六年目(2)

 日曜日の正午過ぎ、清水に電話を掛けた。

 座布団と冷たい麦茶、それにうちわを用意しておく。六月も半ばを過ぎて、夏らしい気温になってきた。彼女と話せば更に暑くなるから、電話の際は涼む為の道具が必要だった。

 座布団を床に置き、その上であぐらを掻く。右手で電話を持つので、麦茶のコップは左手側へ。うちわは既に左手に持っている。今はまだ弱めに、温み出す空気を扇いでおく。

 スタンバイオーケー。いざ電話だ。


『――あ、播上。元気にしてた?』

 彼女の声が聞こえてくる。

最近じゃ耳にする度に懐かしくて、無性に胸が熱くなる声だ。

 俺は久し振り、と言いたいのをどうにか堪えた。時間的にはたったの一週間ぶり、懐かしいと感じるのも妙なものだ。四月からずっと顔を合わせていないから、彼女が恋しくて仕方がない。

「お蔭様で。清水は元気か?」

 そう問い返せば、電話の向こうで彼女が笑った。

『うん、私も。特に変わったこともないよ』

 言葉の通り、四月以降の清水に大きな変化は見受けられなかった。変わりのないのはいいことだ。会えない寂しさが多少は紛れる。

『仕事の方はどう? 上手くいってる?』

 続けて清水が尋ねてきた。

「まあまあだな。特に失敗はしてないが、成長してるってほどでもない」

『そっか。初めのうちはそんなものだよね』

「ほぼ一からの出直しに近いからな」

 俺は溜息をつく。


 五年間のサラリーマン経験も、現状ではなかなか活かしどころが見つからなかった。

 今の仕事に必要なのはとにもかくにも場数を踏むことだ。そういう時期だとわかっているから、焦ったところでどうしようもない。

 だから、気に掛けてくれる相手がいるのはありがたい。

 彼女がいてくれれば、俺はこの先何があっても潰れてしまうことなどないだろう。


「今は仕事着も似合ってないって、母さんにも言われてる」

 昨日の晩、店でのやり取りを思い出してぼやいてみる。

 すると清水は興味深げに尋ねてきた。

『仕事着ってどんなの着てるの?』

「作務衣」

『そうなんだ! 見てみたいな、播上の作務衣着てるとこ!』

 たちまち意外なくらいの勢いで食いつかれて、こっちは慌てた。

「見せられるほどのものじゃないよ……似合ってないんだって」

『それも初めのうちだけでしょ? そういうところも見ておきたいなあ、駄目?』

「せめてもうちょっと、似合うようになってからがいい」

 懇願しつつ、喉の渇きと室温の上昇を感じ取る。

 ひとまず麦茶を一口飲んだ。コップはびっしりと汗を掻いている。いくらか気分はすっとしたが、頬は熱い。

『じゃあ、次に会うまで似合うようになってて』

 俺の気も知らず、彼女はふふっと笑い声を立てた。

 そして弾んだ口調のまま続ける。

『ところで、来月の連休って暇?』

「来月?」


 七月の連休と言うと、海の日あたりか。

 うちの店には暦通りの連休なんて関係ないものの――いや、なくはない。連休中は客足が伸びる、言わば書き入れ時だ。


 どう答えようかをぼんやり考えていたら、

『そっちに行ってもいい?』

 不意を突くように問われて、一瞬戸惑う。

「え? 来てくれるのか?」

『うん。そろそろ播上の顔も見に行きたいからね』

 俺は答えに詰まった。

 何せ彼女との距離は三百キロ超、車なら片道約六時間だ。そうそう気軽に会える近さじゃない。

『お盆は私も実家に帰るから、空いてるのは来月の連休くらいなんだ。行ってもいい?』

 それでも、清水は彼女らしい思い切りのよさで決めてしまったようだ。

『あ、迷惑なら遠慮せずに言ってね。播上の都合のいい時にするよ』

「都合なんていくらでもつける」

 結局、俺は勢い込んで答えた。

「ただ知ってるだろうけど、俺、夕方からは店がある。せっかく来てもらっても、ずっと一緒にはいられないかもしれない。それでもいいのか?」

 本当は、彼女に会いたい。今すぐにでも。

 だが、数時間会うだけでは確実に足りない。ほんのちょっと会うだけではかえって切なさが募るだけかもしれない、そんな不安もなくはない。

『うん、わかってる。ちょっとでも会えたらいいと思って』

「いいのか? ちょっとだけで」

『本当はよくないけど……朝出て、午前中にそっち着くようにするから。それならお店開くまで会えるよね?』

