靖国通り、キリストン・カフェ

 日曜日の夜、モリヤは閉じこめてきたはずの男と再会した。

 ゴスロリ・サークル「ノスフェラン」の定例のお茶会は変わり映えがしなかった。頭からつま先まで黒ずくめのゴス、白やピンクやサックスブルーのリボンとフリルで飾りたてたロリータ、ロリータのスタイルをそのままに、白を黒、プードルやお菓子やハートの絵柄をスカルとクロスに取り替えたゴスロリ、ほつれさせ破れたジャケットを着たロックやパンク、さらには時代がかったドレスに大きくつばの広がった帽子など、現実離れしたファッションが一堂に会するさまは迫力があり、モリヤも何度見ても圧倒される。しかし実際やることはお喋りに花を咲かせ、写真を撮り、合間にサンドイッチをつまむ、といったモリヤにはそれほど情熱的になれないことばかりなのだった。

 ミシンと知り合ったのはこのお茶会だった。ミシンは「ノスフェラン」の幹部的な立場にいるので、お茶会に出席する限り顔を合わせることは避けられない。精神衛生のためにミシンと絶交して、もうお茶会に行くのも金輪際やめよう、とモリヤは常々思っていた。

 それなのに、ミシンに誘われるとつい出掛けてしまう。ミシンは顔を合わせると不思議なくらいモリヤに懐いてきた。真夏でも長袖かロングのグローブで腕にうっすら残る痕跡を隠しているモリヤのことなど本音では良く思っている筈がないのに、お茶会では何故かモリヤに気を遣ってくれ、特別扱いもしてくれた。そんなふうに接して来られると、モリヤも面と向かって邪険には出来ないのだった。

 とはいえ常に人に取り巻かれて忙しそうなミシンに積極的には近寄らず、モリヤは隅の方で黙々と未遠を撮影している。今回も、未遠を立たせたり椅子に座らせたり、微妙にポーズをとらせたりすることにモリヤはひたすら熱中していた。買ったばかりのアリスアウアアのブラウスとジャケットを主役にコーディネイトを考えぬき、それにあわせて髪をセットし化粧をした未遠は、異世界の少年の風情を漂わせていた。モリヤはその仕上がりにいたく満足し、その姿を一枚でも多くデータに残すことに夢中だった。そこへどこからともなくミシンが現れて、モリヤの隣で未遠の写真を撮りはじめた。

「未遠ちゃんって、少年装もいいけどロリータも似合いそうだよね。たまには女の子っぽい格好もすればいいのに」

 モリヤの地雷を踏んだことなど気付きもしないでミシンはそう言い放ち、やがてモリヤに自分のデジタルカメラを預けて未遠とのツーショットを撮らせ、「モリヤさんの今日のコルセットはやっぱりアウアア? ほそーい、すてきー、蜜蜂みたい」などとお世辞を言いながら未遠ともどもモリヤを人々の輪の中に放り込んだ。人が大勢集まるところは嫌いだし、よく知らない人間と喋るのも億劫なのに、ミシンに引っ張られて何がなんだかわからないうちに色々な人に写真を撮られているのがお茶会でのモリヤの常だった。困惑すること甚だしいのだが、ストロボの閃光を浴び続けるのは正直快い。強く目を開けてレンズを睨んでいると目の前が真っ白になって、何も無くなる。

 地に足がつかないふわふわした精神状態のまま、打ち上げに流れるミシンや常連メンバーのあとについて、予約してあるという店の前まで来たところで、モリヤはあっと叫びそうになった。濃い夕闇の中に、あの男がいた。長身に長い銀髪の夜の影。紅い瞳はサングラスに隠れていたが、見間違えようもない。隣で未遠がひゅっと息をのんだ。モリヤが反射的に未遠の肩を抱くと、未遠はモリヤの腕に縋りついた。

「ディイさん、こっちこっち!」

 ミシンが声をはずませて男に手を振った。男は微笑でミシンに応えた。その装いに視線を走らせて、再びモリヤは声をあげそうになった。未遠とお揃いなのだ。アリスアウアアの店員が、コンセプトは「ヴァンパイアの正装」だ、と言っていた新作だ。しかも憎たらしいほど着こなしている。ミシンがうっとりと言った。

