Vain 【見知らぬ大地と獣達】

@kadakitoukun

第1話 蛇との死闘

 砂色の空は黄金色に見える。空舞う砂塵は砂金のごとくはらはらと大地から舞い上がり、大地に落ちる。


 はらりと落ちたソレを握り、手のひらを覗き見ると肌に溶け消え影もなければ名残りもない。枯れた指に留まるただ一つの鉄の重しに遊びはなく、寂れた湊は閉ざされた。



 静謐が訪れる砂塵の中で少年、室井 千景はスコープ越しにかつてのメトロポリスの残骸、建物の瓦礫に巻き付いている巨大な蛇を観察していた。蛇、しかしその全長は8メートル近くあり、彼が生き物図鑑越しに見たアオダイショウやハブといった日本の一般的な蛇とは全く違った。


 とぐろを巻くように高層ビルの成れの果てに巻きつき、シュルルと先端が割れた蛇特有の舌、ではなく人間に似た先端が丸みを帯びた舌を出し入れした。それは蛇の頭蓋に似た白い仮面を被り、周囲を警戒するように首をもたげて右へ左へくるくると回転させた。


 首が動くと釣られてギョロリと動く黄色の眼球は爬虫類のものとは微妙に違う。人間の眼球に似ていて、白目があり、白目の内に黒目がもとい黄目があった。それは虹彩を黄目の中に宿していて、通常の蛇の持つ眼球と違って自由に角度をつけて周囲を見回した。


 表情は恐ろしい。人に似た臼型の白い歯を口腔からのぞかせ、あまつさえ笑っているようにすら見える。被っている白い仮面は上顎の部分が競り上がり、トサカともこぶとも形容できる独特の吹出物がを形成し、それはいくつもの穴が空いていた。その姿はオカリナのように見えた。


 だが何より恐ろしいのはその巨体だ。ただ大きいばかりではない。ただ長いばかりではない。ただ太いばかりではない。


 大きさだけならばはるか太古、石器時代の折にもこれくらいの大きさの蛇もいたと図鑑に書いてあった。アナコンダとかコブラとかの類縁で自分よりも小さな生き物とか、大きな生き物とかを食べていたのだと言う。人間よりも大きく力が強い牛だって襲って食べていたらしい。なんでも牛に巻き付いて首の骨を押しつぶすとかなんとか。想像するだけで怖く恐ろしく、直接目にしたならば間違いなく失禁する光景だろう。


 しかし目の前にいる大蛇は現実の産物だ。そしてその恐ろしさは明らかな異形であることでより一層強調されていた。


 まず眼前の蛇は前足、後ろ足と言って差し支えない四肢が生えていた。爪一本ずつしかない非力にも見える手足だが、しかしそれは巨大な体躯を構造物に固定する力があった。


 鋭い爪はフックのようにしっかりと建物を掴み、その巨体を決して離さない。全長八メートルに達するとなれば重量は1トンを軽く超えるだろうに、それを鉤爪四本でささえ、あまつさえ首をもたげる姿はおおよそ、生物の常識を逸脱していた。


 幼少期、図鑑越しに見たアナコンダやコブラを遥かに超える全長と横幅、もしあれに巻きつかれれば人間など一瞬で圧死してしまう。


 想像はえてして早々に現実になる。つまり、目の前でスコープ越しにではあるが、メキメキと鉄筋コンクリートで造られたと思しき巨大な構造物の一部が目の前の蛇もどきによって文字通り握りつぶされたのだ。


 廃墟と化し、手入れもされていない建物だ。一部が壊れただけで揺れ、上層部が軋みを上げる。傍目から見ればゆっくりと、間近で見れば驚くべき速さでビルは崩れていった。


 倒壊していくビルは砂埃を巻き起こし、灰色と茶色が入り混じった土煙が天に向かって巻き上がった。それまで視界に収めていた大蛇の姿が砂塵の中に隠れていく。しかし見失うことはない。


