第16話 しゅうくりいむを二個食う友人

 車で走り去る先生とは別方向に人影を感じる。果歩ちゃんだ。白いコートと白いマフラーに覆われているが、身体が震えている。当たり前だ。三月の曇りの日はまだまだ寒い。


 不安そうな顔色をして立ち尽くす彼女にかけよった。心配かけてごめんね。寒い日に足を運ばせてしまってごめんね。握った彼女の手は冷たかったけど、暖かかった。とりあえず家に入ろう。身体を暖めよう。あたしも言わなければならないことがたくさんあるから。


 リビングではなく、あたしの部屋まであがって貰うことにする。部屋に入るなり果歩ちゃんはあたしに抱きついた。全体重をかけられたので、ふたりはベッドに倒れてしまった。


「よかった。」


 あたしに覆い被さり小さな声を出す。ふたりはそのまましばらく抱き合った。


「いやあ。優江が寝込んでいたら困るなあって思っていたんだ。」


 上半身を起こしたときには、いつもの果歩ちゃんの顔になっていた。果歩ちゃんは強いや。大人の大葉先生よりずっと逞しいし、頼りになる。だからなのだろうか。あたしもちょっとだけ安心して表情を緩められた。


 彼女は鞄の中から六冊のノートを取り出して渡してくれた。その中のひとつを開いてみると、たくさんの英文とその和訳が綴られている。英文には至る所に下線が引いてある。それは初めて見る英単語に付けられた印だということがすぐに飲み込めた。


 別のノートには数学の授業の黒板が目の前に浮かぶように丁寧に写されていた。よっぽど急いで記録したのだろう。あちこちに誤字脱字はあるし、因数分解の式も間違いがある。他にも保健体育や家庭科の授業まで細かく書きとめられている。家庭科の先生なんてこんなにたくさん板書しないよ。ノートに書き込まれているのは、板書ではなく教科書に書いてある内容だとすぐに気が付いた。彼女はあたしが不登校になってから毎日、すべての授業の記録をとってくれたのだ。先生の話を聞く暇もないくらい板書と教科書を書き写すことに集中してくれたのがよく分かる。さらにそれだけではない。彼女が家で復習をした内容まで書いてある。多くの問題を解いてあり、その為に使う公式とか例文が丁寧に添えられている。


 時々、可愛いイラストが描いてあるページがある。早く元気になってね、と猫のイラストがあたしを励まそうとしてくれている。ノートから視線が外せない。果歩ちゃんの顔を見ると涙が出てしまう。彼女は察して笑顔で言う。


「わたしの期末テストの成績も大分上がっちゃったよ。」


 申しわけない。ノートの量が勉強ばかりさせてしまったことを物語っている。


「おかげで成績が学年で九十番まで上がっちゃったよ。」


 そんなこと言ったってうちの学年は百五十人しかいないのに。


「あはははははは。」


 思わず声をあげて笑ってしまう。それこそ涙が出るくらいにね。


「笑うことないじゃん。これでも十位は順位が上がったんだからね。」


 楽しい。面白い。恐怖感や絶望感なんて感じない。果歩ちゃんがいるだけで世界は急に明るくなる。そんなのおかしいと言う人がいるかもしれない。そんなに簡単にどん底から這い上がれるなんて不自然だと思う人もいるかもしれない。だけど、そんなものなのだ。あたしは幸せと恐怖という不一致のどちらかに一方に立っているわけではないのだ。心の在り方はもっと複雑で、恐怖の中にいても幸せを感じることもあるのだ。あたしに限らず人間とはいつもそういうものではないのだろうか。


 果歩ちゃん有難う。おかげで幸せな気分を味わえたよ。絶望の淵から少しだけ離れることが出来たよ。果歩ちゃんにはどうしてあたしが狂ってしまって、学校に行けなくなったのなんか知らせる必要なんてないのだ。ただ、感謝の気持ちと果歩ちゃんのおかげで笑えるようになったよ、と伝えればいいだけなのだ。


 あたしは笑わなくてはいけないのだ。実は昨日も一昨日もそう思っていた。笑って歩き出さなくてはいけないのだけど、首を持ち上げて前を見ることが怖かった。先を見つめるとちょっと先には死が見えるから。結末ばかりに視線を集めてはいけない。


 死に至るまでの時間もあたしの時間であり、それを大切にしなければならないことを脳は理解していた。果歩ちゃんは身動きの取れずに座り込むあたしに手を差し伸べて立ち上がらせてくれたのだ。

 

 お礼をする為の言葉を探している間に果歩ちゃんは涙し始めた。小学校に入った頃からずっと彼女の傍にいる。もちろん彼女にだって悲しい日も、悔しい日もあったことは知っている。だけど、泣いた顔など見たことはなかった。彼女は自分の不運を呪って涙することはなかったのだ。それでも、目の前の彼女は真っ赤な瞳を潤ませて、鼻水を流して肩を震わせている。


「すごく怯えていたの。もしかしたら優江が大変な病気になってしまって、死んじゃうのかもしれないと心配だったの。そんなの嫌だから怖くて怖くて毎日泣いちゃったんだよ。いつも優江が死なないで元気になってまた一緒に遊べますようにってお祈りしていていたんだよ。だから優江の顔を見て安心したよ。安心したらまた泣けてきちゃったよ。」


 もう一度あたし達は抱き合った。なんて情け深い友達なのだろう。なんて人情の厚い人なのだろう。なんてそれに比べてあたしはなんと醜い心をしているのか。しばらく自分のことしか考えていなかった。あたしのことを気に病んでくれる人のことなど微かにも頭に浮かばなかった。心配をかけていることも、泣いてくれることもないがしろにしていた。


「ちょっと具合が悪いくらいで休んでばかりでごめんね。心配かけてごめんね。少しずつ身体の具合はよくなってきているの。後は気持ちの問題だけなの。


 果歩ちゃんが逢いにきてくれてとても元気を貰ったよ。一生懸命作ってくれたノートを見ると勇気が出た。有難う。勉強どころじゃなかったでしょう。あたしの為にノートをとることに夢中になったのがよく分かる。これほど励まされることは他にないよ。二年生になる頃には必ず学校行くからね。一緒に遊ぼうね。お話しようね。果歩ちゃんのこと大好きだから。」

 

 あたしは人を思い遣ることに慣れていないし、下手くそだから上手く言葉にすることが出来ない。それでも彼女はうん、うんと涙を流したまま頷いてくれた。


 抱き合うあたしの頬にも涙は伝ってきた。彼女の肌は寒空に晒されていたせいでまだ冷たかったのに、涙はとても熱かった。こんなに熱いものが人間から溢れてくることが不思議なくらいに。

 

 まだ、目を少し腫らしている彼女を見送った。もう、いつもの清々しい笑顔に戻っている。二年生になったら必ず登校すると指切りをした。しばらく小指を絡めたままお互いの笑顔を確かめ合った。もう、怯えるのはやめよう。二年後には死んでしまうのかもしれないけど、言い換えれば二年間は安心を保障されているのだ。その時間を愛おしまなくては。あたしには二年間果歩ちゃんの笑顔を守る義務がある。そう強く唱えて部屋に戻った。


 お母さんが用意してくれたふたつのシュークリームが両方ともなくなっていることに初めて気が付いた。


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