 その物言いから俺はあることを察して、思わず聞き返した。

「清水、まさか車で来る気じゃないよな」

 案の定、清水は即答してきた。

『うん。車で行くつもり』

「冗談だろ? 片道六時間掛かるんだぞ。一人で車の運転はさせられない」

『六時間なんてどうってことないよ』

 相変わらず楽天的だと言うべきか、無茶だと言うべきか。思わず頭を抱えたくなった。

「駄目だ、何かあったらどうする。ちゃんと公共交通機関で来てくれ」

『播上、心配しすぎ。大丈夫だってば』

「心配にしすぎも何もない」

『ちゃんと安全運転で行くから。私の運転、そんなに下手じゃないでしょ?』

 笑いつつも、頑として俺の懸念を撥ねつけてくる。


 運転が上手いかどうかなんて関係なく、事故の起こる時は得てしてドライバーに何の非がなくても起こるものだというのに。

 心配で心配でしょうがなくなるから、本当は違う手段で来て欲しい。


『それに車で行った方が時間の自由が利くじゃない。ただでさえ播上の忙しいところに会いに行くんだし、ぱっと行ってぱっと帰れる方がいいかなって思うんだよね』

 清水は清水で、確固たる思いがあるようだ。全く譲ろうとしない。

 そこまで言うならと、渋々釘を刺しておく。

「しょうがないな。来るなら慌てず急がず、ゆっくり来てくれよ」

『任せといて!』

「わかってると思うけど、くれぐれも安全運転でな」

『うん。私に何かあったら、播上がすっごく心配しちゃうもんね。そう考えたら安全運転しか出来ないよ』

 よくわかっているじゃないか。

 その通りだ。清水にもしものことがあったら、なんて想像するのさえ嫌だ。だから必ず無事に来てもらわなければならない。

 当日はいろんな意味でそわそわするだろうな、とそこだけは容易に想像がついた。


 俺はまた麦茶を一口飲んだ。

 それからうちわに持ち替えて、扇ぎながら話を継ぐ。

「こんなに早く会えるなんて、思ってなかった」

 お互いに仕事もあるし、距離もあるし、しばらくは会えないだろうと踏んでいた。だからこそ毎日電話が出来なくても、すれ違いのメール交換になっても、ぐっと我慢してきたつもりだった。

『そう? 私はこんなものだと思ってたけど』

 にもかかわらず、清水の口調は軽い。

『七月は播上のお誕生日もあるしね。そろそろ会いに行きたかったんだ』

「あ……それでか。別に気を遣わなくても」

『遣ってないよ。会いたいから会いに行くだけだもん』

 以前と変わらぬ朗らかさで、そう言ってくれた。


 どちらかと言うと、俺に気を遣わせまいとしてそんな言い方をしているのかもしれない。

 仕事を辞めたのも距離が開いたのも、そして彼女を待たせているのも、全てにおいて俺の都合だ。自分のことで手一杯な俺を、今も清水の細やかさと優しさが支えてくれている。

 俺は幸せ者だ。こんないい女に想われてて。


「清水、ありがとう」

 顔が見えないから、感謝を口にするのもそう苦労しなかった。

 清水がまた笑う。

『お礼もいいよ。私が会いたいだけだから』

 うちわで送る風は温い。汗が滲んできた。

『私だって、播上のこと考えてるんだよ。毎日ちゃんと考えてる』

 そんな時に限って、彼女は可愛いことを言う。

 こっちがどぎまぎしたくなるような言葉を、自分でも照れながら続けてくる。

『お弁当を作る時にね、いつも考えてるの。いつか播上に美味しいって言ってもらいたいなとか、播上に食べてもらえる日が楽しみだなとか……それは今に始まったことじゃなくて、ずっとずっと前からそうだったんだけど。いつか播上にも私のことを認めてもらえたらって、お弁当を作る度に考えてた』

 いつだったか、彼女自身が言っていた。

 意地になって作り続けた日もあった、と。

 その原動力が何によるものだったのか、今ならわかる。自惚れでもなく。

『気がつかなかったな。毎日のように播上のことを思っていたのに、理解する余裕まではなかった。お蔭で私、自分の気持ちすら知らないままだった』

 彼女ももうわかっているらしい。

 次第に小さくなる声で、でもはっきりと語る。

『播上がいたからお弁当作りだって続いたし、今日までやってこれたのにね。何にもないような毎日でも、播上といる時間だけはすごく楽しかったのに。肝心なことには土壇場まで気づけなかったんだから、困ったものだよね』

