6 ゲート(モリン)

 気が抜けたのか、再び泣き出したイウが落ち着きを取り戻し、傷の手当てを終えたころ、魚籠びくいっぱいに黒い魚を詰め込んだロヅ翁が帰ってきた。


 足音を聞きつけたシュドが自分の面を素早くイウへかけてやっているのを見て、モリンは「珍しく気が利いてるじゃん」と声をかけようとしたが、彼が「君の瞳は未知の色彩を持つ。未発見の研究対象は秘匿せねばならない……」と小声でイウに言い聞かせているのに気づいて、褒めるのをやめた。


「ほれ、大漁じゃぞ! いっぱい食べなさい」

「うん。……ありがとな、じいちゃん」

「ほっほっ、何のことやら」

「魚のことだよ」

「そうか、そうか」


 老人は通りすがりにポンとモリンの肩を叩いてから、よく煮えた鍋へ次々に魚を放り込む。ぐつぐつ煮える鍋に魚の出汁が染み出す頃には、モリンの心もすっかり落ち着いていた。己の力量不足に悩んでいたのさえも、悔しいが、どうやら泣いたらスッキリしたらしい。


「どうじゃ、美味かろう」

「……おいしい」とイウ。

「ほれ、シュドちゃんも。たんとお食べ」


 モリンはまだ口の中に痺れが残っていたらしく、えもいわれぬ香りの魚鍋はほとんど味がしなかった。感覚の鈍い指先をゆっくりと揉みほぐし、解毒の葉を奥歯で噛む。舌の奥に薬草の苦味だけは強く感じて顔をしかめた。


「動けそうかの、モリンちゃん」

「問題ない」


 モリンが立ち上がってみせると、ロヅ翁は「よし」と頷いて手早く荷物を片付け始めた。ここで「もう少し安静に」などと面倒なことを言わないのが、流石は探索者である。そういえば鍋を温めていたのも焚き火ではなく、煙の出ない固形燃料だ。里の者達に位置を悟らせないためだろう。


「それで、行き先は決まったかね?」

「うん。断崖集落に」

「よい決断じゃ。封じられた地は世界一、星が綺麗じゃぞ」

「星」


 イウが小さく息を呑んだ。そしてモリンの風合羽の端を指先でちょんと引っ張り「行こう、モリン。一緒に星を見よう」と言う。


「だな」


 モリンが微笑み、シュドが興味津々で星ノ降ル街とやらの地図を受け取る。その様子を老人は慈愛の目で見つめ、すぐにその視線の色を好々爺から熟練調教師のものへ切り替えた。


「この先の霧の中を、少しだけ進む。入り口には柵が立ててあるが、鹿達で壊せる強度じゃ」

「地図の、この真ん中のバツ印が主か?」

「そうじゃ。決して近寄るなよ? 赤い線が断崖へ繋がる道筋じゃ。丸印のところに出口の門がある。霧伝いに端を進めば安心じゃからの」

「わかった」

「冬の区域じゃ。防寒着と固形燃料、食料を多めに入れてある。持って行きなさい」

「ありがとう」


 増えた荷物を背負い直すと、一行は触れられるところまで近づいた濃い霧の前で立ち止まった。目が回るように感じるのは、おそらく痺れ薬の後遺症ではないだろう。コンパスを取り出すと、やはり針はふらふらと不規則に回っている。


「視界も方向感覚も、コンパスも使いものにならねえ。足元の地面がどこまであるかもわかんねえ。どうやって霧の中を進むんだ?」


「黒怪を使う」

 ロヅ翁が静かに言った。


「……黒怪を?」

「黒怪が霧の中から現れるのを見たことはないかの。鹿も狼も鳥達も、狩人達が一匹残らず倒した次の日には、もう同じ区域を複数の個体が闊歩しておる。主も同じじゃ。討伐し、卵や妖獣がおらんことを確認しても、数日で新たな個体が現れる」