 実際のところ、ゴーグルをしていなければきっと目に砂粒が入って目標を見失っていただろう。春初めの黄砂が大蛇の登場以前から吹き荒れていたせいで、専用の特殊ゴーグルを持ってきたのが功を奏した。


 大蛇はそれまで体を固定していた建物が崩れ始めたと知るや否や、バネのごとく跳躍し、近くのビルへと飛び移った。生物の構造を無視した身軽な跳躍、全身の筋肉のバネを使っても、既存の生物ではあり得ない運動力だ。


 着地と同時にビルが小さく左右へ揺れた。即座に大蛇はとぐろを巻き、首をもたげて周囲に警戒の眼差しを向けた。


 同時に大蛇は周囲の瓦礫を払うためにその太く逞しい尾を振った。超高速で振るわれた蛇尾は重さ数百キロはあろう瓦礫を一撃で吹き飛ばす。飛散した瓦礫が地に落ち、土砂が舞う。


 大蛇の太く雄々しい尾に注目すれば、尾の中ほどから巨大な鱗がいくつも釘バットのように生え、それらは赤黒い光沢を帯びていることがわかる。ワサワサとそれらは一枚一枚をつなぐ神経が通っているように微細に動き、その一撃を受けた瓦礫は飛散するではなく、無数の破片へと砕け散り、大地にコンクリートの雨を降らせた。


 だが何度となくそんなことをすればいずれ耐久負けして鱗は砕け散る。事実、振り回した拍子にスポンと大蛇の尾から鱗が剥がれ落ちる瞬間がいくつもあった。しかしその度に大蛇の尾からは再び別の鱗がニョキリとキノコのように生え変わり、真新しいまだ色も乗っていない白い鱗をワサワサと揺らした。


 スカリビ、それがあの大蛇の名だ。フォールンの代名詞である「仮面」に反響器官を有した特異な姿の大蛇はエコーロケーションによって周囲の環境をすばやく把握し、獲物を見つけ、天敵を察知することができる極めて狡猾なフォールンである。


 多くの人間が蛇と言えばピット器官という熱源を感知する能力を思い浮かべるだろうが、スカリビにはその能力はない。代わりに彼が持っているのが極めて高性能な耳と高い情報処理能力を持つベロだった。


 聴覚は言うに及ばず、彼のべろは極めて特殊で5,000から6,000種類の味を全部で十八段階の強弱に分て把握することが可能だという。実際にそれほどの精度があるのかどうかは千景にはわからないが、それほどの味覚を有しているならば、当然人間である自分の風味もすでに把握しているはずだ。


 体臭から漏れる人肉の風味、満員電車に乗っている時に呼吸すると舌で感じるあの人肉の悪臭をより鮮明かつ詳細にスカリビは感じ取っているんだ、と座学で教官は言っていたが、旧時代生まれではない千景からすれば何を言っているかわからないちんぷんかんな内容だった。それでも人の味を覚えた大蛇が問答無用で襲いかかってくるほど鋭敏な風香ということはなんとくなくだが理解できた。


 相手はフォールン、霊長の捕食者だ。そのフォールンの中でもとりわけ殺戮性能に特化したスカリビがいざ人の風味を感じればどうなるか。そんなものは決まっている。


 この上なく明瞭に殺戮ショーが始まるのだ。抗う術はなく、その巨体で押し潰されるか、口腔に吸い込まれるかのどちらかだ。


 フォールンは残虐だ。人を喰らうこと、殺すことに一切のためらいがなく、見境なく襲いかかってくる。


 呼吸ひとつ、嘆息ひとつすら命取りになる中、文字通り息を殺して千景はスコープの中で動き回る巨獣に狙いを付けた。狩人である千景は万全の状態でこの狙撃任務に当たっていた。


 エコーロケーションは厄介だが、動かなければ問題はない。旧時代の潜水艦同士による戦いではソナーを誤魔化すため、動かないという戦法が取られていたという。だからそれに倣って千景も狙撃ポイントに付いてからはほとんど微動だにしなかった。


