第二十二話 憧憬

 時は少し戻り、伊田と侭の戦闘と同時刻。

 

「見えたぞ。中央公園だ」

 伊田の追跡を振り切ったアウディは、路上の木々の緑が清潔に生い茂る先にある新宿中央公園が遠くに見える範囲に到達していた。


 しかし、公園とその周辺の様子がおかしい。その違和感は六だけでなく、通信の内容を直接は聞いていない希海の頭にもすぐ飛び込んできた。

 本部との話では交通規制の為周囲の道路は冥対の車両で封鎖されている筈だったが、そんな車はどこにも無い。

「嫌な予感がする…………」

 六はすぐに本部の職員を介して回収班と連絡を取ろうと試みたが、こんな言葉が返って来た。

「現地の機動局局員は誰一人として応答しません。新しい合流地点を設定しますので、このまま走行を続けて下さい」


 六が通信を終えた時、車はすでに中央公園の真正面にあたるT字路に差し掛かっていた。木々に囲まれた広場の奥には、前面に「SHINJUKU CHUO PARK」と書かれた石垣がうず高く積まれており、表面に水が小さな滝のように滔々と流れている。石垣の両翼には階段が控え、さらに広い草地や舗装された通路に続いていた。

 その広場には、一般人は勿論、三十名で希海達を回収する予定の機動局局員の姿は一人として見られない。代わりに石垣の前にしゃがんでいたのは、白いコートに身を包んだ銀髪の女、ヴェロニカ・ロウエだった。


 車内からヴェロニカの姿を視認した六は、一瞬息が止まった。

「引き返すぞ!」

 呼吸が戻り、そう叫んだ時にはもう遅い。六はペダルが壊れそうな勢いでブレーキを踏んだ。一・五メートルを優に超える対物ライフルを構えたヴェロニカは、運転席の六をスコープに捉え、小さく呟いて引き金を引いた。

「バン」


 甲高い悲鳴を上げながら態勢を崩し、公園に向かって滑るアウディのフロントガラスに十二・七ミリ弾が三発。横転した車体が広場に突っ込んだ途端、入り口の地面に仕掛けてあった地雷が車に接触し起動、空へ昇る龍のような炎が巻き上がり、爆風で浮き上がる車体の周囲に黒煙とガラスの破片をまき散らした。

 しばしの間、燃え盛る炎が出す虎の唸り声のような音が広場にこだまする。ヴェロニカは立ち上がってライフルを肩に担ぎ、追い詰めた獲物を見る白狼の目で揺らめく炎を見つめる。

 

 徐々に消えていく煙から、車と同じくらいの大きさの、青い水晶の塊が姿を現した。それは表面に煙や煤の黒を化粧のように纏いながらも、ビル街の青空を透かす輝きを確かに持っている。六は被弾する直前に車内に結晶の球体を作り出し、自分と後部座席の希海を爆発から守ったのだった。

 水晶の中の二人は、体を包む衝撃に激しく咳をする。

「無事か…………?」

「うん…………なんとか」

 肩についた煤を払いながら希海は返事をした。

「バレットM82対物ライフル……あれは本来地面に伏せて撃つ代物だ。それも普通の筋力の人間はあんなにバンバンぶっばなさねえ。あの女が報告にあったヴェロニカ・ロウエ…………!」

 六がそう言うと、二人を包む結晶が割れ、魔法が解けたように散る。

「ここら一帯に奴らの仲間が潜んでいるかも知れない。俺が時間を稼いでお前一人を逃がしたかったが……ここに居ろ。すぐにケリをつける」

「わかった…………六」

「何だ」

「約束覚えてるでしょうね。唐揚げ、食べるまで勝手に死なないでよ?」

「当たり前だ」


 とは言えど、六は冥力をかなり消耗していた。対物ライフルが見え、その弾丸の威力を咄嗟に警戒した六は、層の厚さと硬さが現時点のほぼ最大出力の球体を生成したため、これからの戦闘をどうにか凌ぐ冥力が残っているか定かではない。

