据え膳食わぬは女の恥と言いまして

「さ、催眠術をかける練習……!?」

「そう! シロちゃんにはその被験者になってもらいたいんだよね」

「はわわわわ」


 ガランとした放課後の教室で、あたしは予想外の展開に対し戸惑いの声を漏らしていた。


「たしか『放課後、二人きりでがあるから付き合ってほしい』って話……だったよね?」

「うん、そうだね。それがどうかした?」

「……いえ、何でもないです」


 綾佳ちゃんから放課後の密会を提案されたのは今朝のこと。両手をギュッと掴みながら学園のアイドルに上目遣いでお願いされて、ノーと言える人間はそうそういないだろう。綾佳ちゃんから頼られたことに対する喜びと、彼女の言っている「してみたいこと」への期待感に胸を膨らませながら、あたしはふたつ返事で提案を受け入れた。

 そんでもって、浮かれた気分で放課後を迎えてみれば……「してみたいこと」の正体は、なんと催眠術の練習だったというわけ。な、斜め上の展開すぎる。


「それじゃ、さっそく試してみたいから、そこの椅子に座ってくれるかな」

「いいけど、本当に催眠術の練習やるんだね……」


 予め机をどかして向かい合わせになるよう配置されたふたつの椅子のうちの片方に腰を下ろす。気持ちを落ち着かせながら正面に座っている綾佳ちゃんへ目を向けると、その手には「サルでもわかる催眠術のかけ方」と記された本が握られていた。うわぁ、露骨に胡散臭いタイトル……。


「綾佳ちゃんが手に持っている本って」

「えっへへ~、なかなか面白そうな本でしょ! 昨日見つけて衝動的に買っちゃったんだ」

「ソ、ソウナンダァ……」


 少年のような純粋な目で自慢げにその本の話をする綾佳ちゃんに水を差せるわけもなく、あたしはいろいろとツッコミたい気持ちを全力で抑え込んだ。


「さあ、ボクの人差し指をじっと見つめて」

「う、うん」


 まさか素人の催眠術がそう簡単に成功するとは思えないが、他ならぬ綾佳ちゃんがやってみたいと言っているのだ。友人として、彼女が満足するまで付き合ってあげるとしよう。

 そもそも冷静に考えてみると、大好きな綾佳ちゃんと放課後の教室で二人きり、しかも正面で向かい合って座っているわけで。催眠術の練習などという奇抜な目的に目を瞑れば、あたしにとって夢のような状況であることは間違いないのである。そう思うと、途端にテンションが上がってきた。ひゃっほい!


「ボクが指を左右へ揺らすと、シロちゃんの視線は自然とそれを追いかけてしまうよ。みぎ、ひだり、みぎ、ひだり……」


 おぉ~、想像していたよりかは、割とそれっぽい雰囲気が出ているね。だからといって、催眠術なんてものにかかる感じはしないけど。

 そんなことより、綾佳ちゃんの指先がとっても綺麗。こうやって指を観察させてもらえる機会なんて滅多にないから、しっかり目に焼き付けておかないと。

 あっ、手も陶器みたいに白くてすべすべで羨ましい。手首だって細くて儚げで可愛いなぁ。手錠とか付けたら似合いそう……って、むむっ? あたし、今なんか物騒なことを考えてしまった気が。


「息を吐くたび全身からスーッと力が抜けていくよ。ほら、吸って、吐いて。すぅうう、はぁああ……」


 一緒になって深呼吸し始めた綾佳ちゃんの吐息が、あたしの頬や鼻先を優しく撫でる。これがまた何とも心地よい。さきほど頭の中に浮かんだ物騒な考えのことなど途端にどうでも良くなっていく。このまま続けていくと、意外とあっさり催眠術にかかっちゃうかもしれないな。まあ、綾佳ちゃんの目的が果たせるならそれも悪くない。


「ほら、今からボクが3つ数えると頭の中がぼんやりとして、何も考えられなくなってしまう。そして、聞こえた指示には自然と従うようになるよ」


 おっ、いよいよ仕上げの段階へと突入したらしい。さあ、あたしは本当に催眠術にかかってしまうのだろうか。ドキドキ。


「3、2、1……」


 カウントが済んでしばらく経っても、あたしの意識は依然としてクリアなまま。やはり成功するには至らなかったようだ。まあ普通に考えて、そんな簡単にかけられるほどお手軽なモノではないか。

 さすがに上手くいかなかったね、と綾佳ちゃんに話し掛けようとして……あたしは思わず目を疑った。


「あ、綾佳ちゃん……?」

「…………」

「お~い、綾佳ちゃ~んっ」

「……………………」

「えぇっ、嘘でしょ!?」


 弛緩した表情ですっかり放心しきっている友人を前にして、あたしの口から悲鳴にも近い声が洩れた。

 素直な人間ほど催眠術にかかりやすいと聞いたことがあるけれど、それにしたってこれはあまりにも想定外すぎる。いや、だって……戸惑う以外にないと思うの。


「あたし、一体どうすれば……」


 あたしがおろおろと狼狽えていても、綾佳ちゃんは何も反応を返してくれない。当然だろう、催眠術の内容は「何も考えられなくなる」なのだから。

 

