第22話 お仕事は取引から

「雪、お前……どうしてここに」


 振り返った早は幽霊を見たような顔になった。血の気の引いた顔は青いを通り越して死人のような土気色だ。


「ひどいよ、待ち合わせに遅れたのは早さんの方でしょう。この間みたいに邪魔がはいると嫌だから、先に迎えに来たのに」


 笑顔の雪がこてりと首を傾げると、早はよろけるように後退った。なぜか雪は下女のお仕着せではなく女官の衣装を着ていた。元々が下女にはもったいないような美少女だ。一体いつの間に身につけたものか、背筋をぴんと伸ばして優雅に裾を捌く様は実に堂に入ったものだった。知らずに会えば年季のはいった女官としか思えない。まるで前宮の景色の一部であるかのように背景に溶けこんでいる。

 しかしなぜ雪がそんな衣装を着ているのか。そして早の雪に対する態度の変わりようはどういうことなのか。言いようのない違和感が腹の底から沸々と湧きあがり、私の胸にざわざわと不穏な細波さざなみを立てる。


「困るわ、この期に及んで時間稼ぎ?」

「う、うるせえっ。そいつが遅かったんだよ。約束通り来ただろうが」

「そうねぇ」

「これで、金の件は……」

「わかってるわ」


 私は雪と早を交互に見る。彼らは一体全体何の話をしているのか? 私の全く預かり知らぬところで何か重大な話が進んでいるらしい気配に、不安を感じた私が距離をとろうとすると、すかさず雪が私の手首を掴んだ。


「つーかまーえた、澪ちゃん」


 かくれんぼをする子供のようにあどけなく無邪気な声。薄暗い前宮の廊下で、それはぞっとするほど場違いだった。背筋をひどく嫌なものがぞわぞわと這い回り、私はとっさに雪の手を振り払おうとする。しかし冷たく硬い彼女の指は、窒息させようと獲物に絡みついた蛇のように、一層強く固く私の手首に巻きついた。


「下女寮の設備費なんて大したお金にもならないのに、使い込みだなんてけちな真似よくするよね」

「馬鹿がっ、こんなところで──」


 早があたふたと辺りを見回すと、雪はころころと鈴が転がるように笑った。


「誰も聞いてないよ、下男下女わたしたちの話なんて」

「畜生がっ、お前がそんな女だって気づいてりゃ絶対に手なんか──」

「絶対になあに? もしが──」

「おい、その話はやめろっ!」


 土気色の顔をした早が唾を飛ばす。


「お、お前が裏で誰とつながってるかなんて、俺にはどうでもいいんだよ。俺はちゃんとそいつを連れてきただろう。約束は守れよな」

「もちろんよ、ちゃんと打合せの場所で連絡係が待ってるわ」

「人事院長の要請をすっぽかすんだ、もう本当に後がねぇ」

「人事院長の約束?」

「ぐずぐずしないで、さっさと行きなよ」

「くそっ、目覚めが悪りぃ」


 私は雪をまじまじと見つめた。早はしきりに額の汗を拭きながら横目にこちらの様子を伺っている。しかし何かを吹っ切るように頭を振ると、脱兎のごとく今きた廊下を戻っていった。俺を恨むなよ、俺は何も知らないからな、と捨て台詞を残して。


「ま、待ってください早様! 困ります!!」


 反射的に私は早を追いかけようと足を踏みだす。しかしそれよりも何倍も強い力で引き戻された。よろめき、信じられない思いで雪を振り返る。


「今度こそ一緒に行くよ、澪ちゃん」

「ゆ、雪ちゃん? どういうこと? どうしてこんなこと……」

「どうして? 澪ちゃんがそれをいうの?」

「あ……ご、ごめん、私。本当にごめんなさい。助けるつもりで身代わりになったのに、雪ちゃんにとんでもない迷惑をかけてしまって」

「いいよ、もうそのことは。それよりも行こう」


 雪は強引に私の腕を引く。行く行くと言ってそれで私を一体どこに連れて行こうというのか。彼女の口振りはまるで私が何度も約束をすっぽかしているかのようだが、私が雪と交わした約束を無断ですっぽかすなどという不義理はついぞしたことはない。それどころかいくら記憶を探ってみても、彼女とどこかへ行く約束など交わしていた覚えはなかった。


「ま、待って。行くって、雪ちゃんどこに行くつもりなの? この償いは必ずする、絶対するから。だからお願い、少しだけ待って。私どうしても行かなきゃいけないところがあるの。終わったら必ず一緒に行くから」

「終わってからじゃ遅い、私よりも大事な用事があるっていうの?」


 雪の声が急に低く平坦になり、私の胸が騒ぐ。


「澪ちゃんにとって私はたった一人の友達でしょう? 水も汲めない澪ちゃんを助けてあげたのは誰? その私のたった一つのお願いも聞いてくれないほど澪ちゃんは恩知らずじゃないよね?」