 それに、希海の確保がヴェロニカの狙いと言えど、彼女が希海に手を出さない保証はどこにも無かった。希海の死守と戦闘を同時に行う。それを遂行するには、希海に結晶を展開し、銃弾を防ぐしかない。幸い斥冥力の方は全くと言っていいほど消費していないが、この状況では冥力の消費に拍車がかかる。


 そうなるとギリギリまで体術で相手の体力を削るしかない。六は背広の内側から拳銃を、スラックスの右脚についたホルスターからカランビットナイフを取り出し、持ち手の輪に指をかけた。

「お前の目的は知ってる。こいつだろ?」

 六は背後の希海に視線を落としつつヴェロニカに言った。

「そうだ、羽宮希海の確保。だがそれだけではない」

 ヴェロニカは肩に担いだライフルを下ろし、六に答える。 

「コロンブス、南極点に初めて到達したロアール・アムンセン、そして人類初の有人宇宙飛行に成功したユーリィ・ガガーリン…………。彼らに憧れた事はあるか?」

 ヴェロニカの放った言葉の意図が全く掴めない六は、彼女を睨みながら軽く首をかしげた。

「は? こえー顔して何言ってんだよ」

「あるのかと聞いている」

「…………一度として無いね。体から青い塊が出ない人間になら今でも憧れてるが」

「私達のもう一つの目的は、彼らのような人類の世界を広げる人間を探す事だ。その資格がある者はごく限られているからすぐには見つからないかも知れないが…………宵河六、お前は見たところ面白い厄災を持っているな。お前にもその資格があるかも知れない」

 人類の世界を広げる? 資格? 

 二人の会話を少し離れて聞いていた希海は、自分の体が狙われているという事実を忘れ、ヴェロニカの言葉について思考を巡らせた。資格とは厄災を持っている事なのだろうか。確かにパンドラは数百万人に一人だ。しかしごく限られているという文言が気になる。宗教的な話? 勉強が苦手な自分にはそういう知識が無い……。

 六の方はこの不毛な問答に早々に見切りをつけ、残存冥力の少ない自分がヴェロニカ相手にどう立ち回るかについて考えていた。


 ────あの女が馬鹿でけえライフルを持ってるなら、接近戦は俺のナイフとハンドガンが有利だ。リロードの時間は無い。残り少ない冥力を使ってでも懐に飛び込み、限られた弾で止めを刺す……!

 

六は脚に冥力を込め、瞬時に距離を詰める。ヴェロニカはその速さをライフルで追えず、撃ち込んだ弾丸は六の右頬を掠め、街灯の照明を貫いた。

 六の戦術は功を奏した。後はナイフで喉元を掻き切るだけ…………

 そう考え六が右手のナイフを振りかぶった刹那、ヴェロニカはライフルを捨て「何か」を取り出した。


 それは斧。厳密には「トマホーク」。北アメリカの先住民族が使っていた手斧がアメリカ陸軍に採用された物であり、接近戦においてコンパクトなナイフとは比べ物にならない破壊力を誇る。


 ヴェロニカが腰の後ろ側から引き抜いた長さ五十五センチ弱のトマホークは冷たい黒のステンレスで全体が覆われ、執拗なまでに磨かれた刃先には軽量化を意図した穴が開けられている。相手より素早く動き、喉元や関節を狙う事に特化した六のカランビットナイフが、そんな武器の刃を受け止められる筈が無い。


 避けろ。脳から発され体を駆け巡る警告に突き動かされ、辛うじて咄嗟に刃を躱した六にとって、武器を持っていないヴェロニカの左手に起きた異変は思考の外の事象だった。

 掌底を見せたヴェロニカの手の中にはそれ自体が嵐のような────吹き荒れる風の球が出現した。独楽のように風が気流を作り、振動と共に球が回転する。開いた掌はその球を中心として絶え間なく空気を吸引し、取り込んでいる。


