第3話 お仕事は身代わりから
当初、冷たかった風もすっかりと生暖かくなり、これは誰かの悪戯では、何かの悪い夢では、きっとすぐに元の世界に戻れるはず、という私の淡い願望はとうに打ち砕かれた今日このごろ。
異世界転生した者の例にもれず、私の心は思いつく限りの様々な感情を一巡りした。そして今は結構凪いでいる。ある種の諦観、諦めの境地に達したのだろう。だからだろうか、最近は少し考え方が変わってきた。戻れないのならば仕方ない。この世界でよりよく生きていくためはどうすべかと、前向きに考えられるようになってきたのである。今の私のささやかな夢は、この読み書き計算の能力を活かして、代筆業や家庭教師などで自活して生きていくことだ。雪の話を聞いた限りでは、この国の識字率は前の世界と比べるとかなり低いようだから、十分に可能性はあると思っている。
そしてぼんやりとだが、そんな将来像を思い描くようになったころから、私は下女寮で一層目立たぬように息を潜めて暮らすようになった。家族も親戚も知り合いも、助けてくれる人がいない私のような人間がこの世界でしぶとく生き抜いていくためには、とにかくできる限りの危険を避けて地味に地道に暮らすのが一番だ。
雪を見ていても分かるように、目立つ子は良い意味でも悪い意味でも無駄な危険が多い。もちろんその代わりに、誰か身分の高い人の目に留まる可能性もなくはない。実際にそういうチャンスをねらってわざわざ下女になる娘もいるらしい。しかし私には今も前の世界でも、そういう要領の良さは一切持ち合わせが無いのだ。
だから、なぜかこれだけは前の世界から変わっていない黒髪黒目という地味な色合いも、ショートボブが伸び放題になった中途半端な長さの髪も、サイズが合わずぶかぶかのお仕着せも、そんな私には好都合だった。
とにかく地味に目立たずしぶとく生き抜いてゆく。そしていずれは自分の力で地に足のついた生活を営み、異世界での安心安全安泰な老後生活を獲得する。それがある日突然、異世界に転生させられて、未だ理由も分からず生きることになった私のささやかな目標であり、そして己の運命に対するちょっとした復讐でもあった。異世界転生したからといって、誰かの意図通りに踊らされるつもりなどさらさらない。どこであっても何があっても私は私だ。自分の人生を生きてゆく、ただそれだけである。
私はもう一度、小さな吐息とも溜息ともつかない息を吐いて気持ちを切り替えると顔を上げた。崩れかけた塀の端に並んで腰かけた雪は、先ほどから思いつめたような暗い顔で黙り込んでいる。私はできるだけ明るい声をだした。
「雪ちゃん、大丈夫? 何があったの?」
「あたし明日、明日……
「えっ、ハクレンサマ…………の部屋のお掃除? それは……その……え、えっと、そのハクレン様って大変な人なの?」
私が首を傾げると、雪は音のたちそうな長い睫毛を瞬かせた。
「……そうか、澪ちゃんはまだ白蓮様のこと知らないんだ」
「うん、はじめて聞いた。雪ちゃんがそんなに怖がるってことは、その白蓮様はかなりヤバイ人ってことよね?」
私の鼻息が荒くなる。ここでは下女の立場は本当に弱い。突然難癖をつけられることや、物陰に引きずり込まれて無理矢理ということも誇張ではなくあるのだ。雪がこんなに怯えているってことは、そいつ──。
「うんん、違うの。白蓮様は澪ちゃんが考えているような人じゃないの」
雪は首を振る。それはちょっと困っているような、私の思い違いが面白いような顔だった。顔を見合わせてお互いに小さく吹きだすと肩の力が抜ける。
「あれ、じゃあどういう人?」
「うん。ええっとね、白蓮様は
「医者?」
「そう、名医って言われていて王家からのご信頼も厚いし、他国からわざわざ診療の要請がくるほどなんですって。でも、でも……」
「でも?」
「でも……、ご本人がとても優秀な方な分、とっても厳しくて怖い方なの。普通はお掃除するお部屋って、大体担当が決まっているでしょう?」
「そうだよね」
「でも白蓮様は厳しい方だから、お掃除の子が長続きしないの。皆な怖いって泣いて帰ってきて……。前はベテランの
「でも、雪ちゃんは
「そうなんだけど……下女頭の
雪ちゃんの声は段々小さくなって、最後は膝を抱えて俯いてしまう。なるほど、そういうことかあの下衆野郎。私は膝の上で拳を握った。
雪ちゃんは家の事情で仕事を辞めても帰る場所がない。婚約者はいるけれど彼は兵士だ。今は仕事で国を出ているから戻ってくるまでは結婚もできない。そういうところに付け込むあたり本当に下衆だ。私は一つ大きな息を吐くと、膝を抱えて項垂れる雪ちゃんに向き直った。
「明日の仕事、私が代わるよ」
「澪ちゃん! そんな、それじゃ澪ちゃんが……」