 苦笑いの顔が浮かんでみえるような声に、俺もつられて笑った。

 本当に困ったものだ、お蔭でこっちは随分とやきもきさせられた。

『毎日、会いたくなるんだ。本当は七月まで待っていられないくらい……かな』


 電話の向こうで彼女は今も、俺を思ってくれている。

 幸せなことだが同時に歯痒く感じた。声はこんなに近くに聞こえる、なのに彼女までは三百キロ以上の距離がある。

 メールよりは電話の方がいい。

 でも、電話以上に会って話した方がいい。

 そんな当たり前のことを考えて、それから実感する。


 どんなに短くても、ほんのちょっとだけでもいいから、やっぱり会いたい。


「……清水」

 俺がそっと呼びかけると、電話の向こうで微かな動揺が聞こえた。

『な、何? ちょっと変だったかな、こういうこと言うの』

 清水はなぜか慌てたようだ。

 それで俺は苦笑しながら、素直に本音を打ち明ける。

「変じゃない。ただ、どうして会ってからにしてくれなかったのか、とは思った」

『だってそんなの、面と向かっては言えないから』

 そこはどうにか頑張ってみて欲しかった。そんな話を電話でされたら、俺だって七月まで待っていられなくなる。

 これから一ヶ月間、ずっとそわそわして過ごすことになりそうだった。


 その予感はものの見事に的中した。

 気が逸ったまま一ヶ月が過ぎ、待ちに待った七月の連休は、母さんのからかいの言葉から始まった。

「――正ちゃんったらそわそわしちゃって」

 そう言われても仕方がないと自分でも思う。

 昨日も店に出て、床に就いたのはいつものように午前二時過ぎ。だというのに俺は朝の四時から起き出して、手早く身支度も済ませた。正直あまり眠れなかった。


 だが母さんだって俺と同じ時間に起きてきて、既に化粧まで終えている。

 そして清水を迎えに行こうとする俺に、やたらしつこく促してくる。

「せっかくだからうちにも寄っていただきなさいよ」

「向こうがいいって言ってくれたら、そうするよ」

 俺は気乗りもせずに答える。

 清水を家に招くのはいいが、母さんが大いに騒ぐのは目に見えている。こんな騒々しい家に、遠路はるばる来てくれる彼女を連れてくるのは抵抗がある。余計くたびれるだろう。

 それに久し振りに会えるんだから、二人きりで過ごしたいというのも、ものすごくある。

「車運転してくるんだから、彼女、疲れてるだろうし。無理強いはしないつもりでいるよ」

 そう付け足しつつも、彼女の取るであろう反応は当然わかり切っている。


 うちの親が会いたがっていると伝えれば、清水なら『疲れてるから無理、会いたくない』なんて言うはずがない。

 むしろ秘書課らしい気配りを大いに発揮し、無口な父さんとうるさい母さんに対しても愛想よく挨拶をしてくれるだろう。彼女の朗らかさは二人の心を掴むだろうし、そうなったら母さんがはしゃいで話が長くなる。

 俺としてはそういう意味でも無理をさせたくなかった。


 母さんの方は、清水に会ってみたくて堪らないらしい。

「遠いところからわざわざ会いに来てくれるなんていい子じゃない」

「まあ、ね」

「お母さんのことも好きになってもらえるといいなあ。どうご挨拶しようかしら」

 だから、連れてくると決まったわけじゃないのに。母さんの今の口ぶりじゃ、家に来てもらうこと確定みたいじゃないか。

「いきなりお名前を呼んじゃ失礼よね。正ちゃんはそのお嬢さんをどう呼んでるの?」

「清水って、名字で」

「じゃあお母さんも『清水さん』がいいかしらね。嬉しいわ、娘が出来るみたい!」

 駄目だ、完璧に浮かれている。母さんは全く俺のことなど言えないと思う。

 この浮かれようをむげにするのも、不本意ながら気が引ける。

 そういえば、父さんはどうなんだろう。普段通りの時刻に起きてきた父さんは、今は庭の水撒きをしている。それ自体は別段珍しい行動でもなかったが、いつもよりずっと時間を掛けている。

 その辺りを見るに――。

「ところで、清水さんはこっちには何日くらいいらっしゃるの?」

「一泊二日だって」

「そう。うちに泊まってもらえたらよかったんでしょうけどね。そしたらうーんとおもてなししたのに」

 母さんはそこで残念そうに溜息をつく。


 実は俺も同じことを考えた。

 考えはしたが、うちは夕方から店を開けるから、それ以降は彼女を一人で放ったらかしにすることになってしまう。まさか店じまいまで起きて待っていてもらうわけにもいかないし、先に寝ててもらうにしても、うちに一人きりで置いておくのは悪い。だから今回は断念した。

 彼女は駅前のビジネスホテルに部屋を取ったそうだ。

 そこに一泊して、明日の昼頃にこっちを発つと言っていた。


 そして今日は、そろそろ着く頃だ。七時に入ったメールによれば、このペースならあと三時間程度で着く、とのことだった。

 こちらへ着いたら駅前で落ち合う約束をした。清水は土地勘がないから俺が迎えに出る手はずだ。

 その後は、彼女さえよければこの街の名所でもいくつか案内しようと思っている。


「次はお店の休みの日に来ていただいたら?」

 出かけようと玄関で靴を履く俺に、母さんは食い下がるように声をかけてくる。

「うん。彼女も仕事があるから、平日はちょっと難しいけど」

「年末年始ならまるまる空いてるじゃない」

「そうだけど。向こうにだって都合はあるだろ」

 そんな母さんを宥めつつ、今日ではなくても、早いうちに一度会わせとかないとまずいなと俺は思う。じゃないとずっとうるさく言われることだろう。

 母さんを振り切って家を出ると、庭で水を撒く父さんを見かけた。

「行ってきます」

 そう呼びかけたら、こちらを向いて低く応じてきた。

「気をつけてな」

 父さんの周囲では、庭中の緑という緑が水滴をまとってきらきらしている。今日の我が家は何もかもが雁首揃えて浮ついているらしい。

 俺は父さんの顔を盗み見て、表情の奇妙な硬さからおおよその内心を悟る。


 この浮かれようをむげにするのも、正直に言えば気が引けた。

 せっかく久々に会えるのに、独り占めってわけにはいかないみたいだ。

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