都内某所、子ども部屋

 開け放たれた窓と風に揺れるカーテンを目にして、モリヤはその場にへたり込みそうになった。間に合わなかった、と奥歯を噛んでベッドに目を遣ると、果たして眠る未遠の傍らには黒い影が跪いており、ゆるやかに振り向いて微笑した。薄くととのった唇は蒼ざめている。

 未遠のブログを読んだとき、文字通り目の前が真っ暗になって、深い深い穴へ落ち込んでゆくような目眩をおぼえた。咄嗟にナイフを掴み、廊下を隔てて向かい側の未遠の部屋へ飛び込んだのだったが、遅かった。予感していた最悪の光景が、そこには展開されていた。

 未遠の部屋は、モリヤの部屋と同じようにモノトーンでまとめられ、年相応のかわいらしさや華やかさはなかったが、ただベッドだけは枕許から足元に至るまでいっぱいに縫いぐるみが並べられていた。犬、猫、うさぎ、クマ、ミッキー・マウスにドナルド・ダック、『ナイトメアー・ビフォア・クリスマス』のジャック・スケリントン、などなどに未遠はほとんど埋もれている。その顔は血の気がなく蒼白で、人形のようだった。力なく垂れ下がった右手の、折れそうな手首を男がおしいただいている。

「……遅かった、ですね。モリヤ」

 独特なイントネーションの、穏やかな声を聞いた途端、モリヤは頭に血が上るのを感じた。ナイフを胸の高さに構え、刃先を真っ直ぐ男に向けた。

「そこを退いて。未遠から離れて!」

「残念ですが、手遅れ……です。ミオはもう……目を覚ますことは……ありません。……人間としてはね」

「何をした、未遠に!」

「望みを……叶えて差し上げた、だけですよ……。……ご自分の目で、確かめますか……」

 男は未遠の手をそっと離し、数歩下がって壁に背を凭せかけた。腕を組み、冷えた眼差しでモリヤを見ている。モリヤはおそるおそるベッドに歩み寄り、未遠の顔をのぞきこんだ。未遠は口を僅かにあけ、安らいだ表情で昏々と眠っているように見えた。頬に触れると氷のように冷たい。震える指先で頸動脈を探ると、脈は今にも消え入りそうに弱々しかったが、傷のようなものは見当たらなかった。

 体の脇にだらりと落ちている右手を胸の上に戻してやろうと何気なく手をとって、モリヤはぎょっとした。手首の裏に、小さな穴がふたつ並んであいていた。虫刺されのようにも見えるが、それにしては深い。命に関わるようなものには思えなかった。けれど、この傷痕をモリヤは知っていた。変死したミシンの手首にも似たような傷があったと報じられていたことを思い出すにつれて、モリヤの背筋を冷たいものがゆっくりと這いのぼってきた。

「……ミシンを殺したのも、あんたか」

 嫌悪をこめてモリヤが吐き捨てると、男は眉根を寄せて苦く笑った。

「……彼女が、そうしてくれとせがむから、キスをしてあげただけですよ……。ミオだって、そうです。永遠を……欲しいと、言ったのはミオだ……。私は、今、わざわざリスクをおかしてまで……食事を……しなければならないほど、切羽詰まって空腹では、ない」

「あの子は何にもわかってなかった。あんたが聞こえのいい言葉で誑かせば、簡単に騙せたでしょうよ、こんな子ども」

「ミオは怖がっていましたよ」

 淡々と語る男の口許から、いつしか笑みが消えていた。

「私に、手を差し出したとき……ミオは……可哀想に、指の先まで震えていた。……私と同じものになるためには、一度、人間としての死を通らなければならない……、と知って、気の毒なくらいに……怯えきっていました。それでも……私を拒まなかった。……あなたのために不死者になることを選択したというのに、随分酷いことを言う……」

「……あたし?!」

 モリヤの声は半ば悲鳴だった。男は断罪するように容赦なく、そうです、と言った。

「ミオは言っていた。……死ぬのもこわいけど、このまま体がおとなになって、モリヤに見捨てられるのは、もっとこわい……。……今ならまだ間に合う。この曖昧な……なにものでもない体のままでいたい。そうして……ずっと、モリヤのそばにいたい……。……それがミオの望みです。ミオが……身を以て体現しようとしている残酷な永遠は、モリヤ、あなたが……望んだものだ……」

 そんな馬鹿な。私が望んだから未遠はヴァンパイアになったというのか。この世でいちばん可愛い妹を吸血鬼にすることが、私が望んだ結果だというのか。……そうだったかも知れない。確かに私は、あの子が人形のように今の姿をずっと保ってくれたらと、何度となく夢想した。……モリヤは激しく頭を振った。

