初めての恋と大きな覚悟 ②

 高級住宅街の一角に建つ篠沢邸は、第二次大戦後に建てられた白壁の大邸宅だ。庭こそないものの、立派な門構えとリムジンが三~四台は駐車できるカーポートが家の立派さを物語っている。

 洋館だけれど玄関でスリッパに履き替える日本式の生活スタイルなので、わたしはスリッパの音をフローリングの床に響かせながらリビングへ飛び込んだ。


「――ただいま」


「お帰りなさい、絢乃。桐島くんは?」


 先に帰宅していた母は、部屋着姿で出迎えてくれた。


「もう帰っちゃった。ウチでお茶でも、って引き留めたんだけど」


 落胆して答えたわたしを、母は優しく慰めてくれた。


「そうなの。彼は優しいから、絢乃が疲れてるだろうからって遠慮したのかもしれないわね」


「うん、そうみたい。でも連絡先は交換してもらえたから」


 そして、出迎えてくれたのは母だけではなくもう一人。


「お帰りなさいませ、お嬢さま。奥さまから伺いました。本日は大変でございましたねぇ」


「ただいま、史子ふみこさん」


 彼女は住み込み家政婦の安田やすだ史子さん。当時は五十代半ばくらいで、家事一切を任されていて、すごく働き者だ。もちろん今も篠沢家で働いてくれている。


「ママ、これからパパの説得に付き合ってくれる?」


「えっ? いいけど……あなたも疲れてるでしょう? 少し休んでからでもいいんじゃないの?」


「ううん、わたしなら大丈夫だから。行こう」


 この時のわたしを突き動かしていたのは責任感だったのか、父への思い遣りだったのかは今でも分からない。母もわたしから強い意志を感じたらしく、快く父のところへついてきてくれた。



 検査を受けるよう母とわたしから勧められた父は、案の定顔を曇らせた。不機嫌になるほどではなかったけれど、あまりいい反応ともいえなかった。


「パパ、お願い。わたしもママも、検査を勧めてくれたその人だってパパの体が心配なんだよ? だからその気持ちは分かってほしいの。パパだって病気が早く分った方が安心でしょ?」


 渋っていた父に、わたしはとどめの一押しをした。母とわたしの顔を見比べた父はとうとう降参した。


「…………分かった、私の負けだよ。絢乃の言うとおりだな。明日にでも検査を受けてこよう。加奈子、私の携帯で後藤ごとうに連絡を取ってみてくれ」


「ええ」


 母は父に言われたとおり、父のスマホで電話をかけた。当時、大学病院の内科で勤務医をしていた後藤聡志さとし先生は、父と学部は違ったらしいけど大学の同級生で、父が亡くなった後大学病院を辞めてクリニックを開業したと聞いた。


「――後藤先生、明日の午前中に検査も含めて診察して下さるって。あなたのこと笑ってらしたわよ。『あいつ、いまだに病院嫌いなのか』って」


「そうか。じゃあ加奈子、明日は付き添いを頼む。絢乃はどうする?」


 父に訊ねられたわたしは少し考えた。本当は父に付き添いたいけれど、まだ子供のわたしが一緒に行ったところで何ができるんだろう、と。


「……わたしは、学校に行くよ。里歩りほと待ち合わせしてるし」


 親友に心配をかけてはいけないと思い、付き添いを断った。中川なかがわ里歩は初等部を受験した頃からの大親友で、経営コンサルタントをされているお父さまも含めて家族ぐるみで親しくしている。


「だからママ、パパの病気のこと分かったらちゃんと連絡してね。――じゃあわたし、もうお風呂に入って寝るから。おやすみなさい」


「そう? 分かったわ。おやすみなさい」


「おやすみ、絢乃。今日はすまなかったな」


 両親に「おやすみ」をもう一回言ってから一階にある両親の寝室を出て、わたしは二階にある自室へ上がっていった。



   * * * *



 ――この家の各部屋には、それぞれ専用のバスルームとトイレ・洗面スペースが完備されている。里歩に言わせれば「ホテル並みの設備」なのだとか。

 わたしはそんな自室のバスルームに入り、バスタブの蛇口を開けてから、部屋着のワンピースに着替えた。茶色がかったロングヘアーをパーティー用にカールさせたスタイリング剤とメイクはバスルームで落とすことにして、クラッチバッグに入ったままだったスマホを取り出した。

