幸福

「おい。どこ連れてく気だよ……」


 彼女が発する底知れぬ圧に、俺は負けた。

 それを良いことに、彼女はキャンパスの敷地を出てからというもの、俺をロクに気に掛ける素振りすら見せず、先を急ぐ。


 こうして彼女に言われるがまま、律儀に後を追っている理由は自分でも良く分かっていない。

 だがもし、強いて挙げるとするならば、それは彼女に対しての違和感か。

 彼女は、俺の恨み節染みた小言に、一定の理解を示していた。

 同族とまではいかないながらも、俺は彼女から他の連中とは違う何かを感じ始めている。

 だから実のところ、彼女の頼み云々は別にして、その違和感の正体を突き止めてみたかっただけなのかもしれない。

 そんな俺の下らない自己分析などどこ吹く風とばかりに、彼女は一歩、ニ歩と、淡々と足を進める。


「着いてから話すよ。つっても、話すのはじゃないんだけど」

「は? どういうことだよ」

「まぁまぁ! アンタ、急いでんでしょ? だったら用事は早く済ませるに越したことないじゃん? そういやアンタ、判子とか持ってたりする?」

「……ねぇよ」

「そ、そっか! だよねー、あははは……」


 なんだろうか……。不安しかない。

 俺は何を契約させられるというのか。

  

「……言っておくけどな。俺は付いてこいと言われたから付いて来ただけで、何かを了承した覚えはねぇぞ」

「わーってるって! 別にアンタのことハメてやろうってワケじゃないから! ただ何? アンタがかもしれないって思ったから」

「……今、不穏なワードが聞こえたんだが。何だよ、適格者って」


 俺は歩みを止め、彼女に問いかける。

 彼女は振り返り、恐る恐るといった様子で俺の顔を覗き込んでくる。


「えっと、ね……。ま、まぁ要するにさ! アンタみたいな奴にしかできない、みたいな? 天職……、そう天職っ! これはアンタにとっての天職なのっ!」

「帰る……」


 俺は彼女に背を向け、来た道を引き返そうとする。

 ……が、彼女は瞬時に両腕で俺を羽交い締めにし、身動きを封じてくる。


「ちょっ!? 帰らないでよ! さっきは良いっつったじゃん!」

「だから、何も了承はしてねぇっつーの! つーか、この期に及んでまた仕事させられるのかよ! なんだ!? 俺は労働者の鑑か!」

「いいじゃんいいじゃんっ! お金に困ってるんでしょ!? 日給5万円以上可! 特別なスキルは一切必要ナシ! 履歴書不要で未経験でもガッツリ稼げるカ・ン・タ・ンなオシゴトだよ!? 人生変えるなら今しかないっ!」

「完全に闇バイトのソレじゃねぇか! お前、さっきと言ってること全然違ぇだろ!」

「ここまで来て帰るとか反則っしょ!? ねぇっ! 一生のお願いっ! ココでアンタに逃げられるとアタシ、に何されるか分かんなーーーーいっ!!!」

「だから誰だよ! そのチサさんってのは! ますます怪しいわ! 大体お前は」


「もうっ! さっきからって! お前、じゃないっ! 新井 奏依あらい かなえ! 一応、隣りの席なんだから分かるでしょっ!」


 新井は抵抗する俺を取り押さえつつ、自己紹介を挟んでくる。

 そのあまりの必死さに馬鹿馬鹿しくなり、自然と抵抗する力も弱まっていく。

 それに合わせて、彼女が俺を拘束する力も徐々に緩んでいった。


「今、初めて知ったわ……」

「じゃあ、今、覚えてよ……。アタシ、だって、アンタに顔も名前も、覚えてもらってなかったこと、それなりにショック、だったんだ、からね……」


 俺の拘束で消耗した新井は、息も絶え絶えになりながら話す。


「そりゃ悪かったな……。お前に限らず、大学では誰とも関わるつもりがなかったからな」

「あのさ……。アンタの事情とか詳しくは知らないけどさ。マジな話、このままでいいと思ってるの?」

「『このままで』って……。何が、だよ?」

「アンタの人生!」


 新井は俺を真っ直ぐに見つめ、迷いなく言う。

 何かの煽りで言っているわけではなさそうだ。

 

