藤の栞に『い と し』と書いて

ちょこっと

第1話

 田舎の古い一軒家。

 母屋と離れがあるその家は、めっぽう敷地が広く見えた。


 なんせ母屋と離れの間には池がある。二m×四m程の楕円形の池。池の中には、当然の如く鯉が数匹。


 揺らぐ水面の下で、猩々緋が、月白が、濡羽色が、鱗を煌めかせて優雅に泳いでいる。

 苔生した岩が池を形作る中で、堅牢な巌の囲いに閉じ込められているというのに、まるで堅固な護りの安息地にいる如く穏やかな佇まい。家人に継がれて、仲良く泳ぐ鯉の池。


 これが東京ならばどんな大屋敷かと思えるような建て方だが、ここらではそれが普通なのだという、あやめの祖父の家。

 古き良き日本家屋。急加速し続ける変化から、置き去りに忘れ去られたような田舎の家。


 けれど今夜は、賑やかな家族団らんの声が母屋から池の方まで溢れていた。

 夜中に煩いだなどと騒ぐ隣人はいない。なんせ隣家屋まで歩いて十分はかかるのだ。

 母屋から聞こえてくる酒宴の熱気から逃れるように、小さな影が懐中電灯片手に飛び出して、離れへと駆けてった。



「うわぁ、埃っぽーい」

 あやめは顔の前で手をぱたぱたと振った。

 父母と三人暮らしの東京から、年の瀬正月を迎える冬休みには田舎へ帰省する。覚えている限りでは、毎年の恒例行事だ。

 幼稚園位のちっちゃい頃は宴会する大人たちの膝の上でニコニコ美味しいものをもらっていたが、もう小学四年生。まだ小学四年生。


 大人の話は暇だし、一人っ子で従妹もいないあやめには程良い遊び相手がいない。携帯ゲームは持ってこなかった。せっかく都会を離れて田舎へ行くのだから、数日くらい田舎を満喫しようと母が荷物から出したのだ。東京の自宅ソファへ置いてきたのを、恋しく思い出す。


 飛行機と電車を乗り継いで帰省する小旅行。

 映画の世界に迷い込んだような田舎の風景だが、ワクワク探検した何もかもだったが、この頃は少し退屈で物足りないものとなっていた。

「うーっ、窓開けたら寒いよねぇ、この離れ暖房とか何もないんだから……」

 誰に言うでもなくこぼして、ふわふわのファーがついたフードジャンパーのポケットに手を突っ込む。

 母屋の宴から、この離れまで逃げてきたはいいが、寒いし埃っぽいし好奇心を満たしてくれるようなめぼしい物は見当たらなそうだ。


 こじんまりとした離れの部屋は、古い匂いがした。灯りだって、見慣れた蛍光灯とは違う。懐中電灯で照らす先にあるのは、そっけなく吊るされて隙間風で揺れる裸電球。

 紐を引いてを灯り点けると、なんだかレトロなオレンジの灯りが広がっていった。

 所狭しと物が置かれるこの離れには、祖父が昔買っていた古い雑誌とか、足で踏むミシンとか、古くてもう使っていない物が沢山ある。


 幼稚園の頃から幾度となく訪れているが、一向に物が減る気配は無く。けれど祖父が大事に仕舞ってるからと母や叔父も手を出せずにいるらしい。

 唯一の孫であるあやめは、なんでも好きに見て良いと祖父から言われていた。その為、あやめにとっては格好の探検お宝探しの場所である。

「あ、これ、お祖父ちゃんの子どもの頃の教科書かな。へぇーっ、昔の教科書ってこんななんだぁ」

 茶色く変色していて手触りもあやめの教科書とは全然違う、あやめの使い慣れているツルツルした手触りと比べるとザラザラした本を手に取ってみる。

 幼稚園の頃や低学年の頃には特に興味も向かなかったが、今自分が使っている学年と同じ四年生の教科書には興味が惹かれた。ぱらぱらっとめくって、つまらないと次へと手を伸ばす。

