第20話「帰宅」

「とにかく……落ち着きましょう。アメデオ」


 よろめいた私は応接室へと案内しようと歩き出したけど、何もないところで躓いてアメデオに支えられた。


 目が合って呆れた顔をしたアメデオは、はあっと大きくため息をついた。


「姉さん。大丈夫? ……僕はこの上なく、落ち着いているよ。馬鹿に対する怒りに、打ち震えてはいるけどね」


 幼い頃から姉大好きなことを隠さないアメデオは、ショーンのことが本当に大嫌いだった。


「本当に信じられない。なんで、そんなことを? あれだけの人数の前でしたことなのよ。なかったことになんて出来ないでしょう?」


 婚約破棄をしたあの瞬間、大勢の人たちが見ていた。それを「間違いでした」と言って、通常なら通じるものではないと思う。


「これは知らせない方が良いだろうと、姉さんは知らないことなんだ。あの馬鹿は騎士団に入ってから、姉さんとの派手な婚約破棄劇についても、あれはただの痴話喧嘩の一環だったと言い張っていたらしい。それを聞いた時には、僕も呆れて……幼稚なことしかしない馬鹿男が極まって、いよいよおかしくなったのかと思っていたけど……まさか、こんなことを考えていたとは……」


 言葉を詰まらせてアメデオが絶句してしまうのも、無理はない。


 だって、婚約破棄については、通常の場合、男性にそれをされた女性側が悪いとなってしまう。


 それに、ショーンは婚約者の私には至らないところが多々あり、ただ自分と話していただけの隣に居た女性にも嫌がらせなどをしていたと、周囲に散々に言い散らしていたのだ。


 あれが痴話喧嘩の一環だと言ったからと、誰が信じてくれるというの?


「そうね。確かにショーンは、私のことを嫌っていたわ。どうして、そんなことを……」


 婚約破棄をした私のことなんて、気にすることもなく、今はご機嫌に楽しんでいると思い込んでいた。


「嫌ってなんかいるはずがないよ……ショーンは幼い頃から姉さんのことが、大好きだったじゃないか。だからこそ、虐めていたことに気がつかなかったんだね。姉さんらしいよ」


 アメデオの眼鏡の奥の目は、私を見て心底呆れているようだった。


 それには、到底納得出来ない。好きな女性にあれをする理由が、まずわからなさすぎる。眉を寄せて私は抗議した。


「……嘘でしょう? どこの世界に大好きな女性の着ているドレスを貶して、髪を引っ張る男性が居るの? しかも、ショーンはあの時二十歳だったのよ? 好きな女の子に意地悪するのなら、十歳の男の子ならまだしも、わかるけど……」


 私よりも三つ年上のショーンは、なぜか十五歳を超えた辺りから、とても冷たくなった。


 こんなことを言ってしまうのも悲しいことだけど、婚約破棄前の何年かのショーンは婚約者の私のことなんて、なんとも思って居ない様子だったのに。


「良かったね。ショーン・ディレイニーが、その世にも珍しい存在で生きている証拠だ。歴史に名を残すかもしれない……とんでもなく、馬鹿な男として」


 皮肉げに言ったアメデオは、遠い目になって言った。


「アメデオ。それは、言い過ぎよ」


 いくらショーンが正真正銘に馬鹿だったとしても、あまり口に出して良いことではなかった。


「ごめん……けど、あいつは姉さんが自分のことを好きなんだと慢心し、泣きそうな顔を見るのが好きだったんだよ。僕にはそれがわかっていたから、本当に嫌いだったんだ。どうにかならないかとずっと思っては居たんだけど、馬鹿が婚約破棄を言い出して……本当に良かったと思って居たのに」


「けど……どうして、私とジョサイアの婚姻書類が受理されたの? だって、書類上、私と婚約していることになっていたのは、ショーンなんでしょう?」


「だって、姉さんはジョサイア義兄さんと、婚約はしていないだろう?」


 アメデオにそう言われて、私ははっと気がついた。


 適齢期の貴族は大抵婚約してから、一年間公示期間を経てからの結婚式へ。式の準備なども大変だし、通常の場合は、その程度の期間は結婚せずに婚約者として過ごす。


「そうだわ。私たち、すぐに結婚式をしたから……」


 私とジョサイアの結婚は、そういう意味で異例づくめだった。だって、花嫁が逃げた後の穴埋めなのよ!