 では風味はどうするか。漂う体臭を誤魔化すため、彼は自分の体に砂塵を纏い、泥や埃を顔や手首、首周りといった素肌を露出している部位に塗りたくった。それでも慎重に呼吸をしなくてはわずかな口臭から味を感じ取り、スカリビの視線がこちらへ向くかもしれないと思うと神経をすり減らす作業だった。


 人差し指の指先に汗が滲む。ライフルのトリガーガードにかかる指が滑りそうりなるほど、だらだらと汗がこぼれた。その汗で指が滑れば絶好のタイミングを逃し、空虚な銃声が砂塵舞う廃墟に轟くことになる。


 必然、一撃にかける意識は強まった。決して外せない、決してミスが許されない狙撃、かかる重圧は想像をはるかに超え、心音は絶えずバクバクと高鳴った。


 千景が自分の心を落ち着ける中、スカリビは動きを止め、周囲を見まわし、舌を突き出した。舌先を微細に揺らし、円を描く。それはアインシュタインの写真を思わせるアホ面だったが、今の千景にその表情を笑っていられるほどの余裕はなかった。


 より広範囲に、かつ正確に対象の肌から香る独特な風味を把握するために、周囲の土の味や砂の味、空気の味を細分化して分析し、少しでも見知った味が舌先の神経に伝われば、即座にスカリビは動き出し、より風味が強まる方角に向かって這い寄ることになる。それは千景にとって自分の存在を気取られることを意味していた。


 彼の持つ狙撃銃、AMSR70Bにはスカリビの仮面を一撃で粉砕する火力はない。フォールンの弱点である仮面を砕くに足る火力がない彼にとって正面から狙撃は死を意味していた。


 仮面を砕けばフォールンは死亡する。どのフォールンであろうと、それは唯一絶対の法則だ。


 しかし、千景の構えるライフルの火力では仮面を砕くことはできない。だから狙うべきは眼球、ぎょろぎょろと意味もなく動く人の目玉によく似たそれを撃ち貫くことだ。動く標的を前にしてそれは至難の業だった。


 眼球の大きさは直径一メートルもなく、絶えず上下左右に動き続けるため捕捉が難しい。なにより、ただ眼球を貫いても、元より視力が低い蛇という生物にとっては致命傷になり得ない。


 人間の無力さを思い知らされる絶望的な火力差を知り、しかし千景はスコープから目を離さず、射撃態勢を維持し続けた。


 やがて千景はトリガーガードから指を離し、引き金に指をかけた。指をかけると、わずかに引き金は沈んだ。それは銃のトリガーが持つ「あそび」、いつでも狙撃ができる態勢を取り、ひたすらにその瞬間を彼は待った。


 舌先を突き出したまま、大蛇を数秒おきに首をもたげたり、すくめたりを繰り返す。旧時代のパラボラレーダーのように上下を気にするそぶりを見せるスカリビを前にして千景は自身の銃口の延長線上にその眼球が現れる機会を伺った。


 じっと機会を待ち続けること数十秒、その瞬間が訪れた。同時に千景は引き金を最後まで沈めた。


 ——カチンという音がライフルの内部で響いた。


 激鉄が雷管を叩く。火花が薬室内で迸った。その直後、薬室内で雷管が弾け、爆発する。銃口から螺旋を描いて発射された。


 動作として表せば至極、単純。ただ千景は最高のタイミングで最高の一撃をライフルで撃った。


 弾丸は飛翔する。マッハ2をはるかに超える飛翔速度、それを距離1,000メートルの長距離から撃った。直撃までに2秒弱、どれほどの鋭敏な感覚の生物であろうと、そのわずかな時間で体を逸らすことは不可能だった。


 まして、と千景は狙撃と同時に立ち上がり、状況を見守った。


 巨体ともなれば動きは緩慢だ。レーダーがどれだけ優れていようと、即座に動けるほど動作が機敏でなければ避けれるものも避けられない。事実、弾丸の接近を感知したスカリビは口腔を閉じたかと思えば、すぐに次の行動へ移ろうと、息を吸い込むような素振りを見せた。


