第12話 心病む言葉
千子小狐。
彼女は千子家に生まれた子供にしては脆弱だった。
元々は女系の血筋、男性よりも女性の方が武に優れた家系。
であるのに、彼女はその中でも非力で、弱弱しい存在として生まれた。
それが、彼女にとっては途轍もない程の劣等感でしかない。
「千子家は、私を差別する事はありませんでしたが優遇はされませんでした」
時代が時代ならば。
彼女の存在は社会から排他された筈だ。
だけど、それが無いのは、やはり世間体の問題だ。
古から続く、古き良き千子道場。
門下生は数える程しか居らず、悪い噂が経てば、畳まざるを得ない。
子供を怯えさせる様な事を行い、指導と言う暴力を振るう、それによって客足が途絶えるくらいならば、適度に接して来た方がまだマシだろうと、考えた。
「必要最低限の食事、家族であるのにも関わらず、与えられる愛は他人よりも薄い」
だから、千子小狐は家族からは存在しない様なものとして扱われた。
必要なものだけは用意した、しかし、家族は彼女に時間を割く様な真似はしなかった。
家族、血の繋がりがある筈なのに、千子小狐は愛情を感じる事は無かった。
しかし、そんな彼女でも、一人だけ、同様に愛を注いでくれる人物が居た。
「そんな私を、兄は兄妹として愛して下さった」
それが、千子正宗。
妹として生まれた千子小狐を、千子正宗は兄妹として愛し、守った。
それが何よりも、千子小狐は嬉しく思っていた。
自分にとって大切な兄、その存在が…僅か、十六年と言う年月を以て消えてしまった。
鍛神師としての道を進んだ千子正宗は、死んでしまったのだ。
「それなのに…兄は死んでしまい、私は支えを失った」
何よりも、精神的に堪えただろう。
それは彼女だけでは無く、彼の家族もまた、千子正宗に期待してたのだ。
「千子家は斬術道場を畳み、私は実家から遠く離れた場所へ、此処へ来た」
だけど、千子正宗の死亡により。
千子道場は良くない噂を焚き付けられた。
自衛として習わせた斬術、それを教える千子家の息子が祅霊によって殺された。
その技術は全く以て無駄なものであると認識されたのだ。
気の毒でしかない話だ。
だが、だからと言って、それが奈流芳一以に何の関係があると言うのだろうか。
彼女だけが、斬人としての能力が無く、代り火として石動京へ残り続けた。
それらの関係は、全て、奈流芳一以による原因であると言うのだろうか。
無論、奈流芳一以は、千子正宗を助ける事が出来なかった。
「…兄が死んだ事で、これ程までに影響が出ています」
それは仕方が無かった事だ。
だが、その影響は、あくまでも、奈流芳一以には関係ない。
である筈なのに、奈流芳一以の表情は青くなっていく。
千子小狐の冷酷な詰め方が、次第に奈流芳一以が悪いと断言されている様な気分に陥った。
「そして、私も、気が狂いそうになる程までに、感情が渦巻いていました」
大切な兄が死んだ。
これによって、彼女の心は壊れそうになっている。
自分と言う存在、それを肯定してくれたのは、この世で兄だけだった。
その兄が死んだ以上、千子小狐を肯定してくれる人間は居ないのだろう。
だから、それが彼女にとって、精神的に苦痛を憶える事だった。
「このまま、私は自らの感情を以て自死してしまうでしょう」
この感情を永遠に、死ぬまで感じ続けるのならば。
いっその事、このまま死んでしまった方が良い。
それ程までに、心の傷は深く、腐る程に、痛みによって苦しんでいる。
千子小狐は自らの胸元に手を添える。
細い指先で、自らのシャツを掴んで、皺を作った。
その表情は、年相応の幼い顔で、泣きそうになっていた。
「しかし…それでも、まだ、貴方が居る」
けれど、まだ。
彼女には、一人居る。
奈流芳一以が其処に居る。
千子正宗と同様に、千子道場で育ってきた逸材。
「幼い頃から、兄と同様に育ってきた貴方が、此処に居る」
あのどうしようも無い家族ですら、奈流芳一以は将来大物になると目を付けて来た。
奈流芳一以と言う、千子正宗の意思と炎命炉刃金を受け継いだ存在が、生きている。
「つまり、分かりますか?…お兄さん」
それだけが、今の彼女にとっては幸いな事実であった。
だから、彼女は奈流芳一以に向けてある提案を行った。
彼女の表情は変わる、悲しい顔、恨めしい顔、その様な顔では無い。
それは、兄に向ける素の表情。
幼少期に恋をした、幼馴染に向ける恋慕の表情。
「貴方が許される道は唯一つなのです」
千子小狐は、奈流芳一以に手を伸ばす。
「千子正宗の後を継ぎ…私の、本当の兄となる事」
その提案は、大抵、受け入れ難い内容だ。
奈流芳一以は首を縦に振るわけがない。
千子正宗の代わりとして、人生を生きろと言われている様なものだった。
千子小狐の言葉に、奈流芳一以は苦しそうな表情を浮かべる。
「何故、そんな結論になるんだよ…それは、どう考えても間違ってる」
奈流芳一以では、千子小狐の兄になる事は出来ない。
当たり前だ、血など繋がっていない、戸籍上ですら、奈流芳一以と千子小狐は赤の他人である、それなのに、千子小狐は奈流芳一以と兄妹の契りを欲している。
