第4話 確信

「ただいまー」


 ふう、と息を吐きながら靴下を脱ぎ、ペタペタ歩いてくる息子に、私はさりげなく声をかけた。


「おかえり。今日はゴキブリ退治をしておいたから」

「勇者だね」

「叩き潰したりはしてないわ。下僕げぼ……、G殲滅要員を呼びに行ってたら間に合わなかったの」

「お父さんは立ち上がるのが遅いもんね」

「それで家中にブシューっと薬剤を撒いたのよ」

「ええ? スプレーで見境なく? 大変そうというか、その光景を想像するともはや狂者だね」


 ははっと笑った息子の様子を用心深くうかがいながら、私は説明をした。


「手でスプレーして回ったんじゃないわよ。くん蒸剤ってCMとかで見たことない? 小さな缶についたレバーを踏むと、あとは自動的にブシューっと薬剤を噴き出し続けるやつ。密閉した部屋中にその薬が広がって、Gどもが死に絶えるの。その間は私もお父さんも外に出なきゃいけないけど」

「……は? マジで? ってことは虫以外にも毒ってこと?」


 急に息子の顔色が変わる。


「人体には無害らしいけど、吸い込むと咳き込んだり頭痛がしたりとかはあるみたいよ」

「そんな……じゃあ……」


 息子は呟きの途中で勢いよく二階へと駆けだした。


 ――この反応。やはり。


 私もすぐにその後を追いかけたが、息子はしっかりと部屋の扉を閉ざしていたから中の様子はわからない。


「大丈夫、ベッドの下を漁ったりはしてないから」


 私はよくいる母親のように、思春期の子供が気にするはずの言葉を告げた。

 普通なら、それで安心するはずだと信じて。


 息子は何も答えない。

 別にそんなの気にしてないし、とうろたえるでもない。

 何言ってんの? とピュアっぷりで母を安心させるでもない。


「ただ、押し入れは開けておいた。一番Gが潜みやすいところだから」


 息子が部屋に入って真っ先に聞こえてきたのは勢いよく押し入れが開けられた音で、続いて聞こえていたガサガサという布団の圧縮袋らしき音が、止んだ。

 しばらくして静かに扉が開くと、息子は呆然としたように部屋を出ていった。

 先程帰ってきたばかりの玄関へと向かう息子に私は声もかけられなかった。


 隙間からちらりと息子の部屋を覗くと、押し入れは開け放たれ、中の布団がすべて出されていた。

 押し入れは空っぽで、息子の部屋には何もいない。

 薬剤を仕掛ける時は、Gが好むような収納系の扉をすべて開けなければならない。

 必死だった私は、使い方の説明動画の通りに遂行することしか考えていなかった。

 今だって、試すつもりで言ったわけではなかった。

 もし押し入れに本当に何かいたのなら黙っておくべきではないと思ったのだ。

 だけど、結果として確信することとなった。

 やはり、息子の押し入れには何かがいたのだ。




 息子は二十時を過ぎる頃に音もなく帰ってくると、夕飯も食べずに部屋に引きこもってしまった。

 しかし翌朝起きてくると、すっかり明るく快活で。


「おはよう!」


 むしろいつも以上に爽やかに挨拶をした息子に、ほっとするやら何やら……。

 どうやら押し入れにいた何かは無事だったようだ。

 やはり窓を開けてどこかに逃げていたのだろう。

 それで夜のうちに戻ってきたというところか。


 となると、私は押し入れにいた何かを害しかけていたことになる。

 考えてぞっとした。

 無事でいてくれてありがとう。逃げてくれてありがとう。


 しかし、本当にそうか?

 それは無害なのか? 息子が必死で親に隠すようなものなのに。

 ――いや。それこそ息子を信じるべきだろう。


 自分で窓を開けて逃げ出したということは、それは、拾ってきた子猫だとか兎なんてものではない。人型であるはずだ。

 ワンチャン、猿という線はある。

 あるが、どこで拾ってくる?