「わたし達がもう何百年も『奪われた地』を黒怪から『奪い返す』ことができない理由は、それ」


 イウが頷いた。土地の奪還計画のような大規模な依頼に参加したことのなかったモリンには、初耳の情報だ。


「なんだそれ、じゃあ黒怪が強いから倒せないんじゃなくて……殺しても殺しても次が湧いてくるってことなのか? 虫じゃあるまいし」

「故に、黒怪は霧の中で生まれると言われておる。人類が踏み込めぬ霧の奥に黒怪の楽園があると。その証拠、にはならんかもしれんがの、鹿達は霧の中を迷わず進めるのじゃ」


 黙って話を聞いていたシュドが、腕を組んで口を開いた。微かに鋭さを増した視線を、イウが頬を赤くして追っている。


「黒怪が霧から現れる、という報告は受けているが、黒怪が霧へ帰るという話は聞いたことがない。迷わず進めるという根拠は何だ?」

「試したんじゃよ、霧の中がどうなっとるのか知りたくての。かなり嫌がるからの、かわいそうで長時間の探索はできなんだが、以心伝心の域まで調教すれば、黒怪は霧へ立ち入る。ふらつかず、命令通りに歩くのじゃ。その上彼らは、帰り道が本能でわかる」


 そうしてロヅ翁は「まあ、大したものは見つけられんかったがの」と茶目っ気たっぷりに笑い、そしてスッと真剣なまなざしになって、細い木の横笛を構えた。複雑な旋律が木立の間に響き、イウの周りに集まって肩や頬に鼻をくっつけていた鹿達が、一斉に姿勢を正した。


「ゆっくり進むから、鞍に手を掛けなさい」


 そう指示されて、モリン達はそれぞれ近くにいた鹿の背の鞍に手を乗せた。それを確かめた老人が短い旋律を吹くと、鹿達がゆっくりと一定の速度で霧に向かって歩き始めた。


「鹿……怯えた目をしている」


 イウがそっと言って鹿の首と、胸元のアースロを服の上からそっと撫でた。はみ出した金色の尻尾が落ち着かなげにもぞもぞしている。しかしイウが「大丈夫、わたしがいる」と囁くと、応えるようにカサッとして動きを止めた。


「黒怪達が本能的に恐れることは、基本的にはさせちゃならん。じゃが、強い信頼関係で結ばれれば、調教師と黒怪は互いに恐怖を乗り越えて力を貸し合えるようになる。イウちゃんは霧の中を歩ける二人目の調教師になれると思っとるよ。お前さんには才能がある」

「……ありがとう」


 イウが全く嬉しくなさそうな声で礼を言った。あれだけアースロを甘やかしているのだ、それは気が進まないだろうとモリンが苦笑いしていると、ロヅ翁も似たようなことを思ったのか、楽しげに笑いながら「そういうところじゃよ」と言った。


 周囲の霧はいよいよ濃くなり、視界は完全に真っ白になった。シュドが「黒ノ遺跡で〈ゲート〉を使わなかったのは正解だった。まず間違いなく、霧の只中へ出ただろう」と言う。酷くなってゆく眩暈に、鞍を掴む力が強くなる。けれど確かに、鹿達は不調に苦しむ様子もなく、時折空気の匂いをかぎながら真っ直ぐ歩き続けていた。


「地図は描けそうもないな」


 シュドの呟く声が聞こえる。モリンは霧の水分で湿りきった服を触り、手元もほとんど見えない視界を見下ろしてひとり頷いた。うん、これは無理だ。


「着くぞ」


 六十五、六十六、と歩数を数えていたロヅ翁が厳かに言った。前方に何か見えた気がして目を凝らす。


(気のせいか、いや――)


 確かに、何か見える。大きくて緑色の……苔が生えた木製の柵だ。ふと気づいて見下ろすと、足元までハッキリ見えた。霧が薄くなってきている。


「柵を壊す。離れてなさい」

「それには及ばない」


 シュドが首を振った。壁抜けを使うつもりだとわかったモリンも「大丈夫だ」と頷く。ロヅ翁は怪訝そうにボサボサの眉を寄せたが、モリンの腰に下がった鉤縄を見て納得したようだった。


「……達者での」

「ロヅ翁も」


 そう答えたのは驚いたことにシュドだった。けれど目を丸くしたのはモリンだけで、老人はゆったりと嬉しそうに微笑み、イウは鋭い横顔をうっとり見つめていた。


「また会いましょう。いつか、どこかで」


 イウが赤い糸のついた杯に向かって囁くと、ロヅ翁は「長生きせんとのう」と笑って、持っていたもう片方の杯をシュドの手に握らせた。


「よく話を聞いてやんなさい」

「……ああ」

「またな、じいちゃん」

「ああ、またの」


 手を振る老人に深い蝶礼を返し、三人は「回し蹴り」で柵の向こうへ消えた。最後にちらりと見えた驚愕の顔にくすりと笑って、モリンは「封じられた地」へ向かう〈ゲート〉をくぐった。

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