私、転生してもサラリーマンなんですが!?『天虹国お仕事日誌 : 身代わり編』

石田彗

第1話 情報を制するものはお仕事を制す

 深夜、天虹国てんこうこくの王城にほど近い広大な屋敷の一室。最奥にある明かりの絞られたその寝室で、一つの人影が机に向かっていた。彼はまるで機械じかけの人形のように正確無比な手捌きで、机の上にうずたかく積み上げられた書類を捌いている。寝支度のすっかりと整えられた寝室に入ってからずっとそうだ。主人の体調を案じた侍従長が三度は様子を見に来ているが、この屋敷の主である彼が眠る気配はまだ一向になかった。

 静かな部屋の中に書類をめくる音だけが響く。ふと静かに文字を追っていた彼の視線がふと上がると、葉擦れのようにささやかな扉を叩く音がして、もう一つの影が部屋に滑りこんできた。こんな時間に突然の、それもまるで忍び込むかのような不穏な来訪にも関わらず、屋敷の主は入室した相手を一瞥すると、何事もなかったのように書類仕事を再開した。

 影は足音も立てない流れるような動作で主の元に歩み寄る。影が片膝を床につく前に主は懐から取りだした扇でその動きを制した。こんな刻限まで礼儀を求めるほど彼の頭は硬くないし、一々悠長な礼をしあっているほど暇でもなかった。


「『あれ』の様子は」


 主は手元の書類に視線を落としたまま影に尋ねた。


「可もなく不可もなく」


 影が味も素っ気もない返答をすると、そこでようやく唇の端をわずかに緩めた主が顔をあげた。


「お前はいつも言葉が足りないね」

「……失礼いたしました。つつがなく過ごしております、下女寮で」

「そうか」


 二人の間に不意の沈黙が流れ、主は小さく首を傾げる。


「どうした」

「いえ」

「何か言いたいことがあるのだろう?」

「別に……」

「お前らしくもない。いまさら遠慮する仲でもあるまい。気になることがあるなら言いなさい」


 影は少し躊躇ったあと、ちらりと主の方を見た。そして諦めたように小さな溜息をつく。経験からこうなった主はこちらが言うまで諦めないとわかっている。


「いつまでお続けになるつもりです?」

「何を?」

「こんな茶番を、です。私が見る限りあれは……あの娘はどこからどう見ても、何の変哲もない普通の町娘です」

「ふっ」


 影は目を瞠った。主は思わず笑みがこぼれた口元を扇で隠すと咳払いする。


「私を揶揄っていらっしゃるので?」

「いいや」

「ではこれは何かの試験でしょうか?」

「おや、そんなわけがあるか。お前の実力は誰よりも私が一番よく知っているし、私もお前もいつそんな暇人になった? 大真面目だよ。真剣にお前にあの娘のを依頼しているんだ。そうか、お前にもそう見えるか。至極普通の町娘に?」


 影は力強く頷いた。


「わざわざ私に確認させなくても、それなりに訓練した者なら一目でわかることでしょう。貴方のように」

「ははっ」


 今度こそ主は声をあげて笑った。影は呆気にとられる。この部屋の主が人前でこれほど感情を素直に表現するのは非常に珍しいことだった。それも心から楽しそうに笑っている。毒気を抜かれた影は肩の力を抜いて軽く頭を振った。


「一体何をお企みなのです?」

「ひどいな、どうして私が笑っていると必ず何か企んでいると皆、疑うのだろうね」

「日頃の行いのせいでしょう」

「善行は積んでおくものだな」


 部屋の主は軽く肩をすくめる。


「私に分かるのですから、貴方もとっくにご存知でしょう。ただの町娘をいつまで監視させるおつもりなのですか。もしかして──」


 影がはっと息をのんだ。


「……あの娘に懸想されていらっしゃる?」

「はははっ」


 部屋の主は完全に手をとめ声をあげて笑った。あまりのことに驚いた侍従長が青い顔で飛んできたが、主は心配する侍従長を軽くあしらって自室へ下がらせた。


「いいね、実に気にいった」

「意外です、ああいう娘がお好みだったとは」

「まったく、お前は私の話を全然聞いていないようだな」


 部屋の主は悪戯を思いついた子供のように目を細めて影を見る。


「これはね、監視ではない」

「監視ではない?」

「私はと言ったのだ」

「は?」


 影はぽかんとした顔になる。


「観察? 監視と何が違うのです。貴方のお好きな言葉遊びでしょう」

「監視というのはね、前提として相手が何か悪いことをしないように見張るものだろう? しかし彼女は今のところ別に何も悪いことをしようとしているわけじゃない。私の方もただ様子を知りたいだけだ。だからやっぱりこれは監視ではなく観察だよ」


 影は再び頭を振る。


「意味が分かりません」

「それでいい。私にもこれ以上説明のしようがないんだ」


 主は椅子の上でのんびりと足を組むと、指先で扇を弄びながら、寝台の脇机に置かれた古びた一冊の本に視線を移した。それは書類や資料にあふれた彼の寝室の中にあってなお、一際古く異彩を放っている。