雪は再びぶるぶると首を振る。でも私の決意は揺るがなかった。私は何でもないことのようにできるだけ明るい声をだす。
「いいの、いいの。どうせ雪ちゃんがいなかったら、そもそも私はこの仕事続けられてなかったわけだし。だから今度は私が雪ちゃんを助ける番」
「澪ちゃん……でも……」
「それに前に言ったでしょう? 私、この国に来てから王城しか見てないから、街に行ってみたいと思ってたって。退職する時は雀の涙だけどお礼金も出るし、もし辞めることになったとしても案外いいきっかけになるかもなんだよ」
私が小さなガッツポーズのような感じで気合いを入れると、雪は泣き笑いのような顔になった。
「だって澪ちゃん、お休みの日に城下にでかけようって約束する度、必ず風邪を引いたり、急な仕事が入ったりしちゃうんだもの」
大袈裟にため息をつくように言われて、顔を見合わせた私たちは再び吹きだした。私はつくづく運がない。雪は何度も誘ってくれたのに、お陰でまだ一度も王城からでられていないのだ。
確かに、雪の負担にならないようにと多少理由を盛っているところもある。しかしあながち全くの嘘とも言えない私の本心でもあった。状況を探るとはいえこの世界にきてもう半年。下女の仕事は楽ではないが、衣食住は守られているから、ここにいれば生きていくことはできる。しかしその代わりあまり発展性はない。同じ生活を毎日淡々と繰り返すだけだ。
この世界で積極的に生きていくと決めたからには、そろそろ現状を打破するための行動が必要だろう。ありがたいことに半年分の給料はほとんどそのまま残っているし、退職すれば雀の涙だが礼金もでると聞いている。これだけあれば下女寮を放りだされても、しばらくは路頭に迷うことなく暮らしていけるはずだ。
だから、たとえ雪の身代わりの仕事に失敗して最悪下女寮を追いだされることになったとしても、それほど悪い話ではないのだった。むしろ自分からはこの安穏とした生活を放りだす勇気がでない私の背中を押してくれる、いいきっかけになるような気がする。だから私はことさら明るく、何でもないような声をだした。
「大丈夫、私前の仕事の上司がすごく厳しいというか怖い人だったから、怒られ慣れてるの。ちょっとやそっとのことじゃへこたれないんだよ」
「澪ちゃん……、ごめん、ごめんね、私……本当にありがとう」
そういうわけで、私と雪は翌日の仕事場を交換した。明日に備えて私は雪と簡単な打ち合わせをする。といっても私の方は大したことはない。入ってまだ半年足らずの新人が任される持ち場は、体力的にはきついが内容は単純とうのがほとんどだ。雪の方がずっとベテランだから引き継ぎに大きな問題はない。
一方で私が代わった仕事は少々事情が込み入っている。しかも雪もはじめて担当する部屋だから詳しいことは行ってみないとわからない。掃除の時間は基本的に他の部屋と同じで、掃除の仕方も『絶対に余計なものに触ってはいけない』といったいくつかの決まり事が厳しいというだけで、場所は事務系の執務室だから特別に難しいことがあるわけでもない。
一つ問題があるとすれば、医薬院は場所が遠いことだろうか。特に王城の外れにある下女寮からは厭世の感があるといってもいい距離だ。雪によると普通に歩いても下女寮から医薬院までは四半刻、約三十分はかかるらしい。しかも王城は中心部に行くほど警備が厳しくなる。辿り着くまでには何度も衛兵の
私たちは額を寄せ合って明日の計画を練った。それぞれの移動時間を計算し、もし誰何で追求された場合の口裏を合わせをする。雪は私に白蓮様は厳しい方だからと脅すように何度も繰り返し、遅刻だけは絶対にしては駄目だからと通常よりもかなり早い起床時間をすすめてくれる。
それには他の医薬院担当の下女達と鉢合わせしないためという理由もあった。大抵、下女は同じ持ち場の数人で一緒に行動している。実際の現場レベルでは互いに融通をきかせて持ち場の交代を行うことは時々ある。しかしあまり褒められた行為ではない。私の持ち場は私と同じように経験の浅い
一方で、私が交代した
それで翌日、私は通常よりもかなり早い時間に一人で寮を出発することになった。だでさえ下女の朝は早いから、そうなるともう朝ではなくて夜といったほうがいい時間だ。しかし持ち場を交代しようと言いだしたのは私だ。私は殊更明るい笑顔で請けあう。これまで雪には助けられてばかりなのだ。この交代で少しは恩が返せるかもしれないと考えると俄然やる気がでてくる。私は一通りの打ち合わせをすませると、申し訳なさそうに身を縮めてごめんねと繰り返す雪を励まして、二人で寮の部屋に戻った。
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