「格好良い……。本当に、お茶会にもいらっしゃれば良かったのに」

「有り難う、ございます……この時間に起きるのが、精一杯で……」

「……夜の仕事か何かですか」

 モリヤは堪えきれずに割って入り、男を睨みつけた。男は笑顔でモリヤを見下ろし、あの掠れた低音で途切れ途切れに答えた。

「そう、ですね……。夜の世界にしか……、棲めないのです」

「きゃあ、仰ることも素敵!」

 ミシンのうわずった嬌声に、モリヤは舌打ちをした。誤魔化す余裕がない。

「……ミシン、知り合い?」

「うん、金曜の夜にヴァンパイア・カフェでお茶会の最後の打ち合わせしたときに、店の前で見かけて、で、あまりにも格好良いから声かけちゃったの。……モリヤさんこそ、ディイさんのことご存じなの?」

 何と答えようかモリヤが迷っているうちに、男が先回りして言った。

「……いいえ、初めて……お会いします。モリヤ、と仰るんですね」

 モリヤは混乱しながら奥歯を噛んだ。未遠はモリヤの背中に隠れるようにくっついている。モリヤが放っている険悪な空気をようやく察したのか、ミシンが戸惑ったように耳もとで訊いた。

「ごめんね、モリヤさん。初めての人を抜き打ちで呼んじゃって、……不味かった?」

「……ううん」

 とにかく中入ろうよー、と誰かが助け船を出した。「そうだよね、とにかくお店入ろっか、お腹すいた!」と明らかにホッとした様子でミシンが言ったのを合図に、一行はぞろぞろとビル内へ移動した。

 エレベーターで八階へ上がり、目当てのキリストン・カフェへ入ろうとしたとき、ミシンと話しながら先頭を歩いていた男がふと立ち止まり、逡巡する素振りを見せた。それはほんの一瞬で、男はすぐにミシンに並んで歩き出したが、ミシンはそのかすかな躊躇いを見逃さなかった。

「どうかされました?」

「ああ、いえ、……教会、かと思った……のですが。レストラン、なんですね」

「そう、雰囲気があるでしょう? 祭壇もあったりして、いい感じなんですよお」

 ミシンの言った通り、店内には祭壇が設えられていた。祭壇を見やり、店の内装を眺め回して、男は成る程、と呟いて笑った。その笑いに僅かに含まれた嘲りに、モリヤだけが気付いた。

 長方形のテーブルを挟み、四人ずつ向かいあうかたちで八人が席についた。モリヤと未遠が並んだちょうど真向かいに、男とミシンが座った。皆が落ち着いたのを見計らって、ミシンが立ち上がった。

「改めてご紹介します。ディイさん」

「ディイです。……吸血鬼ヴァンパイアです」

 男はサングラスを外し、会釈した。ゴスロリ・サークルの集まりでは、貴族を気取ったり魔族になりきったりしている者も珍しくない。モリヤの右側に仲良く座っている、シルクハットを被った脂性の青年「スメラギ」とぽっちゃりしたロリータ少女「姫乃」のカップルも「吸血鬼一族の貴族」という設定で通しており、ディイと名乗った男のために常連のメンバーが一人ずつ自己紹介したとき、皇はご丁寧に「この姫乃が成人したら一族に加える予定です」と物語まで披露した。モリヤは聞いていて失笑しそうになったが、男は淡く微笑んで「仲間に、お会いできて……光栄です」と言った。

 最後に未遠がか細い声で「高村未遠です」と言ったところでドリンクが運ばれてきて、一同は乾杯した。男は懐から暗紅の液体を満たした小瓶を取り出し、赤ワインのグラスに数滴落としてから、口をつけた。

「いま、何を入れたんですか?」

「血、……ですよ」

「いやあ!」

 男の一挙手一投足にいちいち反応するミシンの金属質な声が耳に障る。モリヤは未遠に向かって顔を顰めてみせた。

「ディイさんって、本物のヴァンパイアが映画から抜け出してきたみたい」

「……秘密に、しておいて……くださいね? 実は……本物のヴァンパイア、なんです」

 甘く響く声で言い、男は優雅な手つきでワイングラスを口に運ぶ。ペリエに口をつけるのも忘れて男を観察していたモリヤは、男の口もとにやけに尖った犬歯がちらりとのぞいたのを見た。右隣の姫乃もそれに気付いたのか、あ、と声をあげた。

