第24話 お仕事は有言実行します

 馬車は走っては止まるのを幾度か繰り返すと、次第に速度をあげた。どこかの門を抜け王城をでたのだろう。私は暗い夜道を疾走する馬車の姿を、伏せた頬に伝わる振動から想像した。

 ついぞ機会に恵まれず、私はこの国に転生してからまだ一度も王城をでたことがなかった。だから城外には通りすがりに顔を見知る相手すらいない。こんな時、真っ先に思い浮かぶのは雪の姿だが、私をこのような窮地に陥れた張本人はその彼女だった。

 そうなると残された唯一の望みは海である。早は人事院長の元へ向かっていたようだから、予定の時刻を過ぎても私達が姿を現さなければ、いずれ海のところに連絡がゆくだろう。彼はこれまでにも色々と私のことを気にかけてくれていたから、行方がわからないとなれば探そうとしてくれるかもしれない。しかし騎士として働く彼は非常に多忙な身の上だ。探すといっても限界があるだろう。失踪した下女一人を探すよりも、王城や国の安全を守る方がよほど重要だろう。それにあの状況では、いくら大丈夫だと諭されたとはいえ、懲罰を恐れて逃亡したのだと思われても仕方なかった。

 むしろ……と私は背中で捩れた手を握り締める。転生者として自分の置かれた立場を悟った今となっては、海と顔を合わせるのが辛くて堪らなかった。せっかく助けてもらっても、私は彼の守る国に何らかの災いをもたらすかもしれない存在なのだ。いつかそれが彼に知られるかもれないことを考えると、このまま誰にも気づかれずに消えてしまった方が


いたいという気持ちが消しきれなかった。


 下女など一人消えたところで二人の他には探してくれる者などいまい。この暗い夜道はそのまま私の終わりに向かって続く一本道だ。そう考えると私は一層暗く破滅的な気持ちになった。何もかもがどうでもよくなって、強張っていた手足から最後の力が抜けてゆく。

 一度ひとたび、力を失うと一人では首も上げられないほど体が重く感じられる。己の瞼すらままならず、もう目を開けているのも辛い。もはやこの状況を打破しようという気概も、悪態をつく気力も湧いてこなかった。じっと床に蹲って目を閉じ、ただ激しい馬車の揺れに身を任せる。

 私に残された唯一の慰めは、死ねば元の世界に戻れるかもしれないという、なんとも心もとない望みだけだ。それが蛍火ほたるびのようにゆらゆらと遠く瞼の奥にちらついては消える。元の世界が何としてでも戻りたい、手放しで素晴らしいと賞賛できる理想の世界だったとは決して思わない。しかし少なくともあそこには仕事があり、生活があり、友達がいて、ささやかだが確かな日常があった。あんなにも代わり映えがしないと疎んでさえいた日々の安穏さが、今はひどく懐かしくて堪らない。


 しばらくそうしていると、次第に馬車の揺れが耐え難くなり私は重い瞼を開けた。西部劇にでてくるような石ころだらけの悪路を疾走するかのように、木製の車輪が軋み車体が大きく弾んでいる。床に蹲り続けることも難しくなり、私は揺れに翻弄されるように車内を転げ回わった。痛みと酔いと酸欠で再び視界が霞んでくる。そうこうしているうちに、突然、落雷のようなばりばりという轟音が響き、次の瞬間、馬車は大きく傾いて、がこんと何かにぶち当たって止まった。

 一瞬、耳鳴りがするような静寂が訪れる。それを突き破る誰かの怒声が響く。どたどたという足音。後部の扉が勢いよく開き、私は馬車の外に引きずりだされた。

 土と湿った落ち葉の匂いがする。いつの間にか轟々と風が吹き荒れる夜になっている。乱れた髪の隙間から早い風に流される不穏な斑雲が見えた。明滅する月明かりに照らされて頭上で真っ黒な樹影が渦を巻く。嗚呼、誰かの名画に似ていると、私は他人事のように思った。


「くそっ、ついてねぇっ!」


 蹴り飛ばされて転がり、俯せた背中を踏みつけた誰かが吐き捨てる。


「動くんじゃねえぞ」


 近くに立つもう一人が、腹の底が凍えるような声でいった。


「こ、ここで殺るのか」


 馬車の後方から震える声で誰かが尋ねる。


「首があるとないとじゃ報酬が十倍違う」

「でも、場所が……」

「どこだって、殺っちまえば同じさ」


 近くに立った男はそう答えると、無造作に私の後頭部を踏みつけた。剥きだした首筋に分厚く冷たい金属が押しあたる。位置を確かめるように軽く揺すられ、生温かいものが首筋を流れる。

