涙の決意表明 ①

「本当は、話すべきかどうか、ここに来るまで迷ってたんです。でも、絢乃さんが『もう覚悟はできている』とおっしゃったので、僕も打ち明ける決心がつきました」


「うん、大丈夫。パパのことはもう覚悟できてるし、貴方がパパの死を望んでたなんて思うわけないよ。だってわたし、貴方がそんな人じゃないってちゃんと知ってるから」


「絢乃さん……」


「だから桐島さん、これから先、わたしに力を貸して下さい。わたしのことを全力で支えて下さい。よろしくお願いします」


 彼がここまで覚悟を決めている以上、わたしも半端な覚悟でいてはダメだ。そう思って、彼に冷えた右手を差し出した。


「はい。誠心誠意、あなたの支えになります。こちらこそよろしくお願いします!」


 彼は両手で、差し出したわたしの右手を握り返してくれた。


「……絢乃さんの手、冷たいですね」


「え……?」


「ご存じですか? 手が冷たい人は温かい心の持ち主なんですよ。僕はよく知っています。絢乃さんがお父さま思いの心優しいお嬢さんだということを。そんなあなただからこそ、僕もあなたのお力になりたいと思ったんです」


 彼の優しくて温かい言葉に、わたしの涙腺が緩みそうになった。彼はずっと見てくれていたんだ。父の病気が分かった時から、わたしがどれだけ父のことで心を痛めていたのかを。だから、八歳も年下のわたしにこんなにも優しく誠実に接してくれていたんだ――。


「――絢乃さん、僕はそろそろ失礼します。明日も出勤なので。また何かあったら連絡下さいね」


「うん。そっか、明日もお仕事じゃ、風邪ひいたら大変だもんね。気をつけて帰ってね。また連絡します」


「はい。――それじゃ、また」



 彼を見送った時、初めて「このまま帰らないでくれたらいいのに」と思ってしまった。淋しさで胸が苦しくなり、涙がひとしずく、頬を伝って落ちた。



   * * * *



 わたしは家の中に戻ると、二階へ上がる前に父が休んでいる両親の寝室に立ち寄った。


「――パパ、具合はどう?」


「……絢乃か。お前、コートなんか着て、どこかへ行っていたのか?」


 わたしの声に目を覚ましたらしい父が、答える前に目を丸くした。


「ああ、うん。桐島さんが帰る前に新車見せてくれるって言うから、見送りがてら一緒にカーポートまで。里歩もそのちょっと前に帰ったよ」


「そうか」と父は起き上がることなく頷いた。もう起き上がることさえつらいくらい、体中痛かったんだと思う。


「絢乃、クッションありがとうな。これがあるだけで、背中が少し楽になったよ」


「喜んでもらえてよかった。まぁ、気休めにしかならないだろうけど」


「絢乃、……お前、泣いているのか? 何だか目が赤いぞ」


「えっ? 泣いてないよ、今は。さっきね、桐島さんがすごく優しい言葉をかけてくれて、それでグッときてちょっと泣いちゃっただけ」


 彼は「手が冷たい人は温かい心の持ち主だ」って言ったけれど、そう言った彼の手も少しヒンヤリしていた。貴方の心も十分あったかいよ……。


「そうか、桐島君が……。彼がいてくれたらお前も安心だな。彼が秘書室へ異動したことは知っているか?」


「うん、さっき本人から教えてもらったよ。わたしを支えるためだ、って」


 それはつまり、わたしが正式に父の後継者候補となったということなんだとわたしは解釈した。そしてその解釈が正しかったことを、父の次の言葉で確信した。


「実はそうなんだ。お母さんも同意のもとで、もう遺言書も作成してあってな。そこで正式にお前を後継者として指名した。絢乃、お前の意志を確かめず勝手に決めてしまったが、これでよかったのか?」


 その話は初耳だったけれど、わたしの心はもう決まっていた。この家に一人っ子として生まれた以上、これはわたしが背負っていく運命なんだと。何より、それが父の最後の望みだったから――。


「うん、大丈夫。もう覚悟ならできてるから。パパには色んなこと教わってきたし、教わってないことも周りの人に助けてもらいながら頑張ってみるね」


「そうか、よかった。これで、この先も篠沢グループは安泰だな」


 父はわたしの答えに満足したらしく、安らかな笑みを浮かべていた。


「それじゃ、お父さんはまた眠らせてもらうよ。おやすみ。――絢乃、お母さんと篠沢グループの未来をよろしく頼む」


「……うん。おやすみなさい」


 わたしも父に「おやすみ」の挨拶を返したけれど、最後の一言はわたしへの遺言だと思った。


 ――もっと強くならなきゃ。そう決意したのは、多分この夜だったと思う。もう泣いてなんかいられない。わたしが父の代わりに母とグループを守っていかなきゃいけないのだから……と。


 そして、父とまともに会話ができたのは、その夜が本当に最後となってしまった。



     * * * *



 ――父はその翌日から昏睡状態におちいり、母が呼んだ救急車で後藤先生が勤務されていた大学病院に搬送された。いくら本人が入院を拒否していたとはいえ、この時ばかりはそんなことに構っていられなかったのだ。



 そして、年明け間もない一月三日の朝――。


「――一月三日、八時十七分。死亡確認しました。……本当に残念です」


 先生からの連絡で朝早くから病院に駆けつけていた母とわたしは、後藤先生から父の永眠を伝えられ、母はその場でわたしにしがみついて泣き崩れた。でも、わたしは泣かなかった。もちろん悲しかったけど、いちばん悲しいのは母だと思うと申し訳なくて泣けなかった。


 ベッドの上に横たわっていた父の亡骸なきがらは、ただ眠っているだけのように安らかだった。また目を覚まして、わたしたちに「おはよう」と笑いかけてくれるんじゃないか……。ついそんなことを考えてしまった。


「私は医師として、患者の最期は何度も看取ってきたはずなんですが……。井上の死は本当に残念でなりません。医者が泣いてはいけないと分かってはいるんですが……」


 後藤先生もショックを受けてしゃくり上げていた。確かに、医師が患者の死を看取るたびに泣いていたんじゃキリがないだろうし、冷静に受け止めなきゃいけないんだろうけれど。さすがに親友が旅立ってまで冷静沈着ではいられないだろう。親友である父のために、もっとできることがあったんじゃないかと後悔の念にさいなまれていたに違いない。


「先生、顔を上げて下さい。先生は最後まで、父の治療を頑張ってくれたじゃないですか。おかげで父は安らかに旅立っていけたと思います。本当にありがとうございました。父が、お世話になりました」


 本当なら母が言うべきだったことを、わたしは号泣していた母に代わって言い、先生に頭を下げた。それでも涙は出なくて、自分でも何て冷たい娘だろうと思ってしまった。


「――パパ、今までホントにありがとう。お疲れさま。もう苦しまなくていいからね。後のことはわたしに任せて、天国でゆっくり休んでね。……バイバイ、パパ」


 わたしは精一杯の別れの挨拶をして、「ママ、そろそろ帰ろう」と背中をさすりながら母を促した。母は喪主となり、葬儀社の手配やグループの顧問弁護士の先生などに連絡したりしなければならなかったからだ。


 そして、一族の中で母や父のことをうとましく思っている人たちと、後継者の座を巡って争うことになるだろうと、わたしはとてつもなくがしていた。

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