ様でございました」

「ああ、お疲れ様です、セルヴェールさん」


 アンジェのあいさつに、ガイウスもぎこちないながらも微笑み返す。


「どうですか、ここしばらくは」

「はい、ようやく負荷運動になんとかついていけるようになったと思っておりますの。まだまだ形ばかりですけれど、自分の成長が回数で分かる分、励みになってよいですわね」

「確かに。鍛錬の量は自分を裏切りませんから」


 ガイウスはジャージ姿も板についてきたアンジェをまじまじと見つめると、こほん、と咳払いをする。


「それで……そろそろ、ご自身の剣を作ってみてはどうかと思うのです」

「自分の……剣?」

「はい。木刀や竹刀ではない、金属製の真剣です。大抵の部員は剣術試合の規定に即した剣を作ることにしています」

「まあ……わたくし、もう、本物の剣を触れるようになりましたの……?」


 アンジェが驚くと、ガイウスは深く頷いて見せた。


「もちろん今後の成長と、鍛冶にかかる時間を見越してではありますが……この二か月あまり、貴女の努力には目を見張るものがありました。ご多忙で出席できない日があった時、俺はそのまま、復帰せずにお辞めになってしまわれるのだろうと……貴女を見くびっていました」

「まあ……よろしいのよ、誰もがそう思うことでしょう。ここしばらく予定の重複が酷くて、ご迷惑おかけしてしまって申し訳ありません」

「ああ、いや」


 アンジェが頭を下げるとガイウスはうろたえ、それから慌てふためいてアンジェに手を差し出したが、触れることが出来ずにその手を虚空で持て余した。


「顔を上げて下さい、そういうつもりで言ったわけではないんです」

「そのおつもりがなくても、わたくしが謝意をお伝え申し上げたかったのですわ」

「ああ、はい、その……分かりましたから。顔を上げて下さい、調子が狂います」

「はい」


 アンジェが顔を上げると、ガイウスは深々とため息をつき、それからもう一度咳払いをした。


「俺はご覧の通り、色恋には疎いですが……セルヴェールさんがスウィートさんを想い、そのために鍛錬に励む姿に心打たれました。俺もいつか貴女のような……困難に直面しても決して諦めない武人となって、王国と大切な人のために剣を振るいたい」

「ヴェルナーさん……」

「自信を持ってください。貴女はきっと強くなる。俺と剣術部一同は、貴女を応援しています」


 うまく微笑むことが出来ないらしいガイウスは、仏頂面にも見える真剣な表情でそう言った。だがアンジェには、その濃茶色の瞳が細められ、優しい光を宿したことが分かる。剣術部部員が、ちらちらとこちらに柔らかな視線を投げかけてきているのを感じる。


(なんて……率直な、励ましの言葉でしょう)

(ご自分のほうが……身体も、技術も、卓越していらっしゃるのに……)


 入部を申請した時の彼の怪訝なまなざし、全身が悲鳴を上げるような厳しい鍛錬、それから新年祝賀会のフェリクスの怒りに満ちた眼差しが一気に思い出される。


「……ありがとう、存じます。何よりの励みです」


 零れそうな涙を誤魔化してアンジェが微笑むと、ガイウスも頷き──次の瞬間、血相を変えたフェリクスがガイウスの肩にがっちりと腕を回した。


「やあガイウス清々しい朝だね今朝もいい稽古だった、僕の婚約者であるアンジェリークもしっかり精進したようだよ彼女に何か用かい?」

「で、殿下」

「分かる、分かるぞガイウス、君の気持ちは……こんなにも美しくたおやかなアンジェがひたむきに鍛錬しているさまを間近に見ていて、どうかしないほうがどうかしているというものだ、けれど心の内でどうかするのと、彼女に触れていいかどうかとはまた話が別なんだ、申し訳ないけれど弁えてもらわないことには困るんだ、ガイウス、分かるな? 間違いが起こる前に怪しい芽は摘んでおかないといけないんだ、分かるな?」

「アンジェ様っ」


 フェリクスはニコニコしつつも早口すぎる早口でガイウスの耳元で囁き続け、呆然としているアンジェの腰にはリリアンがぽふりとしがみついてきた。いつかのように怒りに眉根を吊り上げて──巣穴に蛇が入っているのを見つけたリスのようにすさまじい顔でぎろりとガイウスを睨み上げる。さしものガイウスも小動物リリアンの殺意溢れる眼差しにはたじろいだ。


