3 タコ糸
「さて、最初の仕事の舞台はここ!」
遠野は両手を腰に当てて通路の真ん中に仁王立ちした。わくわくが押さえられないと言った顔だ。
「ここ、ですか」
犬丸は荷物を持たされている。遠野のマンションから持ってきた紙袋はそこそこ重量がある。
二人は東京駅に来ていた。早朝だが、スーツケースを引いたサラリーマンらしき人や、一晩遊んで家に帰る途中らしき若者がちらほら歩いていた。
「駅で勝手な事して怒られませんか?」
犬丸はきょろきょろと見回して駅員の姿をさがそうとする。
「ばれたら怒られるだろうね。まあ、殺人に比べれば軽微な悪戯だね。さっさと袋の中身を出して」
犬丸は通路の壁際に行って紙袋の中身を出す。なんらかのスプレー缶、折り畳み式の小さな脚立、太めのタコ糸、壁掛けフック、両面テープ、ビデオカメラ、自作らしき大判のポスターが数十枚、関係者と書かれたビブス。
「あそこにある監視カメラの目をふさぐよ。そのスプレーをレンズにかければナチュラルな経年劣化で曇ったレンズみたいな効果が得られる。まるですりガラス越しに映像を見てるみたいな感じになるから、後でその記録映像を見返しても私たちの足が着くことはないよ」
「わかりましたよ」
犬山はビブスを着て、脚立を組み立て、自分の顔が画角に入らないように注意しながら念入りに監視カメラのレンズにスプレーを吹きかけた。その間に遠野もビブスを着て、通路の両側の壁にポスターを貼り始める。
ちなみに今日も彼女は、昨日のパーカーの色違いで、グレーのオーバーサイズのパーカーにスキニージーンズといういで立ちだ。フードをかぶっているが、不審者感というよりは、ゆるいファッションの範疇のおしゃれみたいな雰囲気が出ていて憎めない。ちなみに犬丸は昨日と同じ服、大学に行くための無地のシャツにパンツという、どこにでもいそうな、ファッションセンスで言うと平均どんぴしゃりくらいの恰好である。
ポスターには『足元注意!ここに糸が張ってあります!跨いでいってください!』と、黄色と黒の目立つフォントで書かれている。
犬丸は脚立を片付けると、フックを通路の両側の壁に取り付け、そこにピンと張ったタコ糸を渡した。10メートル先からも見えるレベルの太めな糸で、丁寧に黄色と黒の着色まで施されている。遠野は、ここにカメラをセットして、歩きスマホをしているスマホ中毒者たちが転ぶところを撮ろうとしているのだそうだ。しかし、こんなに目立つ糸を張って、丁寧にポスターまで貼って目立たせたら誰も引っかからないんじゃないかと犬丸は思った。
カメラをセットし終えると、その通路に入る曲がり角のところまで移動し、この先に糸が張ってあるので、車いすや松葉杖の人がその通路を使わないように警告するポスターを貼った。
遠野がロケ―ションを選んだこだわりの一つに、スマホ中毒者がよく使う道であり、一日を通して人通りが多すぎもせず少なすぎもせず、途切れにくい、また、点字ブロックが擦り切れすぎて、おそらく視覚障害者が避けそうな道であることなどだった。犯罪者のくせに無駄に思いやり溢れる設計がされていて、どこかぞっとする。
「さて、マンションに戻ってカメラのライブ映像を見るとしようか」
「僕、今日も講義があるんですけど」
「勝手にやらせとけば?」
動き始めたばかりの地下鉄乗り場へと向かう。向かう途中で、スマホのモバイルバッテリーのレンタルポッドがあり、遠野は忌々しそうにそれを蹴りつけ、次の瞬間には何事もなかったかのような顔で平然と歩いて行った。
地下鉄の中では時間のせいもあってか、寝ている人と、スマホをいじっている人が半々くらいいた。遠野がスマホをいじっている人に向かっていきそうだったので、犬丸はその腕を掴んで止める。
「トラブルは駄目ですよ、電車の中は逃げ場ありませんし」
「ずいぶん打算的な考え方をするようになってきたね。犯罪者レベルが上がったか?」
「なんですか犯罪者レベルって。まさかとは思いますけど、いつもスマホをいじる人を見るたびに僕にやったみたいな破壊行動をしてるんですか?」
「まさか会う人全員にそんなことしてるわけないでしょ。君はもっと自分に自信を持った方がいいよ」