「雪ちゃん、でも──」

「大丈夫、私が案内するから」

「案内? 雪ちゃんが? でも、私早様と行くようにって……あっ!」


 雪が突然がばりと床に伏せた。腕を掴まれていた私も転ぶように床に膝をつく。次の瞬間、目の前を七、八人の官吏の集団が横切った。床に座りこんだまま呆然としていると、集団の中心を歩く人物と目が合う。宮内院長の斎峰だった。なぜこんなところ彼が、と考える間もなくぎろりという音が聞こえそうな眼光で睨まれ、私は慌てて頭を下げた。


「宮内だ、わきまえよ」


 有無を言わさぬ厳然とした声が響き、頭から冷水をぶっかけられたように血の気が引く。そもそも前宮はこんな時間に下女がうろついていていいような場所ではない。その上、囁き程度とはいえ私語に現を抜かしていてそれを咎められたとなれば、下手をすれば懲罰ものの失態だ。

 雪は直前までのやりとりが嘘のようにいじましい様子で床に蹲り、怯えた子猫のように震えて謝罪を繰り返している。それはひどく憐れがましく、同時に無性に加虐心を掻き立てる姿だった。現に斎峰を取り囲んだ官吏の内の半数は、妙に熱のこもった粘ついた視線を雪に向けている。それに気づいてかいないか、斎峰が咳払いした。彼らは一斉に視線を逸らすと、しそわそわと落ち着かなくなる。


 私も雪の隣で膝をつき同じように謝罪した。しかし頭の中はすっちゃかめっちゃかで、斎峰の小言は右から左へと素通りする。早と雪の変貌ぶりも、己が置かれた状況も、何もかもが幕一枚隔てた向こう側の出来事のように曖昧として掴み所がない。

 すがるように海に言われたことを思いだすが、流れに逆らわらない、己を信じる、あとは……何だっけ? 抽象化された励ましは、この状況を直接打開する手立てにはなりそうもない。

 斎峰はさらに二、三の小言を並べたが、しかしそれ以上の大ごとにはならなかった。目に余って注意したものの、下女になど構っている暇はないことを思いだしたのだろう。彼らは言いたいことだけいうと、さっさと次の場所へ移動して行く。


「澪ちゃん来て、こっちで相談しよう」


 胸を撫でおろす間もなく、彼らの姿が消えると雪は素早く立ち上がり再び私をひっぱった。


「雪ちゃん、お願いだから待って」

「でも急がないと。頼まれてるの、から」

「あの方……?」


 私の脳裏を海の姿が過ぎる。私が戸惑ったその一瞬を見逃さず雪は強引に足を進めた。それでもまだ私の中には、落ち着いてちゃんと話しあえば、彼女はわかってくれるはずだという甘えがあった。私達の間には何かちょっとした行違いか勘違いかがあって、それさえ正すことができれば、また元のような関係に戻れると私は信じていた。だから抗いながらも、雪に引きずられるままにずるずると、前宮の奥へ奥へと入りこんでしまったのだ。


「そう、。あの方から頼まれてるの、澪ちゃんを連れてくるようにって」

「あの方って、それってかい──」


 尋ねようとしたとした時、背中に強い衝撃を感じる。思い切り突き飛ばされたのだと気づいた時には遅く、予想もしなかった方向からの力に、私は面白いほど見事に吹っ飛ばされて床を転がっていた。手をつくとざらりとした冷たい石の感触。どこかの倉庫に押しこまれたのだと気づいたのと、がちゃんという冷たい音を立てて重い扉が閉まるのとが同時だった。

 咄嗟に起きあがりかけたところを、別の強い力に押し倒され床に俯せに抑えこまれる。容赦なく体重をかけられて、肋骨が軋み肺がぺしゃんこになった。苦しくて口を開けたところに猿轡を押しこまれる。あとはあっという間に両手足を縛られて、私は再び冷たい床に転がされた。光源は目貼りされた窓の隙間から差しこむ細く頼りない光だけ。その光を避けた闇の中に複数人の気配が蠢く。芋虫のようになって床に転がる私の顔を、しゃがんだ雪が覗きこんだ。


「私もね、よくはわからないんだけど」


 雪は綺麗な顔に笑顔を浮かべて首を傾げる。まるで道端の花を愛でるような可憐な仕草に、私の前身は総毛立った。あまりにも違う、場違いすぎる。この期に及んでようやく、私は雪が話の通じない何か別物になってしまったのだということを認めざるおえなかった。


「なんでも直前までは怪我もさせずに生かしておくことが大切なんだって。殺しちゃうんだから同じだと思うんだけど不思議だよね」

「うぅ、うぅ」

「だから少しの間だけ我慢してね。大丈夫、そんなに長くはかからないと思うから」

「うんんっ!」

「それにしても面倒だよね。わざわざ国境を越えてから始末なきゃいけないなんて。でもどうしてもそういう手順を踏まないと駄目なんだって。でないとだかなんだかで、大変なことになっちゃうらしいよ」

「うんんっ!」

「まだそんな元気があるんだ」


 必死にもがいた私がなんとか上半身を起こそうとすると、雪は私の鳩尾を蹴りあげた。容赦のない一撃に息が詰まり、猿轡の下で私は咽せながら涙を流した。

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