3 叫ぶ
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「いやあああああああああああ!!」
少女は、今し方頭の中に流れ込んできた膨大な記憶に、悲鳴を上げながら崩れ落ちた。
そこは燃え盛る宿の中ではなく、開けた場所にひっそりと作られた処刑場であった。
空はどんよりとした曇り空で、処刑場に詰め掛けた人々の表情も、同じように薄気味悪くどんよりとしている。
少女は人々の最前列で、つい先程行われた処刑を嬉々として見物していた。罪状は忘れたが、処刑されるのは薄汚い身なりの、醜い老人だった。
その首が刎ねられ、同時に飛び散った血が一滴、少女の頬を掠めた時――少女の頭に突然、彼女が知らないはずの記憶、知らない場所、知らない国の記憶が、一気に流れ込んできたのである。
言語も違えば習慣も人種も違う。
理解できようはずもないのに、少女はその全てを理解することができた。
(何これ何これ何これ!? 一体何がどうなってるの!? 火事!? 乱蔵!? 大正!? 全然意味わかんないんだけど!?)
江戸だとか明治だとか大正だとか、そんな単語を聞いたことがある訳もない。
記憶の中の人々は、ほとんどが黒髪黒目で、平べったい顔をしている。身につけているものも地味だし変わっているし、少女にとっては馴染みのないものだった。
なのにどうして、その記憶は間違いなく自分のものでもあるのだと、少女は徐々に認めざるを得なかった。
(『私』は恋愛小説を読んでいた。『私』は大工の仕事を手伝っていた。『私』は地震に遭い、炎の中に飛び込み、そして……『私』は、死んでしまった……!!)
ツー、と涙が頬を伝う。
俄には信じがたいことだが、これはきっと自分の『前世』というものだ。
あの火事で死んだ後、全く別の世界に転生し、十年生きた今日になって、突然昔の記憶を思い出してしまったらしい。
いやそんなこと普通あり得ないのだが、荒れ狂う膨大な記憶の波が、暴力的に少女の思考を支配していく。認めざるを得ない。認めることを強要されている。
こんなおかしなことが、どうしてこんな突然に起こってしまったのか、少女だって訳がわからない。
突然悲鳴を上げながら地面にしゃがみ込んだたった十歳の少女に、周りの大人は薄情なものだった。「何だこのガキ」「あの罪人の身内か?」と、面倒なものには関わりたくないとばかりに離れていく。
しかしそれも仕方のないことかもしれない。処刑場の観覧席に集まる人間に、ろくな人間がいる訳がないのだ。それにこんな小さな子どもがここにいるのも間違っている。
子どもは処刑場に入ってはならない。そういう決まりがあるのに、それをわかっていながらこっそりここに入った少女もまた、一つ罪を犯している。
そんな中、一人の青年が彼女に駆け寄った。
「大丈夫ですか!? どこか痛むところが……!?」
フードを目深に被った、黒づくめの、背の高い青年だった。
声の感じから男性というのはわかるが、それ以外は一切わからない。髪の色も目の色も、顔かたちもわからなかった。口元を布で覆っていて、それは少し不気味だが、ただ、この群衆の中で唯一少女に手を差し伸べた彼は、この中で一番心優しい人であることは確かだった。
しかし少女は、その優しさを素直に受け取ることはできなかった。
「だ、だい、大丈夫よ!! 気安く触らないで!! 私は公爵令嬢よ!?」
怒鳴りつけ、青年の手を振り払った。振り払った直後、夥しい罪悪感に襲われ、少女は動揺した。そんなことは、この少女の十年の人生においては初めてのことだった。
少女は公爵令嬢である。貴族として何不自由ない贅沢な生活を送り、自分より身分の低い人間は見下し、張り合うことで生きてきた。
そんな彼女が、どうしてこんな処刑場に潜り込んだのか、それには別の理由がある訳だが――……とにもかくにも、少女にとってこの心優しい青年は、身分的にはかなり下であることは間違いなく、少女が普段見下している部類の人間だった。
その青年に、たとえ優しさを与えられたのだとしても、普段の少女ならばそれを拒絶し、彼がどう思おうと罪悪感など感じるはずもなかった。
彼女が彼の優しさを踏みつけるのは当然のこと、正しいことでもあるのだ。
なのに、今の彼女は違う。
それは恐らく、朗らかな老婆として生きたあの人生を、思い出してしまったからに違いなかった。
少女は目を泳がせた。
「えっと、その……」
「……大丈夫ですか? 混乱されているのですね。こんなところからは離れて、どこかで休みましょう。痛むところはありませんか?」
優しい言葉に、うっかり涙が出そうになる。
さっき炎に飲まれて死んだ記憶を見た直後で、精神的に弱っている。まだ体が熱いような気さえする。このままではこの青年に、うっかり心を許してしまうのではないか。
そんなの、公爵令嬢としてあるべき姿と言えるだろうか。