 いや、ちょっと待った。よくよく思い返してみると、催眠術の内容ってそれだけじゃなかった気が。

 そう、たしか……


「聞こえた指示には素直に従ってしまう、だっけ?」


 どえらいこっちゃ。

 今、あたしの目の前には、何でも言うことを聞いてくれる無防備な学園のアイドルが座っている。その意味を理解した瞬間、戸惑いとは別の何か得体の知れない感情が湧き始める。


 数秒ほど逡巡した後に、あたしは思いついた指示を口にしてみることにした。物は試しという言葉もあるからね。


「綾佳ちゃん……えっと、その、貴女は今からとっても可愛い子猫になりますっ」

「…………にゃん!」

「はわわわわ!?」


 敢えてもう一度言おう、どえらいこっちゃ。

 ちょっとした好奇心でそれっぽい指示を出してみたら、まさかこんなにも破壊力ある鳴き声が返ってくるだなんて。綾佳ちゃんのポテンシャルほんと凄い。

 見事に子猫の綾佳ちゃん「あやにゃん」が爆誕したことで、あたしの鼻からは萌えが鮮血となって噴き出した。ティッシュください。


 さて、こうなるとあたしの欲望はもう止まらない。この状況でなんにもしないとか、寧ろ綾佳ちゃんに失礼だと思うんだよね。うん。

 据え膳食わぬは女の恥ってことで、もう少しだけお許しを……!

 

「綾佳ちゃん、今度は……お手っ」

「にゃん!」


 可愛すぎるぅうううう!!

 えっ? 犬か猫かはっきりしろって? そんなのべつにどうでもいいじゃない。だって、お手をするあやにゃんはこんなにも可愛らしいのだから。


「じゃあ次は『大好きニャン!』って言ってみてっ」

「だいすき……にゃん!」

「あたしも好きぃいいいいいい」


 天使かな!?!?

 あたしは勢い良く親指を突き立てながら、思い切り心の叫びを吐き出した。あと、ついでに鼻血も勢いよく噴き出した。ふぅ、止血止血っと。

 

 さて、そろそろ綾佳ちゃんにかかっている催眠術を解いてあげなきゃね。悪ノリはこのくらいでやめておかないと、そのうち貧血を起こしかねないし。


 ただ、あたしには最後にどうしても綾佳ちゃんへ質問してみたいことがあった。

 もちろん、こんな状況で聞き出そうとするなんて本当は良くないことだって理解しているけれど、こういう機会でもないと確かめる勇気が出ないから……。そう自分に言い訳しながら、その質問を口にする。


「綾佳ちゃんにとって、あたしってどんな存在なの? 正直に……教えてっ」


 皆から好かれている学園のアイドルの綾佳ちゃん。いつも優しく接してくれる友達想いの綾佳ちゃん。だけど、あたしは彼女に何も返してあげられていない。このままでは、いつかあたしのことなんて見てくれなくなるのではないだろうか。そんな不安が、胸の奥底にいつもひっそりと存在していた。

 だからと言って、そんなこと正面から訊けるわけもなく。あたしはその不安を見て見ぬ振りして今日まで過ごしてきた。けれど、今ならそれが確認できる。


 でも、やっぱり怖い。もしも内心では嫌っていたのだとしたら……あたしは一体どうなってしまうのだろう。怖い怖い怖い。

 やっぱり今の質問は取り消してしまおう。そう思い慌てて前言撤回しようとしたまさにそのとき、綾佳ちゃんがどこか温もりを感じさせる優しい声で言葉を紡ぎ始めた。


「シロちゃんはね……ボクの大切な友達。とってもお茶目で……面白くて。ちょっと甘えん坊さんなところもあるけど……そんなところも可愛いの。だからボクは……シロちゃんのことが大好き……にゃん」

「…………っ!」


 あたしの顔が一瞬にして高熱を帯びる。今の顔を鏡で見てみたとしたら、きっと熟れた林檎の果実のように真っ赤に染まっていることだろう。

 その原因は、羞恥と歓喜。催眠術にかかっている友達相手にこんなつまらないことを訊いてしまった自分を恥じつつ、それ以上に綾佳ちゃんの本心に対して喜びの感情が抑えられない。

 欲を出せば、友達を超えた関係であればさらに嬉しかったのだけれど……今は綾佳ちゃんの口から「大好き」という言葉が聞けただけで十分だ。


 ありがとう、綾佳ちゃん。あたしも貴女のことが大好き。それと……「にゃん」なんて恥ずかしい語尾を付けさせちゃって本当にごめんなさい。ぶっちゃけ調子に乗りすぎました、はい。


 さあ、今度こそ本当に催眠術を解いてあげなきゃ。解き方なんて知らないけど、まあたぶん全力で肩を揺するとかすれば目が覚めるでしょ。と、刹那、あたしの背後で誰かが息を呑む音が聞こえた。その音につられてあたしは思わず振り返る。


 そこには、顔面蒼白になって立ち尽くしている東雲凛の姿があった。



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あ~あ、し~らない。


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