 死ねばこの悪夢は終わるのだと、私は呪文のように自分に言い聞かせた。

 そうすれば、この悪夢から解放されるのだ。

 ある日突然、全く別の世界に転生するなどという奇想天外な悪夢から。

 元の世界に戻れるのか、それとも新しい命として生まれ変わるのかはわからない。

 しかしどちらだったとしても、きっとまた新しい人生がはじまるから大丈夫だ。

 しかし異世界転生した身にも本能というものはあり、それは常と同じようにままならぬものらしい。

 私の体は目前に迫った死の恐怖に、石のように凍えてぶるぶると震え続けた。

 その体を押し潰すように一層強く踏まれて、地面に擦りつけた鼻先から土を吸いこむ。


「大人しくしてらぁ、一瞬だ」


 首筋から、ぱっと金属の感触が離れた。

 私は目が潰れるほど強く瞑る。

 一瞬のはずなのに、時が止まったように長く感じた。

 男が持っているのはギロチンのような大刀だ。

 振り落とせば衝撃は一瞬。

 痛みを感じる暇もなく首が飛ぶだろう。

 ぜひそうしてもらいたい。

 中途半端につながって、無駄に苦しむのだけはごめんだ。

 首が飛べば自分でも諦めがつくというものだ。

 それでこの悪夢の全てが終わる。

 こっちの世界でお役御免になれば、運よく元の世界に帰れるかもしれない。

 自分はずっとそれを望んでいたはずだ。

 元の世界に戻って、それで、それで──。


 不意に、この世界で過ごした半年の時間が蘇る。

 そして、この三日間共に過ごした白蓮様の後ろ姿が──。

 突然、私の腹の底からマグマのように熱い何かが吹きだしてきた。


 嗚呼ああ、嫌だ。

 嗚呼、やっぱり嫌だ。

 嗚呼、嫌だ、死にたくない!

 嫌だ、嫌だ、嫌だ、絶対に嫌だ!!!

 私は男たちに踏まれた足の下で、死に物狂いに暴れる。

 身体中の血が沸騰し暴力的な何かになる。

 その何かか急激に膨らんで堪えられなくなり、爆発すると思った瞬間、不意に体が軽くなった。


 私は潰れた肺に貪るように息を吸いこむ。

 頭上で耳をつん裂くような金属音。

 二度、三度と打ち合って暗い森に火花が散る。

 誰かが蛙のつぶれたような声をあげ、どさりと地面に落ちた。

 鉄臭く生温かい液体が頬に飛び散る。

 私の背中を踏みつけていた男が飛び退いて何かを喚く。

 暗闇に激しい息遣いと剣戟の音。

 伏せていろ、と叫ぶ声が聞こえた気がした。

 でも私には関係ない。

 もう、こうして地面に転がっているだけで精一杯だ。

 私は体を丸めて思い切り目を瞑った。

 しかし、待てど暮らせどもう二度と、私の上に刃は落ちてこなかった。


「澪っ!」


 大きな手に抱き起こされる。

 頬が何かに押しつけられる。

 温かい胸だ。

 衣装に焚きしめられた香りと、木の葉と土と、少しの汗の混じった肌の匂い。

 それは生きている人間の匂いだった。

 海の匂いだった。

 嗚呼、私は生きていた。

 まだ生きて、この世界にいた。


 暖かい胸はどこまでも広く、逞しく、暖かい。

 抱きしめられていると安堵からか急激な睡魔に襲われる。

 こんなタイミングで寝たりしたら、彼に余計な心配をかけるとわかっっている。

 しかし体は全くいうことをきかない。

 力の抜ける体を抱き直されて、首元を弄った海が息をのむ気配がする。

 彼に大丈夫だと伝えたかった。

 しかし舌は痺れ、腕をあげるのも億劫で少しも上手くゆかない。


「止血をっ!」


 海が叫ぶとばたばたと人が駆け寄ってくる。


「俺を見ろっ!」


 海の声が遠く聞こえる。体を揺さぶられ必死に声の方を見ようと顔を傾けるが、瞼が重くて開かない。

 助かった安堵と、殺されるべき存在なのに生き残ってしまった後ろめたさと、死んで元の世界に帰れなかった少しの落胆とで、私の中はぐちゃぐちゃだった。自分でもどうしたらいいかわからないほどに。


「すまない、こんなことに巻き込んで」


 海の呟く声が聞こえたような気がした。

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