 その直後、弾丸がスカリビの眼球を射抜いた。


 噴水のように血飛沫が上がる。焼きつくような痛みにスカリビは滅多にあげない咆哮を上げ、悶え苦しむ。


 灼熱の痛みと共にスカリビは首を右へ左へ、あるいは前へ後ろへと折り曲げてダン、ダンと何度となく痛みから逃れようと頭を地面に打ちつけた。


 痛々しいまでの自傷行為、その理由は単に眼球を射抜かれたからだけではない。致命的な部位の破壊がスカリビに激痛を与えていた。それを確かめると千景はすぐに立ち上がり、自身が潜伏しているビルから逃げようとした。


 絶え間ない痛みが押し寄せる中、それでもスカリビの感覚はなお鋭敏だった。人間を超越する圧倒的な身体能力を有するスカリビは激痛も冷めぬまま、千景の潜伏する廃墟めがけて突進を敢行した。


 その判断の早さに千景は舌打ちをこぼした。


 蛇にしては、いや蛇だからこそ頭が回る。初速に換算して何メートル毎秒か、とにかく人間の走る速度よりははるかに速いスカリビの猛追から逃げるように千景は背を向け走り出した。


 昔は何かに使われたのだろう広い灰色の何もない一室を抜け、吹きさらしになったビルの反対側に出た千景はあらかじめ用意しておいた昇降用のワイヤーアンカーに手を伸ばした。


 やはり一撃では仕留められなかった、という悔しさと同時にそれでこそフォールンという諦観がせめぎ合い、アンヴィヴァレントな感傷のまま、千景は作業をてきぱきと進め、ベルトにワイヤーを装着していく。ライフルにも落とさないように手袋の手首部分から伸びた特殊ワイヤーをグリップ下部に設けられた窪みに差し込んだ。


 すべての準備を完了すると、千景は一も二もなく臆することなくビルから飛び降りた。上空80メートル、旧時代の高層ビルの中ではとりたてて高いわけでも低いわけでもないごく平均的な高さのビル、その最上階から飛び降りたのだ。


 昇降用のワイヤーをベルトに取り付け、勢いよく重力に身を任せると、まず上昇気流が背中を押した。耳元を風が通り抜け、勢いそのままに落ちる千景はライフルを落とさないようにしっかりと抱えながら数秒で高さ40メートルの地点まで降り立ったところでベルトにある巻取り機能を停止させた。


 風がそよぐ高度で千景は停止し、まず体が大きく上に向かって持ち上げられた。胸にくる衝撃をいなし、休憩する間もなく千景はライフルの装填作業に移った。ライフルのハンドルを持ち上げ、引き、戻し、下げた。薬莢が排出され、新たな弾丸が装填される。


 いわゆるボルトアクション方式の狙撃銃、旧時代の技術と言えばそれまでで、事実として連射性では自動小銃に数段遅れるが、整備性と耐久性はやはり構造が単純な分、こちらが上だ。


 千景にとっての狙撃の師匠がこの方式タイプの狙撃銃を愛用していたため、彼も愛用している。実際、使い心地は悪くなく、狙撃に適していると思っている。


 ちゅうぶらりんとなった彼は現状把握のため、周囲を警戒しながら耳をすました。しかし、耳をすますまでもなく、徐々にスカリビが近づいてくる音が聞こえてきた。瓦礫に胴体や頭部をぶつけながら突進してくる哀れな猪武者の足音だ。


 平時であればこんなことは起きない。蛇と似たような体躯をしているという性質上、音を立てて移動するということはない。文字通り、這いずるという表現にふさわしく、瓦礫の隙間を縫ってスカリビは移動する。


 今のスカリビにはそのような芸当を考える思考力は残されていない。怒り狂った獣は自分の闘争本能の赴くがまま、むやみやたらに突進し、自身の接近を周囲へ知らせることに一切の疑問を持たなかった。