「なんの話ですか」
「とにかく安心してよ。今そこで寝てる人にちょっとばかりちょっかいをかけるだけだからさ」
「それをトラブルって言うんですよ」
遠野は犬丸の手をほどいて、近くの席で寝ているサラリーマンらしき中年の男の、だらりとさがった手に掴まれているスマホをひょいと抜き取った。破壊しないかどうかハラハラしながら犬丸が見守っていると、遠野は自らの口の中からいつ噛み始めたのかわからないチューインガムを取り出し、小さくちぎったそれを、すばやくスマホの充電ケーブルの差し込み口に詰め込んだ。そして男に再び握らせる。これで彼はスマホの充電ができなくなったというわけだ。
小さく両手でピースサインを作りながら犬丸のところに戻って来る。それがあまりに無邪気な笑顔だったので、つられて犬丸も苦笑のように笑みを漏らしてしまう。なんだか、友達とちょっと悪いいたずらをして、その秘密を共有しあっているときのような妙な一体感と親密さを感じた。
目的の駅に着くまで、何回か車両を変え、何人かの寝ている人のスマホにいたずらを仕込んだ。
一度、ガムを詰めたスマホを手の中に戻そうとしたときに、持ち主が起きてしまい、怪訝な顔を向けたので、遠野は笑顔で、「これ、落としましたよ」と言った。
📱 📱 📱
「よく地図アプリに頼らずにスムーズに乗り換えられますね」
「東京育ちだし。地下地上問わずほとんどの駅の場所は頭に入ってるよ。ちょっと覚えようとすればすぐなのに、人々はそんな些細なことまでスマホに頼りっきりだ。スマホを使って調べればすぐにわかることは覚えなくていい、覚えなくてもいいことは極力覚えたくないって人が多いけれど、そこまでして節約した脳のリソースは一体どんな高尚な知識を覚えるために使われているんだろうね?」
「……さぁ」
「怠惰だよ、まったく。技術が発展すればするほど、頭を使うのはその技術を生み出す最先端の一握りの人に限られて、それ以外はみんなただ便利さに溺れて怠惰になるばっかりだ。技術を消費するんじゃない、技術に消費される側になっているということに多くの人が気付いていない」
そんなことを喋っている間にマンションに到着した。部屋に入ると、遠野はまっさきにパソコンの電源を入れ、カメラがとらえたリアルタイムの映像を画面いっぱいに映し出した。そしてそのモニターをリビングのローテーブルの上にセットする。冷蔵庫からいちごミルクのペットボトルを二本取り出してきて、ソファーに座った。カーテンを閉め、朝っぱらからホームシアターで映画鑑賞でも始めようかというような雰囲気である。犬丸も遠野の横のソファーに腰掛ける。
画面端からさっそく歩きスマホをしながら歩くサラリーマンが現れる。
「おっ、引っかかるか?引っかかるのか?」
だんだんサラリーマンは糸に近づいてくる。スマホから視線を外す気配はない。あと3メートル、2メートル……。犬丸は自分がモニターを食い入るように見ていることに気付く。心臓がドキドキして、同時にワクワクしている。
果たしてサラリーマンは引っかかった。膝の少し下あたりに張られた糸につまずいてふらつき、つんのめるようにして前に倒れる。その倒れ方があまりに滑稽だったので思わず二人は顔を見合わせる。
「ハハハ!あいつ、コケてもスマホを手放さなかった!」
遠野は膝を自分の膝をバンバン叩いて笑い転げた。モニターにはまた通行人が現れる。その人もまた、自分のスマホに夢中で、首をひねりながら立ち上がってスーツの汚れを払っているサラリーマンにも、目立つポスターにも気づいていない。
「いいぞ!そのまま歩いてけ!」
その通行人もまた面白いほど気持ちよく引っかかって転ぶ。その人が立ち上がる前にまた通行人がやってくる。さすがに目の前で転んだ人を見て警戒したのか、その人は糸をまたいで行った。
「ああ~、だめかぁ~」
悔し気に遠野はぼやく。通勤ラッシュが始まるのか、見る間に通行量は増えていく。まじめな顔をした社会人たちが次々に滑稽な転び方をしていくのを見て二人は笑い転げ、糸に気付いて跨ぐ人がいれば悔しがった。まるでスポーツ観戦をしているかのような興奮だった。
