第28話 時雨
場面は巨乳覆面女に対して八相構えで退治したところから始まった。
タイガーは楓華の構えを見るや、だらりと下げた片手持ちから正中に構え直す。
その所作は小川のせせらぎのように淀みなく無駄がない。
ふざけた格好とは裏腹に相当な鍛錬を積んでいる様子をにじませていた。
(打ち込む隙が見当たらない)
構えから発する剣気に押された楓華は唇が軽く潰れていた。
タイガーの正中は後の先を取るための誘いすら無い正面構え。
先手を取ろうにも下手な攻撃ではさらなる先手を取られるであろう。
正面から行けば突き。
袈裟がけに行けば逸らしつつ回り込まれる。
そしてそれ以外の手札は──
「んにゃー!」
考える間すらタイガーは与えなかった。
長考の気配を読んだ雌虎は青い華の喉を貫く。
咄嗟に腕を畳んで軌道をそらす楓華だったが刃先が竹刀の段差に擦れて僅かに欠けてしまっていた。
そのまま鍔元をぶつけ合ってから二人は間合いを取るのだが、タイガーが使う竹刀は傷一つ無い。
見るからに金属製だったわけだがやはり妖刀なのだろう。
(このまま足を止めたら押し切られる⁉)
愛刀のダメージも厭わずにこちらから攻めなければという念に囚われた楓華は更に上を高く構えていた。
いわゆる蜻蛉。
受けを許さない大上段からの打ち下ろしに身を委ねる。
(──と言ったところだろうけれど、さっきの感触で気づいちゃったよ。あの刀じゃ虎時雨は切れないわ)
虎時雨とはタイガーが使う竹刀型の妖刀のこと。
相手は女だてらに係長を務める猛者なのはタイガーも否定はしない。
地位を考えればそれなりの業物なのだろう。
だが突きを1回逸らしただけで刃毀れをするような刀では時雨流開祖藤村虎一が宿るこの妖刀には傷一つ与えられない。
獲物の優位から楓華の太刀を受けて立つタイガーは手元を開いて彼女を誘った。
(ヨシ!)
一見するとタイガーが有利な状況。
だが彼女の動きに対して想定通りだと喜ぶ歯茎を楓華は抑え込む。
相手は心眼の使い手。
下手なフェイントは逆効果。
だったら動きを読まれたうえで想定を上回れば良い。
それを可能にする武器を楓華は持っているのだから。
「しぇーい!」
掛け声とともに女係長は踏み込んだ。
瞳孔は眼前の情報を逃さぬように開き、視覚以外の五感は自分に向けられた害意を読み取ることに全力を向ける。
楓華の状態は兄が使う切り札の魔裂に近いが彼女にソレは振るえない。
華奢な楓華の筋肉では裂けるほどに駆体を稼働させることが出来ないからだ。
それでも弛緩した彼女の筋肉が生む最大限の緊張は一瞬だけだがソレに匹敵している。
それだけでも射出速度を向上させる大上段に楓華の秘技はさらなる加速を与えた。
距離、速度、到達時間──打ち下ろされた楓華の魂はタイガーの読みを超える。
(にゃに⁉)
相手の自滅を想定して玉簾で受けようとしたタイガーの防御は楓華の打ち込みを逸らすだけで精一杯。
むしろさらなる二の太刀、三の太刀も受け止められるタイガーが剣達者と言えるほどに楓華の初動が彼女を凌駕していた。
虎時雨の刀身を滑る度に欠けていく愛刀。
どちらが先に潰れるかの根比べ。
(わかっていたとは言え、ふざけた外見でなんていう剣の冴えなんですか)
だけど足を止めたら次はない。
刀の損耗以上に楓華の身体が動きの反動に耐えられない。
この魔裂の紛い物によって楓華が受ける反動は本物と比較すれば大したことがないのだが、それでも相手の力量を踏まえれば無視できない。
だが顔を狙った最後の一太刀もタイガーは凌ぎ切ってしまう。
半歩下がったことで空を切る楓華の愛刀。
ヒュンという音を最後に彼女の手は止まっていた。
(なんて相手ですの)
「今のは危なかったにゃあ。キミのスタミナがエンプティじゃにゃかったら──」
一見軽口なこの言葉に嘘はない。
最後の一刀だけは効力切れで楓華の剣速が鈍っていたのをタイガーは見抜いていた。
だが顔面に伝わる液体で濡れた感触に彼女の言葉は遮られる。
何が起きたのかと。
「ひ、ひゃあ!」
左手で顔を抑えるタイガーの声は先程までとはまるで違っていた。
演技ではない素面の悲鳴。
剣士である以上かすり傷一つにしては騒ぎ過ぎなほどの驚愕である。
好機であるが秘技の反動で身体が重く、迎撃の準備で手一杯の楓華は相手を睨むだけ。
対するタイガーはしばらくすると落ち着きを取り戻し、後腰に隠れていたポーチから取り出した覆面を重ね着した。
これで前が見えるのだろうかと楓華も訝しむほどの様相だが、相手の力量を踏まえればハンデのつもりかもしれない。
いや……それ以上に顔の傷を見られたくないのだろうか。
意外な反応を飲み込むうちに楓華の身体は呼吸を整え終えていた。
時間にして一分にも満たない間。
仕切り直しを挟んだ二人はどう動くか。
「待たせてすまないにゃ。だけど良かったのかにゃ? キミにとっては大チャンスだったじゃにゃいか」
「ご心配どうも。だけどそちらこそ顔の傷一つで随分と取り乱しましたね。あれくらい簡単に消せる昨今だというのに、そんなに傷がつくのが嫌だったのかしら?」