 千景はほくそ笑み、ベルトのロックを外す。再び重力にしたがって、千景は降下していく。


 その直後、何かが彼が今まさに降りているビルめがけて激突した。衝撃はすさまじく、崩落する瓦礫の雨が自身の頭上に見えた時、反射的に千景はベルトからワイヤーを切り離し、自由落下に身を任せた。


 地面まではおよそ6メートル、常人ならば着地と同時に両足を折りかねない高さだ。


 眼下にはいくつもの瓦礫の山と錆びて割れて尖って凶器と化した水道管が地層から露出していた。下手に着地などすれば両足を折るでは済まない危険な落下、しかし千景は頭から地面に向かっていった。


 そして大地に激突するその刹那、千景の腰部から黒色の結晶体が舌のように出現し、千景と地面の間に割り込んだ。鋭く突き立てられた高密度の結晶体は大地に突き刺さり、衝撃を打ち消した。


 着地と同時に千景の腎部から生成された結晶体にヒビが入り、砕け散る。徐々に霧散していく結晶の塊を感傷的に見つめ、しかしすぐに正気を取り戻すと慌てて崩落する瓦礫に注意を払いながらその場から去ろうとした。


 ——直後、コンクリートの壁を貫いて、巨大な大蛇が姿を現した。無数の瓦礫の雨を抜けた先、待ち受けていたのは瞳を爛々と輝かせた怨敵だった。


 「つ」


 目を見張り、反射的にライフルの引き金に指がかかった。


 現れたのは身体中に傷を負ったスカリビだ。頭部は元より、四肢、胴体、蛇尾に至るまで傷がない場所はない。


 頭部の仮面は一部が砕け、自慢のオカリナこぶは穴に瓦礫が詰まり、とてもではないが音など奏でられないほど傷ついていた。指の爪は二又に割れ、表皮が割れて夥しい量の血液が流れ出ている。胴体は腹部を中心に鱗が剥がれ、見ている間もズルリと剥がれ落ちた。


 蛇尾もひどい。本来であれば抜けたらすぐに生え変わるはずの鱗は生え替わらず、出血が深刻だ。肉どころか骨まで見えていた。


 傷の深さもさることながら、その姿勢は安定しない。まるで吊り橋の上にでも乗っているかのように右へ左へスカリビはグラグラと体を揺らした。


 スカリビのような眼球が横向きになっているフォールンは脳幹が並行して配置されている。無論、眼球のすぐ隣に脳幹があるわけではないが、体の内部までもが硬質な鱗や白皙の仮面で守られているわけではない。


 眼球と脳幹の間にある肉の壁など千景の銃は容易く貫く。眼球を潰され、さらには感覚神経や運動神経を中継する脳の重要な部分までも破壊されたのだ。スカリビでなくともまともに姿勢を維持できない。


 しかしそれでもなお、眼前のスカリビは千景に怒りの眼差しをむけていた。この先まともに動けなくなろうとも、目の前の宿敵だけはなんとしてでも倒す、そんな人間的な憎悪の眼差しが千景に浴びせられた。


 浴びせられた眼差しに臆さず千景はライフルを中腰のまま、撃った。構えもせず、ライフルから発射された弾丸は全く見当違いの場所へと飛んでいった。


 弾丸が腹部の鱗を剥がし、同時にスカリビは大きく体を丸め、防御態勢を取った。眼球を撃ち抜かれた経験が必要以上に大蛇を警戒させ、その隙に千景は瓦礫の山の中へと走った。


 彼自身も理解している。生身のままで自身の身長の何倍もある大蛇とドンパチをするなど蛮勇である、と。


 蛮勇をするのは刀とかを持っているアホどもだけで十分だ、と脳裏で白髪のバーサーカーを想像しながら、牽制のためにさらにもう一発、後方へ跳びながら中空で千景はライフルの引き金を引く。