「……人のこと、お先真っ暗みたいに言いやがって。このままも何も別に俺は」


「アタシは嫌っ!!!」


 俺の応えを待たずに、新井は勢いよく言い切る。

 

「アタシは嫌……。生まれた環境とかが原因で、泣き寝入りみたいになるなんて。アタシだって幸せになりたい。幸せを諦めたくないっ!」


「……まるで『今が幸せじゃない』、みたいな言い草だな」


「幸せそうに、見える?」


 彼女は少し涙声になりながら、どうにも応えに窮する質問を投げかけてくる。

 少なくとも、教室と話した時と今とでは印象がだいぶ違う。

 新井がそう応えるのであれば、そうなのだろう。

 不思議と、そう納得し得るだけの信憑性が今の彼女にはあった。

 

「……知らねぇよ。つーか興味もねぇよ。お前が幸せかどうかなんて」


「そりゃそうだよね。アタシだって、他人の幸せには興味ない」


 俺の苦し紛れの返答に、新井はフッと口角を上げ、偉く草臥れた笑みを浮かべる。


「アタシん家さ。母子家庭なんだ」


 彼女にそう言われた直後、俺は二の句が継げなかった。

 というより、率直に言って動揺してしまった。


「あれ? 意外だった?」


 新井は、からかうような笑みで言う。


「別に……。意外とかじゃねぇよ」


「父親はアタシが小さい頃に離婚したらしくてさ。顔も知らない。そんで母親ってのもまぁまぁな感じでね……。まぁ詳しくは話さないけどさ! だからアンタが貧乏って聞いて、他人事とは思えなくて……」


「そうか……」


「さっきはさ。勝手なこと言っちゃってごめん……。でもアンタみたいなの見てると、もったいないって思っちゃうんだよね。だってアンタ、頑張ってんじゃん! 毎日、バイトとか勉強とか、さ。周りは皆、遊んでんのに」


 不意にそう言われた瞬間、胸の奥底からじんわりとした何かが込み上がってくる感覚に襲われる。

 それこそ、今までに体験したことのないものだった。

 脈も露骨に早くなり、軽くパニックに近い状態に陥りそうになった。


「俺の、何を知ってるってんだよ……」


 俺は誤魔化すように吐き捨てる。


「何も知らない。ただ、のっぴきならない事情? てーの? そのくらいは分かるよ」


 新井はそう言って、はにかむように笑った。

 やはり俺は彼女のことを、少し誤解していたようだ。


「……俺も悪かったよ。何も知らずに、遊んでそうとか言って」


「あぁアレ? 別に気にしてないし。むしろ、遊んでそうに見られたくてやってたみたいな部分もあったしね。ホラ! 形から入る、的な?」


「……何だかよく分からんが。……まぁお詫びっつーわけでもないけど、分かったよ。とりあえずはお前の言う通りにする。でもこれだけは教えてくれ! そのチサさん? って人は本当に大丈夫なんだよな? イロイロな意味で」


 俺が聞くと、新井は急速に顔色を変え、どことなくバツの悪そうな態度になる。


「え、えーっと、うーん……、ぶっちゃけ変わった人、ではあるかな? 何考えてるか分かんないし……。でもね! ちゃんと話してみると、結構納得できる部分もあるんだよね。目から鱗? っていうかさ!」


「……大丈夫かよ、それ。今んとこ、インチキカルトの話にしか聞こえねぇんだけど」


「たぶんだけど、アタシがここでいくら説明してもピンと来ないと思う。まぁ詳しくは後で話すけどさ。アタシ、チサさんに借りがあるんよ。だからこうやってアンタを誘ってきたのは、ある意味で交換条件的な? つーことで、今アンタに帰られると個人的にスゴーーーく困るワケなんですよ、はい!」


「嫌な予感しかしない……。でもまぁ、分かったよ……。ただな! 怪しいと感じたら即座に帰るからな!」


「うんっ! よろしく!」


 新井は屈託のない笑みで応えた。

 俺は今日何度目かも分からないため息を吐きつつ、彼女の後を追った。

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