彼の指がそっと少女の手に触れた時、貴族令嬢として生きた十年、そのプライドが、彼女の心を閉ざさせた。
「私の心配なんてしないで! 私は気高きイグニスの華よ!! あんたとは違うの!!」
どこの誰かも知らない他人、ましてや身分の低い者に弱みを見せて甘えることは、少女にはまだできなかった。
彼女は青年の手を振り払い、若干涙目になりながら怒鳴り散らして、急いで処刑場を飛び出した。
少女は、猛烈な勢いで路地裏を駆け抜けた。
あまりに猛烈過ぎて、彼女が通った後は突風が発生しているが、彼女自身はその事に気づいていない。キャンキャン吠えながら走っている犬を余裕で追い越した時、少女はようやく自分の足の速さに気がついた。
公爵令嬢として生きた十年、全力疾走などしたことがなかった。だから自分の足がこんなに速く走れることに、彼女は気づかずにいた。
その恐ろしいまでの身体能力には、覚えがある。
齢八十になっても足腰が一切衰えず、力持ちで、大の男以上の働きを工事現場で見せつけた。地震が起きた時は男たちを抱えて揺れる大地の上を駆け回り、崩れた屋根や柱を持ち上げて大勢を助け出した。
普通の人間ではない。普通を遥かに凌駕した身体能力。
前世で、少女は明らかに普通でない身体能力を有していた。そして今、生まれ変わった今さえも、その力を引き継いでいるらしいことを、少女は確信した。
立ち止まって、窓ガラスに自分の姿を映す。並外れた身体能力だけではない。
改めて自分の顔を見れば、それは驚く程、前世と瓜二つだった。
老婆となった時には――――いや、正しくはあんなに年を取る以前から、ある出来事が原因で色素の抜けてしまった髪は銀であったが、それ以前は輝く金色の髪だった。今、目の前に映る自分は、前世の若い頃のように、輝く金の髪を靡かせている。
それに、空を映したような真っ青な瞳。肌は滑らかで真っ白。目鼻立ちのはっきりした美しい顔立ちだが、江戸の世では散々奇異の目で見られていたものだ。周りは皆、黒い髪に黒い目の、地味で平坦な顔の人間ばかりなのだから、当然の反応ではある。
きゅ、と唇を噛みしめ、少女は窓ガラスから視線を逸らした。
嫌なことを思い出した。前世なんて思い出さずにいられたら、どれだけ幸せだっただろう? あんな情けなく処刑場から逃げ出す事もなかった。いや、そもそも処刑場に来てしまったことが、前世の記憶を引き出すきっかけになってしまったのだろうか? だとしたらこっそり処刑場に忍び込んだのは間違いだった。
事の発端は父親の再婚だった。
少女の母親は幼い頃に亡くなり、父親には長年愛人とされる女性がいたが、彼が今朝、とうとうその女性と再婚すると言い出したのだ。それを聞かされた少女は、当然反対した。すると父親は、激怒する少女に向かって、悍ましい事実を告げた。
『彼女は俺の子を身籠もっている。お前の、妹か弟になる子だ』
怖気が走った。しかももうすぐ生まれるとか言うから、何の冗談かと思った。
少女は泣きながら屋敷を飛び出し、馬車に飛び乗って単身王都へ向かった。
屋敷から王都までは、魔法の馬車で数時間程度――魔法の馬車というのは魔法陣を刻まれ魔力によって動く馬車の事であり、これは御者も馬も要らない上に、快適な乗り心地を提供してくれる、金持ちにのみ許された超高級な馬車の事である――優雅に王都に到着した少女は、早速大神殿に飛び込んだ。
そこには、彼女が愛して止まない婚約者がいる。二年前に婚約が決まったその青年とは、相思相愛の仲だと、少女は信じて疑わなかった。
彼ならば、悲惨な自分の運命を共に嘆き、慰め、少女のために父親に猛抗議してくれるものと、彼女は今朝のことを捲し立てた。そしてその結果、得られたのは――……
『君の話なんて聞きたくもない!! さっさと出て行ってくれ!!』
同情ではなく、拒絶だった。罵声を浴びせられた少女は、深く絶望した。
いつも優しいと思っていた婚約者の、醜い本性を知ってしまった。
少女は大神殿からも飛び出し、馬車に乗って、しばらく街を彷徨った。その時、物騒な話し声が耳に届いた。
『おい、死刑が始まるらしいぞ! 一体何年ぶりだ?』
『ここしばらくは聞かなかったよな。よっぽどヤベえ事やらかしたんだろ。見に行こうぜ!』
興味が湧いた。死刑など見たことがない。
自分より可哀想な人間を、高みの見物で眺めるのは、きっととても面白いに違いない。
そう考えた少女は、本来年齢制限があって許されないところを、わざわざ見張りに金を握らせ、こっそり観覧席に侵入したのだった。
その結果が、これだ。少女は深くため息を吐いて項垂れ、まだ痛む頭を押さえながら歩き始めた。
とにかく、今は一旦屋敷に帰るしかない。あの父親の事はまだ許せた訳ではないが、まずはこの記憶を整理することが先決。嘆いていたって、記憶は簡単になくなってはくれない。
その時、ふと大変なことを思い出した。