「そう……通常ならば、婚約してから公示期間を経てからの結婚になるけど、姉さんとジョサイア義兄さんの結婚は特別だった……色々な意味で」


 アメデオの言う通り、私たちの結婚が決まったのは、結婚式前の二週間前。


 それに、知っているはずのディレイニー侯爵家なんて呼ぶはずがないから、結婚式が終わってから知ったことになるわ。


「……そうよね。他の人と婚約しているしていないなんて、確認しないわ。普通なら。だって、婚約してから結婚するのが普通だもの」


「そうだろう? 僕たちと同様に、貴族院の事務員たちだって、そう思っていた可能性が高いよ。まさか、婚約を破棄する手続きをディレイニー侯爵家が怠っているなんて、誰が思ったりするんだ?」


 アメデオは苛々した様子でそう言ったけど、それを聞いた私も思わず頭を抱えたい気分になった。


「……お父様は、なんて言っていたの?」


 そういえば、何故私の元へアメデオがやって来たのかを聞いていない。この話であれば、当主のお父様がジョサイアと話をつけに来るべきだと思うのに。


「……ショーンは姉さんが結婚したことを知って、国境から慌てて戻って来たんだ。姉さんが居るはずのモーベット侯爵邸では、当たり前だけど、姉さんに会いに来たと言っても門前払いになったから、あいつはドラジェ伯爵家に来たんだ。母さんがショーンから話を聞いて、意識を失って倒れたから、父さんは一緒に医師の診察を待っている……僕はとにかく、連絡を急ぐために、ここへ」


 ドラジェ伯爵家当主お父様の名代ならば、後継者のアメデオが最適という訳だったのね。それならば、納得がいくわ。


「ショーンは騎士として戦果でも上げて名誉を挽回してから、婚約破棄をしたはずの私とやり直そうと? 嘘でしょう。あんなことをされて……好意の欠片も枯れ果てたわ。そんな風になるはずがないのに」


 私はあの屈辱の光景を、まざまざと思い出した。


 大勢の前でしてもないことで罵られ、知らないと言っても否定され、だから私は、覚悟を決めたのだ。


 すべて捨てようと……この手に、ホールケーキを持って。


「そのまさかだよ。男は一度自分のことを好きな女性は、ずっと自分のことを好きだと思っているからね」


「好きだったことは、否定はしないわ。けど……もし、一度嫌いになったら、再度好きになるなんて稀だと思うわ」


 私は冷静に、そう思った。


 まだショーンがずっと近くに居て、心底反省した姿を見られたのなら別だけど……一年間離れていた今では、あの人を全く好きではないと言い切れる。


 私が心底思ったことを言えば、アメデオは眼鏡を外してため息をついた。


「あの馬鹿が、そこまでのことを考えられているとは思えないよ。婚約者だった姉さんが好きで居てくれることが、当たり前だと思い込んでいた末路がこれだ。信じられないし、婚約不履行なんて今更訴えてどうなるんだ」


 アメデオは今の状況を振り返り、困った顔になっていたけど、私もそう思う。


 婚約不履行って……私はもう既にジョサイアと結婚しているんだから、それを言ったところで、どうにもならないはずなのに。


「婚約不履行って……そうよ! あの慰謝料は? 私は農園を購入した資金の……」


 アストリッド叔母様が割と高額な慰謝料をぶん取ったんだけど、あれは一体なんのつもりだったの?


「あいつはそれは痴話喧嘩の慰謝料くらいに、思って居たんじゃないの。だって、別に姉さんのことを好きだし、姉さんがまだ好きでいてくれていると勘違いして居れば、なんでも許してくれると思ってしまうもんだしさ」


「何言っているのかしら……あんなことをされて、好きでいられる人は聖人だと思うわ」


「否定しないよ。けど、姉さんはその直前まで、辛い我慢を強いられても我慢していた訳だし」


「……ショーンはディレイニー家に、帰ったのかしら? 私……直接、話をしに行こうかしら?」


 私は立ち上がって、両手をぎゅっと握りしめた。


 一体何を考えているのかはわからないけど、父親のディレイニー侯爵は何をしているの?


 現在の私の夫、ジョサイアは陛下の側近で宰相補佐だ……もし、何かあればショーンだけの問題では、終わらなくなってしまうのに。


「ああ……それは、止めなよ。とにかく……動くのなら、義兄さんに相談してからだよ。忘れたの? 姉さんはもう既に、モーベット侯爵家の一員なんだから」


 アメデオはとにかくジョサイアの話を聞いてからだと宥めたので、私はとりあえず腰を落ち着けた。


「それもそうね。城ではジョサイアは、邸へ帰ったって言われたの? ……何処に行ったのかしら?」


 とにかく、このことを彼に相談しなければ……ジョサイアが待ち遠しい。


 その時に、折良く扉が叩かれて、執事がジョサイアの帰宅を伝えた。私は安心して、ほっと息をついた。解決した訳でもないけど、ジョサイアが居れば、この訳のわからない事態が動くかも知れないと思って。


 今すぐ玄関ホールへ行こうかと思ったけど、弟と言えど客人であるアメデオが居るので、ソファに座りまんじりとして待つしかなかった。


 扉が開いて暢気な笑顔を浮かべたジョサイアが入って来て、私は思わず吹き出してしまった。


「……ただいま。レニエラ。やあ、アメデオくん。いらっしゃい。失礼するよ。これは君のお姉さんへの贈り物だから、気にしないでくれ」


 数え切れないくらいのプレゼントの箱を持って、緊張感ある空気の私たちの前へと現れたからだ。

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