「それはヒロインに聞いてはいけないお約束よ」
顔に傷を受けたから──否。
だが答えを明かす気のないタイガーは先手を仕掛けた。
右手側に開いた下段構えでの瞬歩で間合いに入ると楓華の脇を最短距離で振り抜いていた。
言葉のキャッチボールからの推測を言えば図星を突かれた末の癇癪。
力で黙らせに来たような反応だが、彼女が詮索を避けた理由は違っていた。
そしてこの一刀は楓華が期待した迂闊な大振りでもない。
最速最短のソレは楓華も軌道に刀を重ねて太刀筋を逸らすので精一杯。
虎時雨が愛刀の刃先を舐めて一気に切れ味を鈍らせる。
刃引きされた刀には本来の切れ味はない。
(判断を誤れば折られそうですわ)
ここまでの剣戟で獲物の強度に雲泥の差あることを感じているからこその焦りに楓華はおののく。
無駄のない最速の動きと妖刀自体の頑強さによる衝撃は流し損なえば傷んだ刀など割り箸のように折れてしまう。
合間に挟んだ反撃も全て受け止められてしまっており、この状況から受太刀ごと強引に叩き切る腕力など楓華にはなかった。
いや……仮にあったとしても脆くなり研ぎも甘いこの愛刀では確実に耐えられそうもない。
ただでさえ折れそうだった状況から更に傷んでいるのだから。
「そろそろ前が見えねえ」
「な⁉」
劣勢の中でタイガーの呟きに驚く楓華。
言葉の内容は血と汗でぐしょぐしょになった目元を嫌ってか、固くまぶたを閉ざしているという楓華には有利な内容。
だがそんな隙よりもタイガーの持つ獲物の変化は特筆である。
竹刀を模した形状だったはず妖刀はいつの間にか身幅の厚い刃に変化していたからだ。
これも妖刀だからであろうか。
タイガーの構えは右腕を畳んで切っ先を相手、柄頭を左肩の近くにおいた水平な構え。
フェンシングに見られる刺突のそれに近い。
これから放たれるのは横殴りの雨のごとき連続剣。
時雨流開祖が編み出した刃の嵐。
(横雨──!)
変化した虎時雨は切っ先だけ両刃になっており、いわゆる小烏丸型。
峰側でも掠めれば肌を切り裂く。
さらには突き以外にも転じる可能性が高い平突きの雨。
次の一手が何かに注視しながら楓華は横雨を受け流し続ける。
(どちらが先に疲れるかの勝負ですわ)
楓華の愛刀では正面からの力比べは不可能な以上、残る手段は隙を掻い潜って直撃するのみ。
その機会を楓華は伺う。
一方でタイガーは汗と血で瞳を塞がれた状態である。
心眼の使い手でなければ戦うことすら不可能な状況であり、これでもなお楓華を押しているのは今この瞬間において力量は上である証左。
楓華も肌でそのことを理解しているからこそ防戦である。
理解していなければ自信満々に早撃ち勝負を仕掛けていた。
「カキンッ!」
そして膠着が終わる。
右足を狙った足払いを逸らしにかかった楓華の刀がついに折れて金属音が鳴り響いた。
一瞬止まった振り抜きを飛んで躱した楓華の足掻き。
最大初速での踏み込みからの側頭狙いを受けてタイガーは咄嗟に顔を引いた。
それでも交わしきれずに彼女の鼻頭には一文字。
仮に刀が折れてなければ頭蓋骨ごと切られたであろうが、折れて身軽になったからこそ、この間合いで切ることができたとも言える。
技が解かれたからか再び竹刀に戻った虎時雨を地面に突き立てながら、傷を負った顔を抑える雌虎。
その理由は痛みではなく──
(これで予備も破けてしまったわ)
顔を晒すことを恐れてのものだった。
もとより覆面している時点で考えればわかること。
タイガーは身元が明かされることを避けようとしていた。
彼女の正業は浪人ではなく、いくら兎小屋の一員として浪人活動をしているとはいえ表の顔を捨てる気はない。
そのための覆面も予備を含めて全て破れた以上、彼女はもう戦う気はなかった。
こめかみから流れる血は覆面の下に仕込んだヘッドセットが叩き壊された際に抉れた皮膚の傷から出ている。
つまり仲間との連絡もすぐにできないこの状況において、彼女が取れる行動は逃走だけだった。
「2回も顔を切られてまいったのかしら? 意外と軟弱者ですわね」
そんなタイガーを煽る楓華も内心では綱渡り。
同じ女性として、やはり顔の傷は嫌なのだろうという推測から、煽られた彼女が隙を見せることを期待しつつ、折れて短くなった刀を突き立てた。
だが相手は楓華の期待とは裏腹に冷静かつ戦意を失っている。
舌戦など付き合う気が無いと言わんばかりに身を引いた。
「にゃー!」
左手は顔を抑えながら、突き上げた右手に握られた虎時雨が再び刃に変わる。
手首を返して力一杯に地面に突き立てたこの技はやや変則ながら時雨流鉄砲雨。
本来は高所から強襲などに使われる突き落としの技で抉られたアスファルトが煙を巻き上げた。
「なっ⁉」
この煙幕に乗じてどう攻めてくるのかと考えていた楓華はコレが逃げの一手と気づくのに遅れてしまう。
煙が晴れたときには既にタイガーは姿を消していた。
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