「俺は…あいつの、千子正宗の代わりにはなれない」
断言する奈流芳一以。
だが、千子小狐は憐れな人間を見つめるかの様に微笑んだ。
「…ふふ、それは、…そうでしょうか?」
奈流芳一以の方を見ながら、彼女はゆっくりと手を伸ばす。
表情に浮かぶ顔は、一種の否定に苦しんでいる顔だった。
彼女はその表情の浮かびようから、理解している。
『千子正宗には成れない』
これを否定した事で、その表情を浮かべている、と言う事にだ。
それに奈流芳一以は気が付いていない様子だった。
彼の頬に手を添えて、宝物に触れるかの様に指先で頬をなぞった。
「…正直に申せば、私は貴方を恨んでいる」
それは単なる逆恨みだ。
彼女の表情は、十年越しに出会った復讐対象に対して怒りを抱く様な顔だった。
だが、その表情は長くは続かない、次第に、千子小狐の表情は柔らかく、慈愛に満ちた表情を浮かべて、ほんのりの頬が紅く点る。
初々しい、少女の様な表情を浮かべていた。
「それと同時に、幼心から培った恋慕もある」
奈流芳一以と千子正宗。
同じ道場に居た二人。
その間に割って入った思い出を持つ千子小狐。
二人の傍に居て、千子正宗には家族としての愛を抱き、奈流芳一以には、大切な人としての恋心を抱いた。
もしも、奈流芳一以が、千子正宗の意思を継ぐと選択すれば…。
「私の兄となり、私の夫となり、私と共にする」
妥協の提案にしては、魅力的な内容だった。
大切な人間が一緒になったのだ。
「そうすれば貴方は私の兄としてでも、夫としてでも」
もう片方の手を伸ばす。
「私から許される…いえ」
奈流芳一以の頬を両手から支える。
「私は、貴方を恨む心を忘れる」
奈流芳一以の脳裏に過る、不安と恐怖。
千子小狐に対する感情がそれだった。
同時に、彼女に抱く感情の全てが千子正宗の死に対して、千子小狐に恨まれていると思っているからだ。
だが、もしも彼女の要求を呑めば、今後、肉体を震わせる様な負の感情を、抱かれなくても良くなる。
奈流芳一以は、許される。
「そう、結局のところ、お兄さん」
今の彼女の表情は。
兄を慕い、兄を見殺しにした男を恨む顔では無い。
奈流芳一以を慕い、幼少期の頃から思い続けた少女としての顔でも無い。
「私は、貴方を恨みたくはないのです」
その表情は。
唯一人の女性として。
奈流芳一以を許したいと言う気持ちに溢れていた。
「それとも…」
再び彼女は顔色を変える。
人相が変化すると、彼女の雰囲気もまた別のモノへと変わっていた。
奈流芳一以が良く知る、幼馴染としての表面を保つ、千子小狐の表情へと変えたのだ。
彼女は、表情を曇らせていた。
顔を歪ませて、必死な表情で奈流芳一以を見ている。
「…るかくん、ねぇ…お兄ちゃんを、どうして?」
一筋の涙が、千子小狐の瞳から流れていく。
一人の兄を失った悲しみが、奈流芳一以の心を強く蝕んでいく。
「るかくん、るかくん…お兄ちゃん、返してよぉ…」
何度も何度も奈流芳一以に懇願する千子小狐。
脳内で罪悪感が浮かび上がり、罪の意識に耐え切れなくなった奈流芳一以は思わず声を荒げた。
「やめろッ!」
店内では、奈流芳一以の声が良く響いた。
他の店員が、奈流芳一以たちの方を見て驚いた表情を浮かべている。
彼らにとっては、もしかすれば、別れ話をしているのではないのかと、想っているのかも知れない。
「そうです、それですよ、お兄さん」
再び表情を変える千子小狐。
「その罪悪感がある限り、貴方は永遠に許されない」
奈流芳一以の罪の意識を刺激させる。
奈流芳一以は永遠に、この心の傷を背負い続けなければならない事を強調させる。
「私だけが…千子正宗に近い血縁の私だけが」
けれど、その心の傷を取り除ける人物が一人だけ、千子小狐が、其処に居る。
「貴方を許す事が出来る」
彼女の言葉一つだけで、奈流芳一以は許されるだろう。
「…罪を抱く事なんて、生きる上では苦しいだけでしょう?」
千子小狐の魔性が、奈流芳一以を虜にする。
彼女の唇から、その喉から、声から聞こえて来る言葉。
それが、奈流芳一以の心を狂わせる。
「贖罪を行い続ける人生だなんて…面倒臭いでしょう?」
それこそ、千変万化の狐の如く、言葉巧みに相手を操れる様に。
「私はそれを許します、貴方の全てを赦し、愛します」
罪から逃れる選択肢を作り上げて、其処に誘導する。
「それが罪からの逃避であると、偽善の心が働くのであれば…」
それが、彼女の培った技術の一端だった。
「…堕落して下さい、身も心も全て墜として…」
彼女の笑みは狂気を浮かべている。
奈流芳一以の精神状態は歪み始めていた。
彼女の言葉が全てが正しいとすら認識してしまっている。
それでも、その要求を受け入れてはならないと思っていた。
だからこそ…奈流芳一以は、何が正しい判断であるのか分からなくなっていた。
「全ては、私の元に…」
最後まで言葉を口にする事は無かった。
過酷な精神状態となっていた奈流芳一以。
しかし、それも長くは続かなかった。
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