「ん? こっちは百科事典かなぁ。昔の事典ってすっごく高かったんじゃなかったっけ。今でも結構高いけど。すごーい。お祖父ちゃん本好きなんだ」

 田舎へ帰省中は子どもの話し相手がいないせいか、ついひとり言が多くなってしまう。

 そんな風に、百科事典もパララッとめくって、何か挟まっているのに気付いた。

「なんだろ、これ」

 頼りない薄い紙に、紫の花が貼り付けられている。習字みたいな紙で挟んでいるようだ。

「もしかして、押し花とかいうやつ?」

 生活の授業で習った気がする。昔は、花をペタンコに押して栞とかに付けてたんだと先生がタブレット端末で見せてくれた。

 ヒョイと裏返してみて、何やら水の流れるような字が書かれていたのを見つけた。習字の筆で書いたような字。

 読めない。読めないとなると、気になる。

 あやめは栞をそっとハンカチで包んで、離れの灯りを消すと母屋へ走って戻った。



「お祖父ちゃん!」

「おお、あやめ、こん寒いんにどこいっちょったんじゃ」

 お鍋とお酒に酔った大人達の熱気で、母屋の中はモワっと温かかった。母と父と太郎叔父さんとお祖父ちゃん。

 そんな中、上座に座った祖父の膝へ小走りに駆け寄る。

「離れだよ。ねね、これなーに? なんて書いてあるの?」

 あやめは丁寧にそっとハンカチを開いた。

 受け取った祖父は胸ポケットから老眼鏡を出して、紙切れを矯めつ眇めつ眺めては「あー」だの「いやまいった」だの言って、なかなか教えてくれない。

「なんだなんだ、親父、昔の栞? 藤の花かな」

 あやめの叔父、太郎叔父さんが横から覗いてきた。母と父はお鍋に具材を足したりしていて、話に交ざって来なかった。

「あー、そうじゃなぁ。もう無うなったと思うとったんじゃが、よう見つけたな、あやめ」

 膝元で見上げてくるあやめの頭を撫でて、懐かしそうに優しく笑う。

「ね、ね、裏になんて書いてあるの?」

 裏側を太郎叔父さんには見せないようにしている祖父に、好奇心が抑えきれないあやめは聞いた。祖父は少し困ったような照れたような顔をしてから、ゆっくり口を開いた。

「これはな、昔ばあさんに貰った恋文じゃぁ。恥ずかしゅうて、誰にも見られんように本に隠しとったら、その本がどこにしまったもんか見つからんくなってしもうちょった」

 祖父の言葉に、あやめは妙に納得してうんうん頷き、心の中でひとりごちた。


 分かる、分かるよお祖父ちゃん。

 私も、隠してたのを忘れて、お母さんに点数悪いテスト見つけられて怒られたりするよ。……ちょっと違うかな?


 そんな事を心の中で呟きながら、あやめは祖父のお話の続きを待った。

「この裏に書いとるのはな、『い と し』じゃよ」

「えー! なんか、全然違うよ? 縦にいっぱい、『いいいいいいいい』って書いてて、真ん中に一本通すみたいに縦線が……、あ、これが『し』か」

「そうじゃ、文字の『い』と『し』で藤の花の絵になるんじゃよ。そいでな、『いとしと書いて藤の花』ってな、いとしい愛しいっちゅう恋文になるんじゃよ」

「ほえーっ、なんだかロマンチックだね」

「おふくろ、そんなに親父に惚れてたのか。厳しくていつもキチンとしてたお堅い人だったのに、こんなの書いてたんだな」

 太郎叔父さんが意外そうに言うのを、祖父は優しく笑った。

「そげんもん、今みたいになんでん大っぴらにしとるのとは、時代が違ったんじゃぁ。【しのぶれど 色に出りけり わが恋は】っちゅうもんじゃ、熱情を秘めて密やかに恋人同士だけ楽しむもんじゃったけん」

「やめてくれー! 親父とおふくろの生々しい話は聞きたくないって」

「どこが生々しいか! とにかく、なんでんかんでん言いふらして見せびらかすようなもんじゃなか。胸に秘めたる想いを、二人だけで通じる物に表したりして楽しむもんじゃったけん」

 太郎叔父さんに一喝してから、またいつもの優しい祖父の顔に戻る。

「そうなんだぁ、教えてくれてありがと!」

 あやめの言葉に、祖父は手の中の栞を大事そうに見ながら、ニコニコしていた。

「あやめのおかげで、今年の初夢は婆さんが出てきてくれるかもしれんの。この栞を枕に入れて寝ようかの」

 そうして、まだまだ呑んでいる太郎叔父さん達を背に、祖父は寝ようと立ち上がった。

「おやすみ、お祖父ちゃん。夢の中で、またお婆ちゃんに会えるといいね」

 部屋を出ようとする祖父の背中にあやめが声をかけると、祖父は少しだけ気恥ずかしそうに、それでもはっきりと嬉しそうに頷いた。

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