「コノエさん、賭けをしませんか?この糸が撤去されるまでに、連続何人の人が引っかかって転ぶか」
「いいよ。負けた方は今日の昼食おごりで」
「じゃあ僕は5人で」
「5人?いやいや、10人は行くでしょ」
「そうですかね」
見ていると、引っかかって転んだあとに立ち上がった人がスマホを構えて糸の撮影をしているのが見受けられた。
「撮影してるあんたを撮影してるのが私たちってわけ」
遠野はケタケタと笑った。
「次の人が転べば5人ですよ。あ、転んだ!きれいな受け身」
「でも、次の人も転んだ。これで6人だ。君の賭けは負けだね。あっ、あーあ、跨いじゃった……」
ワイワイ騒ぎながら見ていると、一時間もしないうちに駅員たちがやってきて糸を撤去していった。
「結局、記録は6人でしたね」
「どっちも当たらずだね。お昼にしようか」
熱中しすぎて体がじんわりと汗ばんでいる。遠野は冷蔵庫を開けた。鮮やかなみずみずしい野菜をいくつか取り出す。
「料理してくれるんですか」
「うん。ラタトゥイユにしようかな」
犬丸はカーテンを開けた。空は青く晴れ渡って、白い雲が浮いていた。部屋に日光が差し込む。よく笑った後で、気分はすがすがしく、体も心持軽いような気さえする。遠野は手慣れた手つきで野菜を包丁で切っていく。細かく、リズミカルなその音を聞きながら、犬丸はなんだか夢でも見ているかのような感覚をぼんやりと感じた。
「僕、今日中には自分のアパートに戻りますよ」
「入れないんじゃないの?」
「パソコンを貸してもらえれば、一時的にロックを解除することはできます。革命計画とやら、けっこう楽しかったですし、いろいろあったけどやっぱりやってよかったなって思います」
「じゃあ、帰っちゃうんだ」
遠野の白くて長い指が洗いたての真っ赤なパプリカの表面をなぞる。透明な水滴が光を浴びてきらりと光って滑り落ちていく。
「いつまでもここにいるわけにはいきませんし、コノエさんとの約束は、革命活動に一度協力することでしたよね。これで貸し借りは特に無くなりましたし」
「もう無くなった?」
「そうですけど。なにかまだありましたっけ」
「寂しいことを言わないでよ。まだあるでしょ?私たちのつながり」
遠野は包丁とパプリカを持ったままアイランドキッチンから離れて犬丸の元へ歩いてくる。
犬丸はその手元を見てソファーの上で少し身構える。
「いっしょにスマホを壊した仲でしょう?いっしょにこの世からスマホというスマホを抹殺抹消してやると誓ったのは嘘だったの?計画はまだ始まったばっかだよ。まだまだ犬井君に手伝ってもらってやりたいこと、いっぱいあるんだから」
遠野はソファーに上って、犬丸を押し倒すかのように迫る。
「ちょ、あの、」
包丁の背で喉元をつぅとなでられる。犬丸の頬に、濡れたパプリカが押し当てられる。冷たさに体が強張る。遠野の目は細く、狂気をはらんだその眼光にぞっとする。自分には到底太刀打ちできない肉食獣と対峙しているかのようだった。
「い、いや、」
「何?」
遠野は穏やかな声のまま聞く。首のあたりで遠野が包丁の握りを手の中でもてあそんでいるのがわかる。今、包丁の刃がどの向きを向いているのかわからない。パプリカが頬から首のほうへ肌の上を移動させられていく。鳥肌が立つ。
「ぼ、僕は、」
声が裏返った。
「ん?」
遠野が耳を犬丸の口元に近づけてくる。かすかな香水の匂いがする。
「……犬丸です」
「そう」
遠野はソファーから下りて立ち上がると、すたすたとキッチンの方へ戻っていった。犬丸は首を両手で必死にさすった。まだ鳥肌が立っていた。
「ま、着替えとかもないことだし、一回くらいアパートに戻ってみてもいいかもしれないね。でも、計画を履行するにあたってはメンバーがいっしょにいたほうが何かと都合がいいし、君を頼りにしてるんだ。また戻ってきてくれるよね」
遠野は木製のまな板の上でパプリカを半分に切った。
「……はい」
犬丸は頷いた。
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