 諦めよう。もう認めよう。

 息子はどこかで人を拾ってきたのだ。

 彼女か友人かはわからないが、何か事情を抱えていて家に帰れないのかもしれない。

 息子がそうであると同時に、友人たちももれなく思春期なのだ。

 事情もいろいろあるだろう。

 だがそうとなったら何も知らず放っておくだけではいられない。

 場合によってはこちらが誘拐したと訴えられかねないし、それになにより、相手の家族も心配して探し回っているかもしれない。

 家に帰りたくないからといって、家族が虐待しているとか、ネグレクトとかばかりじゃないだろうし、単なる親子喧嘩ということだってある。


 先入観や思い込みで対応を誤れば、息子の信頼だって失う。

 対応は慎重に。だけど速やかに。

 そんなことを一日中ぐるぐると考えていた私は、学校に行っていた息子が帰ってくると、きっちり三十分経つのを待った。

 それから音を殺して階段を四つん這いで登り、廊下を這いつくばって息子の部屋へと忍び寄った。

 扉に近づくにつれ、ひそひそとした息子の声が聞こえてくる。


「大丈夫だった?」

「うん」

「お母さんにバレてない?」

「お母さんにもお父さんにもバレてない」


 声からは男とも女ともわからない。ダミ声ではないから、おじさんではなさそうで一つ安心した。

 押し入れからおじさんが出てきたらさすがに反射で警察を呼ぶ。


「お父さん?」

「うん。昨日いた。Gって呼んでるやつと、お母さんきて、その後、お母さんとお父さん来た」

「なるほど。退治をお父さんに頼んだんだね。お母さん、自分でできるけどお父さんに役割をあげてるんだよ」


 まさか息子がそんなことに気が付いているとは。

 息子はため息を吐き、続けた。


「この間の話も聞いて肝が冷えたけど、布団をどかされなかったのは助かったよ。絶対面倒くさかったんだと思う」


 恐縮です。

 しかしなるほど。

 布団がやけにふすまに突っかかると思ったら、奥に誰かがいたせいだったのだろう。


「お父さんとお母さんの二人が相手だと、今後見つかる可能性も高くなるよね。でもGは殲滅したと思ってるから、しばらくは安心だと思う」

「G、なぜ殲滅? お母さん、Gを閉じ込めた。お母さん、いなくなった。だからワタシ、友達になろうと思った。生き物、この部屋いない、寂しい」


 帰国子女なのだろうか。

 随分とたどたどしい日本語だ。

 しかし、Gと友達になろうと思ったとは、あまりに新しすぎる発想だ。どうしよう。仲良くなれる気がしない。


「そっか、いつも留守番ばかりで寂しいよね。ごめんね、僕学校行かなくちゃいけないから。ところで、友達になろうとしたってことは、もしかして」

「はい。フタ開けた。飛んだ。ドアぶつかって、隙間から廊下、出てった」


 なんだと……?


「ああ、やっぱりね。逃がしちゃったか」

「はい。お母さん、お父さん来た。逃げちゃった、で、お父さん諦めた。けどお母さん、『絶対殲滅してやるわ』言って、いなくなった。そして帰ってきて、煙だらけになった。だから、ワタシ逃げた」

「相変わらずGには容赦ないな」


 まさか一番物騒な心の囁きが声に出ていたとは。夢中過ぎて無自覚だったのが自分でも怖い。

 しかし、やはり押し入れの同居人はそこで窓を開け放ち逃げ出していたのか。

 ということは、息子の部屋は薬剤がほとんど効いていない可能性が高い上に、Gもまだどこかの部屋に生き残っている可能性がある。

 部屋という部屋は薬剤を設置したものの、廊下はやっていないし。

 明日もう一度買ってこなければ。


「ごめんなさい。ワタシ、バレたら、追い出される」

「いや、こっちこそごめんね。こんな窮屈な暮らししかさせてあげられなくて」


 はっと気が付いた。

 夜食のおにぎり。

 コンビニのサンドイッチ、モナカ。

 あれらはやはり同居人のためのものだったのか。


 しかし、だとしたら兎のエサはなんなのかという疑問はまだ残る。

 ウサギも一緒に連れて家出してきたのかもしれない。

 だとしたら、押し入れに……?

 そう考えて、ぞっとした。

 Gどころではない。

 押し入れなんかでウサギを飼っていたら、ダニやらノミやらが繁殖し放題ではないのか?

 それに、フンはどこに処理されているのか。

 ゴミに出ている気配はないし、家の庭に埋めてでもいるのだろうか。

 とにかく早めにアシストしなければ、息子がいつの間にか招いていたお客様にも窮屈な思いをさせ続けるわけにはいかない。


 しかし、デリケートな問題だ。

 まずは息子に私は敵ではないのだと示さなければならない。

 話しやすい雰囲気を醸し、頼りやすい空気を醸成し、家出してきたその子を助けるメンバーの一員になれると信頼を得ないと。


 そのためにも、こんな風に廊下に這いつくばって盗み聞きをしているなどということがバレたら一切の信用を失うのだから、情報収集は密やかにしなければ。

 そう決意し、私は来た時の逆再生をするように、腹ばいのままそーっとそーっと足から階段を下りて行った。

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