 牽制の一射とはいえ、スカリビを狙うに越したことはない。先に放った銃弾が剥がした鱗、剥き出しになった表皮目掛けて撃たれたその一撃は肉をこじあけ、スカリビに絶叫させた。


 その絶叫は決して断末魔ではない。人が机の上に小指をぶつけたり、ドアに指を挟んだ時に反射的に上げる悲鳴と大差はない。命に別条はなく、スカリビの巨体からすれば針で刺されたくらいの感覚だろう。 


 もっとも脳幹を破壊されているスカリビにとってはそれだけでも十分に痛いと感じるはずだ。感覚神経が雑多な渋滞を起こし、混線しているスカリビの脳内で今何が怒っているのか、廃都が鳴動するほどの波紋を産んだほどの絶叫だったのだから。


 脳幹の破損に加え、出血のひどいスカリビはそう長くは保たない。8メートルに迫る巨体だ。出血も尋常ではない速度で進む。早晩、失血死するだろう。


 けれど、と千景は懸念をこぼす。


 やはりスカリビはフォールンだ。人類の天敵、実に世界人口の半数以上を殺戮した人類社会の破壊者にして、絶対超越者だ。


 体構造は生物に近く、頭部は人間に近い。人類に匹敵する適応能力と進化速度を有し、土壇場で想像もしていなかった力を発揮する。手負いとなってもその生命活動が停止するまでは決して油断できない。


 今はただとぐろをまくまま、防御態勢を取っているスカリビも自身に浴びせられた一撃が大したものではない。あの音は決して自分を殺しうるものではない、と気がつけばどんな行動にでるか、わかったものではない。


 フォールンの底知れない潜在能力への畏怖とかつての教訓から千景は廃都の一角に聳える高層ビルへ入ると階段を登りできるだけ高層まで登った。


 彼がその小さな両足で階段を登っている間も周囲の瓦礫を弾く音がこだました。蛇尾を振るっているのか、はたまたその胴体で周囲の建物に体当たりをしているのか。暗い階段を登る千景には判断しかねる破壊音がいくつも響く。


 音と共に建物も揺れた。朽ちた天井からの落石、割れた窓、倒れた花瓶。かつてはオフィスビルとして使われていたのか、古く錆びた机やシートが剥がれた椅子が目はしをかすめた。それらは建物が揺れて傾くと割れた窓から勢いよく射出され、あとに残ったのは空っぽのテナントだけだった。


 天秤が傾けば千景もああなる。


 階段というただでさえ不安定な場所を登っているのだ。もし上階から何かが転がってくれば避けようがない。人はアニメのキャラクターほど反射神経が高いわけでも、危機察知能力があるわけでもないのだ。


 久々の重労働に心臓が悲鳴をあげる。先の高層ビルを登った時はジャベリンを用いることで楽々と登ったが、今は標的にバレないように徒歩だ。しかも全力疾走をしているせいで体力の減りも速い。


 はぁはぁと肩で息をする千景がふと踊り場の表示記号を見ると、8階と表記されていた。ここまで登ればいいだろう、と千景はフロアに顔を出す。


 鉄の扉を開き、周囲を見回すと建物の左右へ向かう長い廊下、そして正面に何か大きなものが通ったと思しき大きな穴が開いていた。そういえば、と彼が振り返ると大きく凹んだ鉄扉がさっきまで彼がいた階段側に向かって開かれていた。


 「オーガフェイスかブラットでも通ったのか?」


 スカリビよりも小型だが、代表的なフォールン二種の名前をこぼす。しかしすぐに思考を考察モードから戦闘モードへと切り替え、千景は警戒心を強めた。


 ビルの外では未だにスカリビが暴れる音が聞こえた。もはやあの強力な舌も音響センサーの役割を果たす頭部の穴が開いたこぶも意味はない。受け取る情報を処理する能力はスカリビから失われていた。