「……すごい、牙まで付けてらっしゃるんですね。完璧だわ」

「瞳の色も生まれつきの色みたい。髪の毛も」

 羨ましげに呟いた少女は、ゴブラン織りのドレスとボンネットに合わせるために、金髪巻き毛のウィッグとブルーのカラーコンタクトを着けていた。コバルトブルーを出したいのに、元々の瞳が黒いせいでどうしても青灰色になってしまう、としきりに嘆いていた。

 八人の注目を一身に引き受けて平然と座っている男は、怖ろしいほど様になっていた。ゴスロリ趣味の人間は、概ねヴァンパイアのイメージに恋している。テーブルには昂揚感が満ちていた。生ハムとルッコラのサラダ、イベリコ豚のロースト、ゴルゴンゾーラのパスタ、ピッツァマルゲリータ……次々に運ばれてくる料理を旺盛に食しながら、少女たちは自分の好みのヴァンパイアについて、その永遠の悲哀と孤独について、熱心に語り合った。『MOON CHILD』のhydeがいかに美しかったか、ミシンが熱弁をふるっている。モリヤはなんとなく醒めてそれを聞いていた。そういうものに無邪気に憧れることを許されるのは十代までだ、という気がしていたのだ。料理を取り分けるのが面倒であまり食も進まず、未遠が暇つぶしのようにフォークを玩ぶのをぼんやり眺めていた。

「D’ARCの守屋ユヅルもいつだったかヴァンパイアに扮したじゃない、アルバムのジャケットかなんかで」

 この場では最年長のゴス・マダムの一言で、モリヤは我にかえった。

「あれも良かったよね、守屋によく似合ってた。まあ、もう十年ぐらい昔の話だけど」

「ええー、それ知らないや、見てみたいですー。私ヴィジュアル系って詳しくないから」

 モリヤはそのアルバムジャケットを鮮明に思い出せた。まだ髪を肩くらいまで伸ばして化粧も濃くしていた頃の守屋が、襟元に黒いリボンを結んだ白のブラウスの上からマントを羽織って、妖艶に笑っていた。……あれは良い写真だった。D’ARCと守屋ユヅルに関わることはもう考えないことにしているのに、一度何かのはずみで封印が解けると思い出が次々に引きずり出され、収集がつかなくなる。

 物思いにとらわれかけたモリヤに、未遠が遠慮がちに話しかけてきた。おかげで、モリヤは思い出の無限の連鎖に沈まずに済んだ。

「……黎は『インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア』を劇場で観たんでしょう」

「観たけど、付き合いだよ。話ももう忘れたし」

「わたし、見てみたい。『ポーの一族』にちょっと似てるところがあるって、どこかに書いてあったんだ。『ポーの一族』は図書館で借りたんだけど、すごく面白かった、……」

 ふいに未遠が口をつぐんだ。いつからか未遠に視線を注いでいた男と、目が合ったのだ。男は面白そうに言った。

「……ヴァンパイアにも、流行が……あるようですね」

 会話を邪魔された不快感を示すために、モリヤは出来るだけ冷たい声を出した。

「食べてるの? お皿が空っぽじゃない」

「お気遣いなく……。あまり……食欲が、ないのです。あなたと同様……」

「血の方がお好みって訳か」

「そう……ですね」

「わあ、ディイさんになら吸われたいですう」

 大皿に中途半端に残った料理を一手に引き受け、きれいに平らげていた姫乃がとろんとした目つきで言った。生成のワンピースの、パフスリーブから伸びた腕がはちきれそうだ。酔いと熱気で誰もが――モリヤと未遠と男を除いて――頬を紅潮させていたが、姫乃は額に玉の汗を浮かべていた。

「……貴女は、美味しそうだ」

 アブラガノッテ。モリヤは未遠にだけ聞こえるように、男の台詞に付け加えた。未遠が俯いて、笑いの上った口もとを隠す。そのとき男がモリヤを見て「……まさに、そうです」と呟いた。モリヤは硬直した。姫乃は脳天気にいやあん、などとはしゃいでいる。皇が複雑な表情で姫乃を見守っている。