 トマホークを振ったのはフェイク。本命は厄災を使ったこの一撃。

 ヴェロニカは六の脇腹に重い掌底打ちをし、手中の暴風を肋骨に打ち込んだ。


 六の体にチェーンソーでズタズタに切り刻まれたような痛みと衝撃が走る。不可避の掌底打ちをまともに喰らった体はくの字に折れ曲がり、その場から十五メートル程吹き飛んだ。

「お前…………何しやがった……!?」

 地面に伏して尋常ではない量の血を吐きながら、六がヴェロニカを睨む。意識外からの一撃に六は反応できず、防御に斥冥力を一切使用できなかった。

 

 ────立てない……! このままでは希海が連れ去られる! 


「この斧、見た目からして圧があるだろう? 皆これに見入るんだよ。取り出した瞬間に、こっちの方に反応出来る人間は過去に一人として居ない」

 未だに臓器が激しく揺れ動いているのが分かる。六は希海だけではなく、自分の身も心配する必要に迫られた。

「六!」

 後方に離れた希海になす術は無く、許されたのは三人を取り巻く広場のアスファルトに這う六の名前を叫ぶことだけである。

「特務順位三位、冥対のパンドラでは至出上壱縷に次ぐ才能か…………。お前が資格を持つ者だという可能性も捨てきれない。殺すのはやめておく。自らに宿る本当の力に気づけば私達のもとへ来ると良い。今は羽宮希海だけを…………」


 そんな言葉を吐きかけたヴェロニカは、瞬時に何かを察知して素早く身を翻した。遠方から微かに届く発砲音。それが希海の背後にあるビルの屋上からヴェロニカを狙ったスナイパーライフルからだと気づいたのは、希海ではなく武器の取り扱いに慣れた六の方だった。

 ヴェロニカとの戦闘を無線越しに把握した冥対本部が、新たな局員をここに向かわせていたのだ。


 螺旋の回転を纏い放たれた弾頭は、ヴェロニカが目の前に作り出した吹き荒れる風の防壁に防がれ、敢え無くその場に落ちた。

 ヴェロニカが態勢を整え、舌打ちする。

「時間がかかりすぎたな……計画が狂った。『一位』の到着が想定していたより早いそうだ。どうせあっちの狙撃手も、今ここに到着した伏兵も、フランツェスカ・フリートハイトが来るまでの時間稼ぎなんだろう? 私はあの女と戦おうと考えるような馬鹿ではない」

 ヴェロニカがそう言うと、彼女を包むように小規模の竜巻が発生した。灰色に濁る旋風は広場の夏落葉を巻き込み、不規則な軌道を描いて宙に舞い上げた。やがて風が止んだかと思えば、中心に居た筈のヴェロニカの姿はどこにも見えない。




「六! 大丈夫!?」

 未だに立ち上がれず居る六のもとに、希海が急いで駆け寄る。

「ああ。あいつの厄災のせいか体感以上に体にダメージが残ってるが、もう少しすれば立ち直れる。本当に殺さないように手加減しやがった、あの女……!」

 六はヴェロニカが殺意を込めなかった事に怒りを覚えているようだったが、そんなことになぜ怒るのか希海にはわからなかった。


 午後の公園は、さっきまでの激しい戦闘がまるで最初から起きていないかのようにしんと静まり返っていた。ただ一つ、勢いは衰えつつも未だにこうこうという音を立てて炎を揺らめかせるアウディの残骸を除いて。小高い草地に屹立する樹の背景にはガラス張りのビルの薄い青。そこは綺麗に整理され、効率化された都会から一か所に追いやられた自然そのものだった。

「『憧れ』ね…………まさか、な」

 脚に力を込め、生まれたての小鹿のように震えながら立ち上がった六が、希海には届かない声で呟いた。

「あそこは人類にはまだ早いだろうが、ガガーリン」

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