 それは好機であり、同時にとてつもないバーサーカーを生んだということだった。


 スカリビは通常、周囲を破壊するような行動はとらない。その巨体にあぐらをかくことなく、獲物の位置を掴んだスカリビは音もなく背後に忍び込み、一口で喰らってしまう。時には自身よりも巨大な生物を飲み込んでしまうほどだ。


 それは決してスカリビが臆病だからとか、蛇の習性が反映されたからとかではなく、静寂狩猟サイレント・ハントが最も効率的だと判断したからだ。無用な破壊は無意味な争いを生む、と本能で理解しているから、その力を誇示しようとしない。


 「まったく人間的な」


 獣にとって持ちうる力すべてを出すのが一般的だろうに、と千景はスカリビの厄介な習性に愚痴る。わかりやすく暴力的で、わかりやすく恐ろしい存在であればわかりやすく怖いと思えるが、わかりにくい脅威は余人にはわかりにくい。


 ライオンやクマ、狼を怖いと言う人はいても、蚊やハエ、ねずみを怖いと言う人間が少ないように、人伝でもわかる脅威はわかりやすく怖いが、当事者にならなければわからない脅威はわかりにくく厄介だ。その点で言えばスカリビは後者だ。


 狩るとなれば後者ほど恐ろしいものはない。自分の力を誇示しない獣は怖いと狩人に思わせないから。そして気がつけば首に手をかける白い手指があり、抵抗しようとしても万力を思わせる剛力で締め上げ、狩人は果てる。


 だが今のスカリビはどうだ。わかりやすく暴れ、わかりやすく破壊する。その行動は一切理性的ではなく、合理的ではない。


 まったくうらやましいほどに獣的で、素っ裸の本能のままに暴れるその姿は人が忘れた畜生そのものだった。数万年前、まだ石器どころか火すらみつけていない、時間という概念すら知り得なかった野猿どもと同じく、目につくものすべてに食らいつく。


 彼らは千景が手にある無骨な凶器も、袖を通している厚手の防寒ジャケットや履いている分厚い軍用ブーツもなく、素っ裸のまま自然体で生を謳歌していた。時には獣に襲われ、命を落とすこともあっただろう。爪も牙も甲羅も持たない弱小種なのだから当然だ。


 しかしそれは自然の営みだ。弱肉強食という自然の断りだ。


 だから。


 「——だから俺達をそれに巻き込むな。俺達には迂遠な世界だ、それは」


 地上8階、高さにして20メートル以上、スカリビの意識外から千景はその割れた仮面を狙う。装填された弾丸たまは一発、ボルトアクション式である以上、自動装填ができる他の狙撃銃以上に慎重に千景は照準を合わせた。


 たった一発ですべてが決まる。


 ボロボロに砕けた今の仮面はスカリビの表皮に癒着することでかろうじて形を保っている。しかしそれは彼の弾丸が亀裂に直撃すれば最も容易く砕け散り、剥がれ落ちる。


 フォールンは仮面なくして生きられない。仮面が砕けたフォールンは死ぬ。生物を超越した化け物にはお似合いの、ファンタジーな弱点だ。


 どれだけピンピンしていようと、仮面さえ砕ければフォールンは死ぬのだ。それがわかっていて、しかし人類は追い詰められた。それは頭で考えるほど仮面を砕くという作業が簡単ではないからだ。


 その頑丈さは例え小さなフォールンであっても容易くは砕けない。対物ライフルの直撃を受けてようやくといった具合だ。小型でさえ特大の火器を必要とするならば、今、千景がやろうとしているように、十分に傷んだ仮面でもなければ大型のフォールンの仮面は砕けない。