「やはり私を揶揄っていらっしゃるのですね」

「私がそんな暇人に見えるかい? そういうのは五老師としよりに任せておけばいい」


 ぎょっとした影が反射的に辺りに視線を走らせ、諌めるように声をひそめる。


「どこに誰の耳があるか分からないのですよ。たとえ貴方でもそういう冗談はおやめください。心臓によくない」


 椅子に座った男は反省した様子もなく、軽く肩を竦めると思いの外真剣な眼差しで隣に立つ男を見上げた。


「私は決して揶揄や酔狂でお前に彼女の観察を頼んでいるのではないのだ」

「では百歩譲って真剣な観察だとして、一体何をお求めなのです?」

「何も」

「は?」

「だから何も求めてない。さっきも言っただろう、ただ様子を知りたいだけだ。何度言わせるんだ」


 いよいよ影は頭を抱えた。


「貴方ともあろう御方が、ご自分が何をおっしゃっているか分かっているのですよね?」

「もちろんだとも、私の頭は至って正常だよ。その正常な頭で頼んでいるのだから観念するんだね。私が観察にこだわるのはね、結局、知ったところで誰にもどうしようもないことだからさ。何か起こったとしても我々下々の者にはどうすることもできないことなんだよ。逆にそれを無理やり力づくでどうにかしようとする者がでてもらっては困るんだ」

「それを監視というのでは」

「いいや、観察だね。我々は見ているだけ……様子を見ることしか許されてはいないと言う方が正しいか。いいかい、お前も決して余計な手だしをしてはならないよ」

「はぁ……」

「運命とは生き物だからね」


 腕を組んだ主がどこか遠くを見るような目で語りはじめたので、影はまたいつもの講釈癖がはじまったのだろうと思って脱力した。彼一流の比喩、言葉遊び、解釈論。彼の主はとても優秀だが、それ故に少々こだわりが強く何事も突き詰めて考える癖がある。講釈もその一つで、一度はじまると長いのだ。


「干渉すれば拗ねるだろうし、追えばどこかに逃げるだろう。そうではなくて場を与えるんだ。とにかく居心地のいい場所をね。それも自分で見つけてくれるとなおよい。本人が望んでいたいと思えるような場所ができれば最高だ。何かの拍子に無理やり引き離されるようなことがあったとしても、自分からまた戻ってきたいと思えるようになるからね。そうやって本人も意識しないうちに愛着をもつのが理想だね。どこかいい場所を見つけて、自然と居着いてくれるといいんだけど」


 屋敷の主はふと遠くを見つめると、最後は独り言のように呟いた。


「手出し無用というのは、万が一の場合は殺されても構わないと?」

「おやおや、それは困るよ」

「は?」

「お前が言ったのだろう、可もなく不可もなくと。それが理想的だ」

「ですが手出しは無用だと……」

「相変わらずお前は頭が硬いね。そのあたりは臨機応変に対応するんだ。大丈夫、難しく考えなくてもその時になれば自然と体が動くだろう」

「つまり結論としては……今のままでいいと?」

「ああ、ただ観察にも目的はある」


 部屋の主が弄んでいた扇を軽やかな音を立てて閉じると、傍らに立つ影の目つきが変わった。一瞬で白刃のように研ぎ澄まされた光を帯びる。


「観察すれば予測はできる。予測できれば先手が打てる。本人にではなく周囲に干渉する先手がね。それが肝要だ。過ぎたるは及ばざるが如しというだろう。私たちは彼女めいうんと付かず離れずの距離を保って、身の程を知らねばならない。だからお前の役目は責任重大だよ。まあ、自分で引き寄せた、いや引き寄せたれたようなものだけどね。いいかい、引き続き目を離さぬように」

「彼らは、どうされます」

「そうだねぇ」


 のんびりとした声とは裏腹に、部屋の主はすうと冷たく目を細めた。かつて神童の名を欲しいままにした少年は、大人になって鋭さを隠す術を覚えた。しかしこういう時、彼の本性が垣間見える。容赦のない人なのだ。


「そのままにしておこうか。今捕まえたとしても結局は蜥蜴の尻尾切りだろう。大した収穫にはつながらない」

「早めに処分した方がよろしいのでは?」

「泳がせておけば餌を食べ、もう少し大きくなることもある。別の魚を釣るための小餌にはなるかも」

「貴方という方は、相変わらず容赦がない」

「先に裏でこそこそする方が悪いのだからね。私はこの国の安寧を願って日々真面目に働く一官吏にすぎないよ」


 影は大きな溜息をついた。


「御意に」


 何か問いた気な顔をした影は、それでも職務意識を全うし至極真面目な返事を残して去っていった。一人になった部屋の主はようやく書類を遠ざけると、すっかりと温くなってしまった酒杯を手にとる。玻璃の縁についた唇は流麗な弧を描いて琥珀色の液体を飲み干す。彼は玩具を目の前にした子供のように邪気のない笑顔で呟いた。


「さて、渡りめいうんはどこを選ぶのだろうね」

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