第六章 息子と母と人外
第1話 葛藤。その根底にあるもの
今、私の目の前には二つの選択肢がある。
「転んだって……、そんなわけないでしょ! はっきりくっきり拳の大きさのアザよ? どんだけ器用な転び方ならそんなアザが作れるっていうのよ! ケンカ? イジメ? 一体何があったの?」
と詰め寄るか、
「あららー。保冷剤あるわよ。冷やしとく?」
と、まだ子どもだし、喧嘩くらいするわと鷹揚に見守るか。
前者の場合、私が心配していることだけはよく伝わるだろうが、だからこそ本当のことを言いにくくなるかもしれない。
私自身が小学校で仲間外れにされた時、親に話せなかったことを思い出す。
誰かに嫌われているような恥ずかしい自分を知られたくないという気持ちと、親を悲しませたくないという気持ちがあったからだ。
けろっと「そうなの?」とでも軽く受け入れてくれるような想像ができれば、私も気軽に言えていたかもしれない。
そう思っての後者なのだが、それはそれで淡泊すぎると、『逃げた』『正面から向き合ってくれない』『きちんと話を聞いてくれないのではないか』と思われる可能性もある。
普段から息子が大切だと示しているのだからそんなの大丈夫……と言いたいところだが、やはりここぞという時の態度は大事だ。一気に覆ってしまう可能性だってある。
うーーーん……。
と、悩むこと一秒の後、結局私は、
「誰かにやられたんだったら、お母さんが一発殴り返してきてやるわよ」
という、選択肢にもない不正解を叩き出したのだった。
何故そんなことを――? と自分に問いかけても答えはでない。
一瞬のことで、脳を通らず言葉が喉からほとばしっていたのだ。
これはいけない。
中学生にもなって親が代わりに出張るとか、一番ダメなパターンだ。
しかも、やり返したいのは息子だろうに、何で私が――。
思わず頭を抱えそうになったところを、息子の「ぷっ」と吹き出す声が思考の渦から引き上げた。
「
「この間四十二になりました」
「なおさらだよ」
「すみません」
息子はけらけらと声をあげて笑いながら、「いてててっ」と頬に手を当てた。
「ちょっと、ホントに笑わせないでよね。動かすと痛いんだよ。こりゃーご飯食べるのも苦労するわー」
「お粥にする……?」
「別に病人じゃないよ。もー、お母さんって本当ズレてるよね」
おかゆならあまり頬を動かさずに食べられると思ったのだが。
だが確かに会話が思っていたのとズレてきている。
「さーせん」
「男子高校生みたいな謝り方しないで。本当ほっぺ痛い」
「中学生になってほっぺって言う息子よ、かわいいぞ」
「わかったから、もう、笑わせないでってば!」
そう言って息子は「はあ~」と息を吐き出しながら笑いを収めると、「大丈夫だよ」と口の端に少しだけ笑みをのせた。
「大したことじゃないんだ。本当にやばいときは、ちゃんと相談するからさ」
「うん、わかった。困った時はいつでも、フリーダイヤル0120の……」
「お母さんってば! もう、俺行くよ!」
そう言って怒ったふりをして笑いながら私を通り過ぎ、息子は階段をトントンと上っていってしまった。
何を言えば正解だったのか。
この後どうすればいいのか。
頭の中はぐるぐると忙しく考え続けていたけれど、そう簡単に答えは出ない。
ノイバスティみたいにあらゆる本を体に取りこんだら、チーンと最適解を出してくれたらいいのに。
はっ――
そうだ、ノイバスティ。
私にはノイバスティがいる。
◇
一体息子の身に何が起きたのか。何が起きているのか。
もしかしたら先生は何かを察知していて、探るような電話をかけてきていたのではないか。
だがそれはつまり、先生も何が起きているかははっきりとわかっていないということではないのか。
中学生ともなると、そういうことが起きるのは大抵が教師の目が届かないところがほとんどだろう。
怒られるとわかっていてわざわざ先生の前でやらかす子どももいない。
こういう時にママ友ネットワークが構築されていれば、女子生徒の親御さんなどは娘からあれこれ聞いているから、当事者よりもよほど詳しく話が聞けたりするのだが。
中学二年生の今のクラスには残念ながらそういうツテがない。
中学校は複数の小学校から集まってきているから人数も多いし、ちょっとした事件だと親の繋がりだけで把握するのも難しい。
息子もあの通り、真正面から聞いても素直に答えはしないし。
とはいえ、私は大きく構えていられるほど親レベルも高くはないので、とっても気になる。
今の状態では黙って見守っていていいのか、大人による何らかの介入が必要なのかの判断もつかない。
そりゃあ息子はああ言ったけれども、だからといってソファに深く沈んで明日の天気予報を見ていられる余裕はない。
そうなると、私が取る行動は一つだ。
卑怯だという誹りは甘んじて受けよう。
人間がスマホという文明の利器を手に入れてから発展と共に堕落したのと同じように、一度ノイバスティという存在を知ってしまうとついつい頼りたくなってしまう。
音を殺し、己をできるだけ階段に沿わせ、傍から見られたら「親失格!」の烙印を押されかねないとんでもなく情けない格好で私は息子の部屋へと忍んでいく。
「でもそれならモナカじゃなくてあんこを追求したほうがよくない?」
声は聞こえたが、またモナカの話だった。
「確かにモナカのおいしさの鍵はあんこであると言えるかもしれません。しかし、皮とあんこがあるからモナカなのであって、あんこだけではそれはあんこです。そもそもまずいあんこはあるのかという調査は確かに興味深いですが、しかしあんこにプラスの要素、モナカの皮が加わっても、それでもおいしくないモナカは今のところ見つからないのです。これはやはり奇跡ではないでしょうか。あんこも皮もどちらもまずいものを見つけることができないということですよ?」
「確かにそうだね」
いや、わからなくはないが、よくモナカ論で白熱できるなと思う。
結局息子たちはいつまでもモナカについて激論を交わしていて、話題が変わる気配もない。
私は腹を空かせた息子のために夕食を作るべく、そっと階段を下りていった。
こうなったら、夕食の時に再アタックだ。
いや。息子もああ言っていたのだ。もうそっとしておいたほうがいいのではないか。
いやいや、もう中学生とはいえそこはまだ生まれて十四年のひよっこだ。適切な親の介入が望ましい事案だってあるのではないか。
いやいやいや、無理に話を聞き出そうとすると息子が頑なになる可能性もある。いい加減ほっとけよ! とキレられたら信頼関係だって失うし二度と話は聞けなくなる。
いやいやいやいや、そんなことを恐れて日和っていてこの先もっと何かが起きたらどうする! 私は親だ。子どもの心身を守るのが役目。息子に任せておいて大丈夫だと判断できるまでは追及すべきだ。
結局私はひたすらきゅうりをスタタタタタと薄切りしながら、一人脳内で激論を交わし続け、息子と二人の夕食を終えても決着がつくことはなかった。
親なんて、非力なものである。
子どもが大事で、なんとか守ってやりたいと思っても、できることは多くない。正解一つ簡単にはつかめない。
それでもあきらめきれないのが親なのである。
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