「あっ、馬車……!!」
魔法の馬車は、ちょうど良い場所がなかったし処刑もすぐ終わると思って、駐車禁止区域にこっそり置いてきたのだった。もし没収されていたらまた面倒なことになる。
少女は鋭く舌打ちし、急いでその場所まで走って行った。幸い、馬車は動かされていなかった。
魔法の馬車には、御者も馬も要らない。ワゴンを引っ張るのは、本物そっくりの金ぴかの馬の彫像だ。少女は鍵を開けて中に乗り込み、馬車に一言命じて走らせた。ふかふかの座席に身を沈ませ、ガタン、ゴトンと揺られながら、天井を見上げる。
じんわりと涙が滲んで、少女は慌ててそれを拭った。
あまりに多くのことが起こりすぎて、まだ頭が混乱している。父の再婚と愛人の妊娠に、婚約者の豹変、そして前世の記憶と、処刑場での出来事。父の再婚を上回る程の悍ましい事が、まさかこんな立て続けに起こるとは思わなかった。
特に酷いのはやはり前世だろう。
誇り高い公爵令嬢として生きてきた少女にとって、自分の前世が社会の最底辺だったというのは、耐え難い屈辱だった。
前世では親もいなければ金もない。不運に見舞われ続け、結局家族の一つ作れずに、年老いても家も持たず、各地を転々としながら工事現場や田畑の手伝いで日銭を稼ぐ日々。これを惨めと言わずに何と言おうか。
「最低最悪の人生……!」
絶対に自分はああはならない。老婆の一生を思い返して、少女は己に誓った。自分は必ず幸せになるのだ、と。そしてそれは、きっとそう難しいことではないはずだ。
前世は生まれが良くなかった。しかし今は、何と言っても公爵令嬢。この国の四大公爵家の生まれであり、しかも彼女は、生まれながらに聖騎士でもあった。
聖騎士というのは、神から特別な力を与えられた騎士の事であり、始まりは一千年前、この国が創造神により作られた時、神から人に与えられたと言われている。
初代聖騎士の死と共に、力はその子孫に受け継がれることになった。この国には四大公爵家からそれぞれ三人、つまり全部で十二人しかいない。少女はその希有な存在の一人。聖騎士は誰からも敬われるものであり、一生安泰が約束されていると言っても過言ではない。
しかし、そこで少女は、何か違和感に気づいた。
「あれ……?」
何かが頭に引っかかる。少女が生まれたこの国と、前世で生きた国は全くの別物。
一生交わることのないはずのもの。
なのに、なぜか、自分は前世でもこの世界のことを知っていたような、そんな気がした。
いや、そんなことがある訳がない。
アカツキ王国だとか、聖騎士だとか、そういうものは前世で聞いたこともない。
大体、この魔法の馬車のような魔道具なんてものも、かつての国には存在しなかった。お伽噺の世界である。
ブンブンと頭を横に振った時だった。ふと、ある台詞が頭の中で蘇った。
それは聞いたのではなく、読んだ、ものだった。
『ふざけないで! 私を誰だと思っているの!? 誇り高きイグニス家の聖騎士よ!! なぜ私がこんな目に遭わなければならないの!?』
冷や汗が流れた。
しかし一度思い出してみれば、止まらない。
あの日、彼女はある小説を読んでいた。地震に巻き込まれる直前のこと、少女は老婆で、老婆は恋愛小説を読んでいたのだ。以前立ち寄った喫茶店の女給の書いた本。
確かタイトルは――『アカツキに咲く花』
『公衆の面前に引きずり出され――自慢の金髪も色あせ、痩せて、棒のようになった手足のあちこちに傷が――――』
『ジーク様、私、やっぱり怖いです。命まで取ってしまうのは、考え直した方が……』
『君は本当に優しいね、サクラ。でも気にすることはないよ。あの女はそれだけのことをしてきたんだから。いくら聖騎士だろうと公爵令嬢だろうと、あの女には断罪が必要だ』
“あの女”――……彼女の、名前は……
『こうして、アカツキ王国を未曾有の危機に陥れた悪女、フレア・ローズ・イグニスは処刑され、彼の国に、ようやく平和が訪れた――』
フレア・ローズ・イグニス。
「私の、名前……」
この時少女は――フレア・ローズ・イグニスは悟った。
どうして前世の記憶を思い出してしまったのか。忘れたい程悍ましい惨めな人生を思い出してしまったのは、なぜなのか。
それは、間違いなく、破滅に向かっているこの人生を救う為なのだ、と。
不運続きの今日という日に、トドメのように刺された最も悍ましい事実を前に、フレアは堪らず頭を抱えた。
大正の世に出版された恋愛小説『アカツキに咲く花』に出てくる登場人物。これから数年後には国を陥れた大罪人として、あの刑場で断罪される悪女、フレア・ローズ・イグニス。
「ああああああああああああああああふっっっっっざけんじゃないわよもうッ!! 誰が小説の悪役に転生したいって言った!?」
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