「違う、違う!」

「今度は……あなたが、ミオに応える番では……ないですか」

「な、何を……」

「あと一度……私がキスをすれば、ミオの心臓は止まります。……そうして一昼夜もすれば、目を覚ます。……覚醒直後は、非常に強い飢餓感に苛まれます」

 モリヤは未遠の顔に目を落とした。あどけなく開いた口からのぞく犬歯が妙に尖っていることに気付いた。

「……あたしに献血しろってわけね」

 こんなときにも皮肉が口をついて出る自分に自分でも驚く。食事です、と男が言い替えた。

「食事を、させてあげて……ください」

 モリヤはナイフの柄を握り直した。

「あたしはあんたたちの仲間になる気はないって、前にも言ったつもりだけど」

「……我々の飢えと渇きは、空腹さえろくに知らないようなあなたには、想像もつかない、苛酷なものです。……死にものぐるいで縋り付いて泣くミオを、あなたは……見捨てるのですか? ミオは泣きながら言うでしょう……こわい……ひとりでは、どこへも行けない……おなかがすいた……」

「止めて! 知りもしないことを、見てきたみたいに、」

「知っていますよ。私は一度、見ています……私の主が、……墓地から甦って……私のもとへ戻られたときに」

「それであんたは吸血させたってわけか」

「……私に出来ることを、しました」

「泣けてくるような美談ね。そんなに大事なご主人様なのに、なぜ今あんたは一緒にいないの? 捨てられたの?」

 男は表情を亡くして黙った。あたりの空気ごと凍らせるような沈黙だった。束の間モリヤは憎悪を忘れ、言い過ぎたことを悔やんだ。

「……食事を、提供できないというなら……そのナイフで、ミオの心臓を貫くといい」

 ぞっとするほど低い、しかし蠱惑的な声で男が告げた。モリヤが弾かれたようにナイフを見る。

「このまま死なせれば……最早……ミオが吸血鬼として蘇生することは、避けられない。……その銀のナイフは、ミオを人間として死なせることが出来ます。そうすれば、魂は煙とともに天へ昇り……肉は灰となって、土に還る……」

 男に言われるまでもなく、モリヤはそのことをずっと考えていた。人間として死なせてやることが、今や未遠を救う唯一の方法で、この場で未遠のために自分が出来ること、しなければならないことはそれしかないと、モリヤにはわかっていた。

 静かに掛布をめくる。はずみで縫いぐるみが幾つか転がり落ちた。力を入れすぎて関節が白くなるほどナイフを握りしめ、横たわる未遠の小さな体の、心臓の真上にかざそうとした。そのとき、呼吸さえ消えそうな昏睡に陥っている筈の未遠が、身じろぎした。動揺してモリヤはナイフを取り落とした。切っ先が未遠の投げ出された右手を掠め、じわりと血が滲む。その紅は、モリヤが必死で保っていた理性を砕いた。床に崩れ落ちて膝をつき、両手で顔を覆って、モリヤは未遠の血を凝視した。

 男が身をかがめ、モリヤと同じ目線の高さで囁いた。

「死は、怖ろしくないのでしょう?……あなたはそう言った。……モリヤ」

「こわくない……あたしが、死ぬのは……でも……」

「それは、そうなのです。誰も皆、自分が死ぬことを怖れているわけでは……ないのです。本当に怖ろしいのは……」

 血が滲むほどに唇を噛み、モリヤは首を振った。知っていた。一度はただひとり、父も母も失ってこの世界に取り残されたのだ。

 だからこそ、もう何も失うものはないと、何も怖くないと思っていた。未遠だって、容姿を可愛がっていただけだ。

 そうだ、外見を偏愛するだけの歪な愛情だったから、自己中心的で激しい執着だったから、成長という名の変化によってゆるやかにそれが喪われていく、そんな当たり前のことすら未遠に赦すことが出来なかった……。

「モリヤ、あなたに……無理に、私たちと来い、とは……言いません」

 いやいやをするように首を振り続けるモリヤに、子どもをあやすように優しく、男が問いかけた。

「……ミオにキスをして、いいですか」

 張り裂けそうに目を見開いたモリヤの、眦から涙があふれた。大きく肩を震わせて未遠のベッドに突っ伏し、モリヤは一頻り慟哭した。やがて腕で顔をぬぐいながらよろよろと身を起こし、男に場所を譲るように後退ると、壁に背中をつけてずるずると座り込んだ。

「あなた方の会は楽しかった。本当は、もう少し……この街に居たかったのですが、ミシンのこともありますし……長くは、居られないでしょうね……」

 ひとりごちるように呟いて、騎士が王女に忠誠を誓うように男が未遠の手首にくちづけるのを、モリヤは白日夢のように眺めていた。

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