「殿下ぁ……」

「何だいリリアンくん、我が同志よ」

「……私の気持ち、聞いていただけますか」

「いいとも、思いの丈を叫ぶんだ!」

「……剣術部部長だろうと誰だろうとアンジェ様に触らないでっ、私のいないところで可愛い顔させないでくださいっ!」

「そうだ、そうだともリリアンくん! ここは僕らが手を取り合い協力してアンジェを守らなければ!」

「はいっ!」


 フェリクスとリリアンは互いの顔をしっかり見るとうんうんと頷き、それぞれ手を差し出して、パアン、と小気味良いハイタッチを決めて見せた。リリアンにしがみつかれたアンジェは呆れて白目をむきそうになったが、目を瞬かせながら一同を見比べていたガイウスは、我慢しきれない様子でニヤリと笑い、慌てて自分の口許を隠した。


「殿下、スウィート嬢、ご心配なく。セルヴェールさんの剣について話していました」

「そうか、アンジェの剣……確かにそろそろ考えてもいい時期だな」


 フェリクスは我に返ってガイウスを拘束から解放した。リリアンはまだきょとんとしているが、アンジェにしがみつく力はますます強くなる。


「アンジェの剣ならもう私が考えてるぜ」


 顔を覆っているルナが四人の許に歩み寄ってきて、肩を震わせつつもそう告げた。


「殿下に手の内を明かすわけにはいかないがな」

「……そうか。お披露目の日を楽しみにしていることとしよう」

「それより殿下、姫御前は今日は休みなのか? 何か聞いてるか」


 フェリクスはルナがつっかかってこないことに拍子抜けし、次いで困惑してちらりとアンジェの方を見た。アンジェもルナの問いに対する答えを持っておらず、ただ首を振るしかできない。ガイウスとリリアンが訳も分からずに首を傾げる中、フェリクスはゆっくりと首を振って見せた。


「特に聞いていないよ。……アンジェから、昨日は具合が悪そうだったと聞いたところだ」

「ああ……なんか、熱があるんだろ? それは聞いた」

「何だ、君も心配してるのか? 放課後アンジェと一緒にお見舞いに行くかい」

「それもいいかもしれんな」


 ルナはいつもよりも上の空で、笑いの波もすぐに引いたようだった。顎に当てた手はそのままに、どこを見るでもなく考え事をしている様子を見て、アンジェはリリアンと顔を見合わせる。くっついて離れようとしない恋人は、アンジェと目線が合うと、小さく可愛らしく微笑んでみせる。


「アンジェ様?」

「……リリィちゃん」


 リリアンの頭頂部をそっと撫でながら、アンジェはルナをじっと見る。先日アンジェが剣術部に入部希望を出した時、ルナとイザベラがその場に立ち会ってくれた。その時、ガイウスはルナは男同然だ、と発言をして、それがイザベラの不興を買い、発言者のガイウスはスレンダーモデル体型の踊り子コスチュームの衝撃に晒されることとなってしまった。


(あの時のイザベラ様は……ルナが馬鹿にされたと思って、お怒りでいらした……)

(それは、間違いないと思うのだけれど……)


【……ルナにはこのことは知らせないで。余計な心配をかけてしまうわ】


 止まらない涙と共に呟いた王女の声が、ルナの笑い声に被さるように脳内で想起される。アンジェは当然のように、ルナとイザベラが前世と同じ関係性なのだと思い込んでいた。それほど二人は親密で心を通わせている、少なくともアンジェには、アンジェの中の祥子にはそう見えていた。


「イザベラ様、お加減がよくないんですか?」


 紫の瞳をくりくりさせて尋ねてきたリリアンに、アンジェは眉をひそめながら頷く。


「そうなの。昨日も早退なさって……」

「わあ、大変。どうなさったんでしょう」

「……どうなさったのかしらね……」

「私今日お約束してるんですけど、別の日かなあ。私もお見舞い行きたいです」

「……そうね……」


(気落ちしていらっしゃるのは分かる……)

(けれど……ルナやリリィちゃんを、連れて行って、大丈夫かしら……?) 


【アンジェちゃん……どうしよう……わたくし、どうしたら……】

【愛していたの……それだけは真実だと言えるわ……愛していたのよ……】


 脳裏で繰り返される悲痛な叫びを誤魔化すように、アンジェはしがみつくリリアンをそっと抱き締め返したのだった。


 


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