 ふーっと息を吐き、引き金に指をかける。暴れてはいるが、それは蛇尾に限り、頭部はもたげたまま動かない。いや下手に動かせば脳しんとうを起こすからか。


 脳の異常を本能的に察している。まるでアイスホッケーの選手のようだ、と千景の狙撃の師匠であればこぼすだろう。今はその状態が好ましい。


 銃口をわずかに下方へ向け、千景はそのまま瓦礫の上にかがみ込んだ。左手を銃身に添え、左の膝頭に乗せて銃身を安定させる。風も思ったよりは吹いていない。完璧な環境だ。


 ——そして千景は引き金を引いた。


 銃口が橙色の閃光を放ち、同時に薬室から銃口へ向かって鋼色の対フォールン用特殊弾が射出される。フォールンの頑丈な表皮を貫くために設計された特殊弾丸、しかしそれでも仮面は砕けない。


 弾丸は吸い込まれるようにスカリビの仮面に入った亀裂に命中し、直後弾丸の衝撃によってスカリビの頭部を守っていた仮面が四散する。薄氷を砕くように鼻部周辺の仮面が砕け、ぐらりとその巨体が左右に揺れた。


 その名前通りに体は蛇行し、数秒たっぷりと時間をかけてスカリビは頭から地面に激突した。ドシャンという音と共に砂埃が起こった。


 スコープ越しに千景はスカリビの死亡を確認する。呼吸をしているそぶりは見せない。これが蛇特有の死んだふりであれば騙されても仕方ないのだろうが、あいにくとスカリビは蛇に似ているだけの化け物だ。


 試しに再度装填した弾丸でその頭蓋に余ったわずか仮面を砕いた。反応はない。安堵を覚え、しかしそれでも絶対の安心はできない千景はゴーグルの丁番に左手を添えた。


 ダブルチェックならぬトリプルチェックのためにゴーグルに仕込まれているサーモカメラを起動し、体温の動向を観察する。数分の観察、その間に最初は青ばかりの背景にぼんやりと浮かんでいた赤い塊は徐々に周囲の色と同化し始めた。


 「ふぅ」


 久方ぶりの重労働。単独任務を命令された時はああ、今日が命日かと天を仰いだが、終わってみればどうにかなったな、と千景は安堵から緊張感が一気にほどけ、息を吐いた。


 ずっと動かないままの状態が続いたせいで体の節々が痛い。肘や前腕部などはずっと地面につけていたせいで打ち身がひどい。全身に筋トレ用のプロテクターを付けているのかと錯覚するほど両手が、両足が、重い。


 脱力感がどっと押し寄せ、体が思うように動かないせいだ、と千景が気づいたのは数秒経ってからだった。疲労感は肩に重くのしかかり、この場で蹲りたくなるように両足から力を奪ってくるが、そんなことをしていられるほど状況が安全というわけでもない。


 改めて気を取り直し、周囲を警戒する千景の頬を撫でる一陣の風が通り抜けた。


 ふと強風が吹き、千景は目の前の景色を漆黒の双眸に刻んだ。


 先程まで吹き荒れていた砂煙が止み、蒼穹は虹色の陽光で以て大地を照らす。白雲の間から漏れ出た光によって明らかになるのは人類文明の大いなる遺跡、彼らの墓標に他ならない。


 かつては多く立ち並んだ摩天楼も今や残骸と化し、根本が崩れ倒れてしまったものが多数見える。見える範囲には蔦や苔がびっしりと壁面を覆った廃墟がいくつもあり、ついさっきまでの砂嵐のせいか、建物の多くは砂を被り、いつにも増してみすぼらしく見えた。


 世は退廃の時代、そして退敗の時代。


 かつて栄華を極めて人類は、しかしその活動範囲を大きく縮小させられ、この地球という惑星は人類にとってかつてないほど過酷な環境へと変貌した。


 ある学者は言った。人類がこれほど追い詰められたのは有史以前、ホモサピエンスに成り立ての頃以来だ、と。人類は今、雌伏の時にいて、雄飛を待っているのだ、と。


 それはある種の逃避、なんら根拠の戯言だ。見たくもない現実を直視することを恐れた思考放棄の弁だ。


 改めて言おう。


 世は退廃の時代、人類の所産はことごとく瓦解し、星は人類を裏切った。


 しかし人類はまだ生きている。この人類にとって過酷な時代にまだ生きていた。


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