肉鍋
青山獣炭
Part 1
私は十数年前に食べた肉鍋の味を、今でもはっきりと覚えている。
それを食べた時――私は、朝の光が射し込む狭い居間で、老夫婦と伴に食卓を囲んでいたのだった。
卓袱台の中央に土鍋があり、湯気が勢い良く立ち昇っていた。鍋の内側には、すりおろした大根が、うっすらと敷かれている。鍋の他には、香の物と白飯しかない。
私は、こわごわと箸を鍋に伸ばした。みぞれ鍋の中には、長葱、青菜や人参、こんにゃくなどが入っており、それらを掻き分けて、存外たくさん入った肉の固まりをつかむ。やけに白いその肉を、私は一瞬目を閉じて口に入れた。すべすべとした舌触りで、妙に歯ごたえがあった。
鍋の湯気の向こうで、老夫婦が微かな笑みを浮かべていた。
もう四十近くになっている私が必ず若く見られ、今日まで独り身でいるのは、その肉鍋を食べたからなのかもしれない。……
私の経歴は平凡なものだ。地方の片田舎に生まれ、首都にキャンパスを構える私立大学を卒業して、そのまま都下のとある中堅の商社に就職した。
仕事を何とか覚え、サラリーマン生活にも慣れた頃、ひとりの女と懇意になった。彼女は、私が担当した小さな取引先の事務員だった。取引先の従業員は、彼女の郷里の者だけという、ちょっと変わった会社だった。
彼女は、もの静かで会話も殆ど交わさないのだが、それでいて一緒にいて退屈を感じない。そういうところが私の気に入った。
やがて互いのアパートを行き来するようになり、ごく自然な成り行きで、私達は少し広い部屋に居を変えて、いっしょに暮らし始めた。彼女――莢香との生活は、実に穏やかなものだった。共働きであったが、莢香は家事の一切を手際良くやってくれて、私は何の不自由もなく暮らすことができた。
私は彼女との結婚を考え、そのことを何度か話したのだが、返事はいつも決まっていた。
「今のままでじゅうぶん。お願いだから、ずっとこのままで……ね」
莢香と暮らし始めて半年ほど過ぎた頃のことだった。その日は私も彼女も仕事が休みで、まだ十二月の始めだというのに朝から灰雪が降った。
午前中でそれはあがり、昼から私達は、都心へリバイバルの日本映画を観に行くことにした。
戸外に出ると、まるで真冬のように寒かった。あたりの風景は、午前中の天気で一変していた。すっかり白くなった都会の景観の中を私達は行く。
痺れる程に冷え切った空気の中を、私達は寄り添って歩いた。莢香の吐く白い息に暖かみを感じながら、私は足を運んだ。
映画はモノクロの時代劇だった。有名な歌舞伎を下敷きにしていて、大量の血にまみれた陰惨な話だった。
夕方、安居酒屋で串料理をつまみに、私達は酒を少し飲んだ。映画の残影が頭にちらつき、食も話もあまり弾まなかった。
私達は暗い気分のまま、安居酒屋を出た。古ぼけた看板が並ぶ飲食店街の路地を、来た時とは逆に進んで、角を曲がった。私の時々出る悪い癖で、知らない道を徘徊してみたいという衝動に駆られたのだった。
「ねえ、まっすぐ帰りましょうよ」
いつもなら、子供の差し障りのない悪戯を見過ごすかのような笑みを浮かべて、黙ってついてくる莢香なのだが、その時に限っては何故かそれを拒んだ。
だが、私は彼女の言葉を無視して歩き始めた。酔いが回って、我儘になっていたのかもしれない。
酔いにまかせて歩くうち、いつの間にか私達は袋小路に入ってしまった。
背高い土塀に囲まれたその一角は、薄汚れた街灯に照らされて、夜気の中に浮かび上がっている。
私達は、思わず立ち竦んでしまった。
袋小路の全体が一面、たくさんの鴉の死骸で埋まっていたのだ。それらはみな、うっすらと雪化粧されていた。
莢香は、その光景を見て狼狽し、震えながら私に抱きついてきた。彼女の額は、異様に熱していて、衣服を通じて私の胸を不安で焦がした。
私達は踵を返して、急ぎ足でその場を立ち去った。
どう歩いたか覚えていないが、私達は何とか近辺の駅まで辿り着き、電車に乗った。
電車の中で莢香は、俯いたまま青白い顔をして坐っていた。私は彼女に対して、してはいけないことをしてしまったようなそんな気がした。
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