第22話 怖かったよお、ねえたん。

 目から涙が流れて頬を伝わっているのを感じる。涙は刃物で指先を切ってしまったときに流れるように出続けた。僅かな傷なのに止まろうとしない。血が頬を伝わって地上に堕ちる直前に小さな赤い雫になって落ちて行く。


 あたしに出来ることは自転車のペダルをぐるぐると回すことと、祈り続けることだけ。あたしは必死だった。生まれきてからこんなに必死になったことはない。夢中になると頭は凍ったように冷静になる。あたしに出来ることなど知れているのだから、それに集中することは難しいことではない。ただし、心は沸騰したまま。叶うかどうか不確かな祈りを続けていた。頭と心はまったく切り放されたものなのだ。

 

 病院に着いたら受付で岳人を部屋を確認して階段を駆け上がる。エレベーターなんて待っている暇はない。岳人のいる病室にはお父さんもお母さんもあるけど言葉を交わしている場合ではない。


「岳人。岳人!」


 強く手を握って弟を揺さぶってしまったあたしはドクターに窘められた。


「弟さんはちゃんと聞こえていますよ。意識もしっかりしています。」


 大人の言うことなど信頼出来ないけど、ドクターの言う通りだった。弟は仰向けの姿勢から身体をこちらにあたしの顔を見つめてくれる。


「ねえたん。心配かけてごめんね。ぼく、悪い子だね。」


 いつもの岳人の顔だ。自分が悪いことをしてしまったと思ったら笑ってごまかしたりせずに、素直に謝って悲しい表情をするいつもの可愛い弟だ。喋ることは出来ても決して軽い怪我でなないのだろう。頭と顔を包帯で包まれて、鼻には酸素と取り込むためのチューブが取り付けられている。いつもするように頭を撫でてみたが包帯のごわごわとした感触が邪魔をして、いつものような柔らかい感触が得られない。


「謝らないで。岳人は悪くないんだからね。岳人はいい子だよ。いつも通りの可愛くて優しい岳人だよ。」


 包帯が邪魔をしていたが、いつものように、


「に~。」


と笑っているのがはっきりと分かる。だけど、笑顔は長くは続かない。顔をくちゃくちゃに歪めて嗚咽を漏らした。涙は綺麗な玉雫となってあたしの手のに零れ落ちた。


「怖かったよお。痛かったよお。ぼく、死んじゃうのかと思ったよお。」


 冷たい弟に少しでも温もりが伝わるように、その手を強くしっかりと握った。


「そうだね、怖かったね。でも、ねえたんが来たからもう大丈夫だよ。ずっと隣にいるからね。心配しないで。ずっとずっと一緒にいようね。」


 気を利かせたつもりなのだろうか、ドクターも笑顔で弟の頭を撫でた。


「きっと元気になるよ。我々も出来ることは全部尽くしたからね。」


 全部尽くした?なんだそれ。それが弟を励ます言葉だと思っているのだろうか。頭にきたが、心のない大人に構っている暇などない。無事を願って手を握って温めることに集中する。


「大丈夫だからね。岳人はいい子なんだから必ず治るからね。心配しないでゆっくり休もうね。元気になったらまた公園で一緒に鬼ごっこしようね。」


 弟は目を真っ赤にして、鼻水をすすりながら首に負担がかからない程度に小さく頷いた。


「ママ。ちょっとだけ寝てもいい?少しだけ疲れちゃった。」


「ゆっくり休みなさい。みんなここにいるからね。起きたときもちゃんとみんなで見守っているから安心して眠りなさい。」


 そうだよ。みんな岳人が大好きだからここから離れたりはしないよ。ゆっくり休んでいるときも、ねえたんは手を離したりしないから安心するんだよ。

 ありがとう、と言うとあっと言う間に眠りに堕ちてしまった。疲れていたのだろう。怖かったのだろう。寝顔はいつも通り可愛らしくて安心した。

 

 眠りついたのを確認してからドクターとお父さんが一緒に部屋を出た。残されたあたしとお母さんは言葉を交わすことも能わない。

 

 手を握って願いが届くように集中した。あたしの魂を切り取って弟に伝わるようにと。ずっと祈ってきたじゃないか。岳人が傷付くくらいならあたしの命を削って下さいと。

 

 岳人は下校の途中に車にはねられたらしい。友達と連れだって下校している途中に信号機のある小さな交差点で事故は起きたという。


 交差点は混みあっていたが歩行者用の信号は青だったので、岳人は小さな手を上げて渡っていたそうだ。そのタイミングが岳人の前を行く人が横断歩道を渡りきったところで、いらいらしたトラックの運転手が強引に交差点に入り込んできて岳人と接触。スピードはたいして出ていなかったもののトラックと小学四年生がぶつかり合えばどんな結果になるのかは想像に容易い。跳ね飛ばされた岳人は全身、特に頭部をコンクリートに強打。事故はそんな概要だったらしい。


 岳人をはねた運転手を張り倒して、その顔に何度も平手を何度も打ち込んでやりたい。男が地面に擦り付けるほど頭を下げても、その頭をなんども踏みつけてやりたい。そうしなければいけない。


 男と出会うことがあればあたしは殺意というものを隠さず、男にぶつけるだろう。だから、男とは出会ってはならない。そうすることを岳人が望まない限りはね。

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