 クイーンサイズのベッドのふちに腰かけ、里歩と貢、どちらに先に電話をかけるべきか迷う。貢とは連絡先を交換したばかりだったし、まだ自宅――代々木の実家近くにあるというアパートに着いているかどうかも分からなかった。

 それに……、わたしから男性に連絡を取るのは初めてだったので、ためらっていたというのもあったし。


「うん…………、よしっ! やっぱりここは桐島さんが先でしょ!」


 彼の連絡先を呼び出し、緊張から震える指で発信ボタンをタップした。……もう家に着いているかな?


『――はい、桐島です』


「……あ、桐島さん。絢乃です。今日は色々ありがとう。――今、大丈夫かな? 何か食べてる?」


 第一声が「もう家に着いた?」ではなく「何か食べてる?」だったのは、彼の話し方が何だかモゴモゴしていたからだった。もちろん、家に着く前に軽く何か食べている可能性もなかったわけではないけれど……。


『ええ、大丈夫ですよ。もう自宅に着いて、夜食にコンビニで買ってきたパンを食べていただけですから』


「ああ、そうなんだね。――あのね、桐島さん。さっき、ママと一緒にパパの説得頑張ってみたの」


『そうですか。――で、どうでした?』


 彼は「そうですか」の後に「ちょっと待って下さいね」と呟いて口の中のものを飲み込んだ後、続きを促した。


「明日ママに付き添ってもらって病院に行ってくる、って。大学病院にパパのお友だちが内科医として勤務してるから、その先生に診てもらうんだって」


『そうですか、ちゃんと病院に行かれるんですね。それはよかった』


「うん。まだ安心はできないけど、とりあえずパパが病院に行く気になってくれただけでも一歩前進かな。アドバイスをくれたのが貴方だってことは言わなかったけど、言った方がよかった?」


 わたしはあえて、貢の名前を出さなかった。父が機嫌をそこねた場合、彼にまでとばっちりが行く可能性を考えてのことだった。


『いえ……まぁ、僕はどちらでもよかったですけど。絢乃さん、ご存じでした? お父さまは篠沢商事の社員や、篠沢グループの役員全員の顔と名前を記憶されてるんですよ。なので、今日会場にいたのが僕だということも気づかれていたはずです』


「えっ、そうなの⁉ パパすごすぎ……」


 彼が打ち明けてくれた父の驚愕の事実に、わたしは絶句した。父の頭の中が、まさか脳内データベース化していたなんて……!


『――それはともかく、絢乃さんは明日どうされるんですか? お母さまとご一緒に付き添いに?』


「ううん、わたしは明日学校に行くことにした。友だちに心配かけたくないし、パパのことはママに任せようと思って。病名が分かったら連絡してってお願いしておいたから」


『そうですね、僕もそう思います。絢乃さんがついて行かれても、かえってご両親に心配をかけてしまうだけでしょうから』


「やっぱり……そうだよね」


 わたしがもっと幼い子供だったら、間違いなく「一緒に行く」とダダをこねていただろう。でも十七にもなったら、どの選択が自分のために一番いいのか分かるようになるものだ。


『明日はきっと、お母さまから連絡があるまで絢乃さんも落ち着かないと思いますが……。あなたの判断はきっと間違っていないと僕は思いますよ』


「うん。桐島さん、ありがとね。貴方も、今日はお疲れさま。今日はこれで失礼するね。これからお風呂に入ろうと思ってたところだから」


『そうですか。あの、湯冷めしないように気をつけて下さいね。それじゃ、おやすみなさい』


 彼に「おやすみなさい」を返してから電話を切り、今度は履歴から里歩の番号にコールした。


「――あ、里歩。今大丈夫? あのね、今日――」


 彼女にも、パーティー会場であった出来事を話して聞かせた。「詳しい話は明日してあげるね」と言って。

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