第二十八話 遊泳

 六に手を掴まれ、屋外の人混みを走る。ひたすらに走る。




 蟻の子を散らしたように各々の目的地へ向かう職員達の波に飲まれそうになり、希海ははあはあと息を吐き天を見上げる。夜空に散る星は揺れる視界で何度も縦に引き伸ばされ、ちかちかと明滅する天の川を作り出した。

 数十分後に全力疾走をする可能性なんて全く頭の中に無かった希海は、中学の時から着古したルームウェアで部屋を出て今に至る。その緩くなった襟が右肩に向かってずり下がっていくのを何度も直しながら、殆ど息の上がっていない六の背中を追いかけた。


 ──あ、もしかしたら今の状況って結構イイかも。


 けたたましいアラートとアナウンスが代わる代わる何度も鳴る中で、不謹慎ながらも希海は思った。

 とても満天とは言えないが、神様が宝石箱から大切な宝石を一つひとつ取り出し、並べたような星空。うだるような盛夏の夜の蒸し暑さ。コンクリートに埋め込まれた窓の奥に、疎らに灯る暖かな黄色。自分の手を取り人波をかき分けてひた走る六の、項に滑る汗。トレーニング後にシャワーを浴びたのか、少しだけ濡れた髪から希海の鼻にふんわりとシャンプーの香りが届いた。


 今夜のこの瞬間が、希海の中で六を連れ出した繁華街の夜と重なる。


 あの夜では、希海が六の先を歩いた。六が見ていた景色はこんな感じだったのだろうか。二人で共犯関係になって呪いやしがらみから抜け出したあの夜のこと、六は覚えてるのかな──そう考えながら、希海は躓かないように視線を足下に戻す。


「あそこを曲がれば本部ビルだ…………息、苦しいだろ? もうすぐ着くからな……!」

 後ろを振り向かずに六が言う。希海の肺はその実かなり限界に近く、喉は空気以外のものを体外と交換するのを許そうとしない。相手が聞き取れそうな言葉も返せず、「…………ぅんっ」と発語か呼吸か判別のつかない音だけが出た。


 ふと、六の足が止まる。

 急停止に後ろの希海は反応が遅れ、目の前の背中に盛大に顔をぶつけてしまった。

「はぁ、はぁ…………ちょっ、もう……いきなり止まらないでよ…………」

 紅潮させた顔を六の肩から出すと、その理由は恐怖という稲妻と共に瞬時に希海の目に飛び

込んできた。


 六の目の前に静かに立っている人物がヴェロニカ・ロウエである、という恐怖。


「なるほど…………はただの陽動だったのか」

「いいや? あいつはあいつで目的があるらしい」

 湿り気の籠った声でヴェロニカが答える。視界を覆い隠すのではないかと思える程に長い銀の前髪から覗く緋色の瞳は、一切の感情を物語ることなくこちらに向けられている。

「それにしても……ここの警備の杜撰さには驚かされる。混乱に乗じればいとも簡単に侵入することが出来た」

 そう言いながらヴェロニカは羽織っていた白いトレンチコートを脱ぎ捨て、左手を手首に添えた右腕を、掌を見せるように二人へ向かって突き出す。 

「全員!! この女を抑えろ!!!!!」


 周囲の者に叫ぶが、もう遅い。


 二人に向けたヴェロニカの掌に野球ボール大の直径の穴が開き、希海がその光景を認識した瞬間には地面から両足が離れていた。

 手から放たれた熾烈な暴風が二人の体を押し上げ、勢いは衰えぬまま地上の景色がみるみる遠のいていく。 爆撃のような轟音と共に、人間が尋常に生きていて味わう事のない風圧が体にぶつかる。その衝撃に、希海は声を出すことも出来ずに即失神した。


 新宿の夜景を彩るビルの群れが、上空の六の瞳に目まぐるしく映っては消えていく。

 浅く早い呼吸でなんとか瞼を開いたまま、自分が置かれた状況を掴もうとする。


 は? 空中…………!?


 手を伸ばせば届きそうな距離には、意識の無いまま共に吹き飛ばされている希海の体。

 あまりにも激烈で危険な空中遊泳だった。当然空では四肢のコントロールなど不可能で、辛うじて天地を判別した以外に六が出来た事は何も無い。


 ────このままじゃ地面にベチャリだ! 希海が二百パー死ぬ!


 着地の瞬間に斥冥力をフル稼働して体を守れば、自分の命は助かるだろう。ヘマをしなければすぐ立って歩けるかも知れない。だが希海はどうなる? 答えは「絶対的な死」。空気砲が直撃した地点から現在進行形で数百メートルも吹き飛ばされているのだ。高さは────二十メートルくらいか。いずれにせよ、気絶した希海が助かる訳が無い。

 前のように結晶の塊で希海を守れば良いだろうか……? いや、地面にぶつかれば塊の中でシェイクが出来上がるだけだ。




 幸いな事にどんどん明晰になっていく六の思考は、一か八かの案を浮かび上がらせた。

 正直、それが成功するかどうかは賭けに近い。第一、これからする行動は六自身の能力の限界との勝負だった。六の厄災は任意の形の結晶をある程度任意の硬度で生成できる事が最大の強みである。今は己の忌々しい力が持つやけに高い柔軟性を信じるしかない。


「希海いいいいィィィ!!!!」

 咆哮に似た叫びを上げ、希海に手を翳す。


 すると衣服の繊維の合間を縫うようにして現れた結晶の皮膚が、希海の体を覆った。ただ結晶と言っても、表面は普段の何倍も柔らかく弾力があり、希海がそれを纏っている様は、ツヤのある爬虫類の皮を彷彿とさせる。


 普段の硬度の結晶で希海を救おうとしても、地面に叩きつけられた衝撃から保護できない事は明白だった。そこで六は極限まで柔らかい結晶を希海の体に生成し、クッションとして機能させようとしたのである。

 地面が迫る刹那、祈ることしか出来なかった。希海が無事でいられる保証なんてどこにも無い。前例も無い。六の意識は数秒先の希海の未来でいっぱいだった。自分の体を結晶で保護する事を忘れるくらいに。

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