「私の血も差し上げますう。わたしー、ヴァンパイアの花嫁になるのが、夢なんですよお」

 だいぶアルコールがまわっているらしく呂律の回らないミシンが、男にしなだれかかった。「……覚えておきましょう」と男は言い、さりげなくミシンから距離をとった。

「そうだ、今度ゴスロリのオールナイトイベントがあるんです。十三階っていうお店で。昼のお茶会が駄目なんだったらあ、そっちにいらしてくださいよう」

「それも、覚えて……おきます。有り難う」

 会がお開きになってキリストン・カフェを出たあと、男を囲んでちょっとした路上撮影会になった。お揃いのアリスアウアアを纏った男と未遠が並ぶと一幅の絵のようで、モリヤも思わず我を忘れてシャッターボタンを押した。名残を惜しみつつデジタルカメラを仕舞い、帰路につくため駅へ向かう間にも、ミシンは頻りに男をオールナイトイベントに誘い続けていた。

 モリヤと未遠だけが地下鉄利用で、JRに乗るメンバーと東口の改札で別れた。男は二人と一緒に皆を見送り、南口方面へ歩き出したモリヤと未遠のあとを、当たり前のようについてきた。モリヤが振り返り、投げつけるように言った。

「……で、どこへ帰るのよ、あんたは」

「家へ……」

「家ってどこよ」

「この……近くです」

「どうやってあのラブホテルから出てきたの」

「何のこと……でしょう」

「しらばっくれるつもり?」

 モリヤは声を荒げた。男はまるで動じない。涼しい顔で、夜風に銀髪をそよがせている。

「……仰ることが、わかりかねます」

「あんたの素性を教えなよ。……まさか、正真正銘・本物のヴァンパイアじゃないんでしょう?」

「そんなものが……本当にいると、お思いですか……?」

 超然と微笑んでいる男と、腕組みをしてそれを睨み据えているモリヤが対峙している脇を、人々が足早に通り過ぎて行く。三人に目を留め、指差していく者もあった。端から見れば、銀髪に紅い瞳の男も、男とお揃いの格好をしている少年のような未遠も、コルセットをきつく締め踝まであるスカートを引きずっているモリヤも一様に奇異な存在なのだろう。

「今日、あなたとお会いできて、……良かった、モリヤ。ミオもです。また……お会いしましょう」

 くるりと踵を返して、男はスタジオアルタの方に歩み去った。歌舞伎町方面の闇に溶けてゆく男の後ろ姿を、モリヤは唇を噛んでいつまでも見詰めていたが、やがて慌てた様子で携帯電話の画面を確かめた。

「いけない、こんな時間だ。未遠が明日学校行けなくなっちゃう」

 都営十二号線の中でデジタルカメラの画像を確認して、モリヤと未遠は顔を見合わせた。男の写真がなかったのだ。靖国通りの路上で何枚も撮った写真はどれもただ真っ暗で、未遠と並んでいたはずの写真には未遠の姿だけがあった。

「カメラ壊れてんのかな。でも、昼間のお茶会の写真は大丈夫っぽいんだけど……」

 首を傾げるモリヤのブラウスの袖を未遠がぎゅっと掴んだ。未遠は首すじまで青ざめていた。

「……ヴァンパイアは鏡に映らないんだよね」

「だから写真にも映らないっていうの? 未遠、あんたマンガの読み過ぎだよ」

 モリヤは鼻で笑った。

「……本物だとは思うけどね」

 ディイと言った、あの男の言葉を疑う者は誰もいない。疑うまでもなく冗談だと、皆信じ込んでいる。けれどモリヤは、あの男は嘘を吐いていない、と直観していた。

「あんなに妄想の世界に生きてる奴、初めて見た」

「妄想? 本物じゃないの」

「本物だよ。本物の気違い」

「……ううん、そうじゃない……」

 未遠は必死の形相でかぶりを振る。モリヤはやや苛立ってきた。

「いくらなんでもヴァンパイアなんてことは有り得ないよ。心配いらない」

「でも、あの人は」

「いないんだよ、そんなもの、この世界には。いないからこそ、ああして何も考えず無邪気に夢見てられるんじゃないの。あたしはそんなに興味もないけど、……とにかく、いないよ!」

 モリヤに上からかぶせるように言われて、未遠は黙った。それきり不安な沈黙が、家に着くまで二人の間に蟠っていた。

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