五年目(8)
三月三十一日。時刻は午後九時を回ったところ。
俺は五年目にして初めて、清水の車に乗せてもらった。
彼女の車はいわゆるコンパクトカーという奴だった。
女の子の車にはどうしても華やかなイメージがあったのだが、彼女の車の内装は実にシンプルだった。せいぜいシートベルトカバーが黄色い熊なくらいで、あとはおとなしいものだ。
「もっと可愛くしてるのかと思ってた」
助手席のシートベルトを締めながら、率直な感想を口にする。
運転席では清水が笑う。
「そう? どんなの想像してたの、播上」
「弁当箱がいつも可愛いから、車の中も同じようにしてるのかと」
「まあね、手を掛ける暇もあんまりないから、こんなものだよ」
ちらと俺の方を見て、それから彼女は車を発進させた。
窓の外の景色が流れ出す。三月の夜は暖かいと言うほどでもなく、街明かりは水滴に滲んでいた。
「それに可愛くするとお兄ちゃんがうるさいんだ。一番下のね」
ハンドルを握る清水の横顔が、その時不満げに歪んだ。
「仕事で来た時とか乗せてあげることもあるんだけどね。少女趣味だってしつこく突っついてくるから、そういうの置かないようにしてるの。自分だってもう三十のくせに、人の趣味にはとやかく言うんだから」
でもその口ぶりは、むしろ仲の良さそうな兄妹像を連想させた。
俺には兄弟がいないから、清水のそういう話が羨ましくなることもある。と言うか、こんなに可愛い妹のいる清水のお兄さん達が羨ましい。さすがにもう、お兄さんになりたいとは思わないものの。
改めて、俺は彼女を見やる。
初めてなのは車に乗せてもらったことだけではなく、彼女の私服を見たのもそうだった。
白いカーディガンにジーンズといういでたちの清水は、社内で会う時よりもずっと穏やかな表情をしていた。めかし込んだ装いではないようだったが、それがかえって色っぽく映った。シートに座る姿をちらちらと眺めてしまう。
ちなみに俺は飲み会帰りの格好のままで、あまりいい匂いはしない。しかもアルコールが入っている。彼女の車はシンプルな、いい香りがしていたが、俺の存在が全てをぶち壊しにしているような気もする。
心配になったので、一応尋ねてみた。
「俺、臭わないか?」
「別に気になるほどじゃないよ」
清水が答える。臭わないとは言わなかった。
「飲み会で、結構たくさん飲んだ?」
「まあ……多少はな。これから電車乗って帰るって言ってるのに、皆でお酌したがるし」
「そりゃそうだよ、今日の主役だもん」
彼女の言葉通り、俺は送別会の主役の一人だった。飲み会でそういう扱いをされたのはそれこそ新歓以来だ。この先の仕事や家業について聞かれ、励ましを貰い、お酌までされて、そして清水のことを突っ込まれて――自分が送られる側になってみて、初めてわかることもある。
「堀川くん、泣いてなかった?」
「え、何で知ってるんだ」
「だって、そういうタイプって感じするもの。実際泣いてたの?」
「泣いてた。感激屋みたいだからな、あいつ」
送別会の席を、堀川は一人で湿っぽくさせていた。俺が辞めるくらいで泣かなくてもいいのに、いかに俺に世話になったか、いかに感謝しているかをずるずるの声で喋り続けていた。大した世話もしていないのにオーバーな奴だと思う。
「どうせ明日にはけろりとしてるさ」
俺はぼやき、清水はくすくす笑う。
「その方がいいよ。いつまでも引きずられてちゃ、先輩としては気がかりでしょ?」
「そりゃそうだけど」
業務の引き継ぎも終えたし、立つ鳥として跡は濁さなかったつもりだ。
明日からは俺のいない総務課が、それでも平常通りに稼働していくだろう。
ふと、懐かしい思いに駆られる。
俺もかつて、誰かがいなくなった後の総務課で働いていたことがあった。
渋澤が異動になった後の総務課も、藤田さんが退社した後の総務課も、結局は特別な変化もなく業務が行われていった。送る側の気持ちは知っている。泣きはしなかったが、寂しい気持ちは確かにわかる。
そういえば、あの二人にも退社の話をしていない。忙しさにかまけて、渋澤とは年始の挨拶以来連絡を取っていなかった。藤田さんとは春先にハガキを貰って以来だ。いい機会だから、向こうへ戻ったら報告をしておこうと思う。
清水についても絶対聞かれるだろうから、ちゃんと言っておこうと思う。
車は夜の街並みを走る。
駅前通りへ近づくにつれ、その進みもゆっくりになってきた。フロントガラス越しに見える前方、テールライトが延々と連なって見える。どうも道が混んでいるらしい。信号が青になってものろのろと動いている。
「電車、何時発だっけ」
清水がそっと確かめてくる。
「二十二時ちょうど」
「そっか。間に合うとは思うんだけど、ちょっとぎりぎりかな」
彼女の視線がデジタル時計に留まる。
表示された時刻は午後九時二十分だ。
「別の道探そうかな。一本奥に入れば、もっと空いてると思う」
気遣わしげに言われて、俺もちょっと申し訳なくなる。
「いいよ、そのくらいなら走って駅まで行く」
「でも、それだと見送りにならないし、播上だってお酒入ってるし」
「いざとなったら走るよ。まだ余裕あるから、もう少し乗せててもらうけど」
間に合わないことはないと思う。もう駅前は目と鼻の先で、このまま行けばぎりぎりでも着くはずだ。心配は要らない。
「ここまで送ってもらえただけでも助かったよ、ありがとう」
念の為、前もって感謝を告げておく。
清水は困ったように微笑んだ。
「ううん。私も、少しでも一緒にいたかっただけだから。無理言ってごめんね」
「無理なんて……嬉しかった、本当に」
俺だって、少しでも一緒にいたかった。
これからしばらく会えなくなるから、少しでも長く、清水と一緒の時間を過ごしたかった。
ぎりぎりに着いてもいいから、出来るだけ長く。
「もし間に合わなかったら、始発で帰ればいいだけだ」
彼女を急かさないよう、困らせないように俺は言った。
はっと清水が目を瞠る。
その顔に向かって、笑った。
「気にするなよ。そしたらほら、もうちょっと一緒にいられるかもしれないし、俺はそれでも嬉しいからな」
多少の酔いもあってか、普段か言えないことも口をついて出る。
やがて彼女も笑ってくれた。
「播上ってやっぱり、優しいよね」
「そんなことない」
「あるよ。入社したばかりの頃とちっとも変わってないよ、播上は」
変わってないと言われると成長がないみたいで複雑だ。
俺は自分が優しい人間だとは思っていない。清水に対して優しいように見えるのだとすれば、それは同期としての同情心と、後に抱いた恋愛感情のせいだ。
でも、清水に対してはいつ何時も、いつまでも優しい人間でありたい。
「清水だって優しいよ」
俺は彼女の横顔に告げる。
車が少し動いてすぐにまた停まり、清水の視線がこちらへ戻ってくる。
目が合って、俺は胸が高鳴るのを感じながら告げた。
「お前がいたから、俺は五年間、潰れずにいられたんだと思う」
わずかな間の後に清水が、
「私もそうだよ」
吐息のような声で言った。
「播上がいてくれたから、私、ずっと頑張れた。播上がいてくれたら、それだけでいいって思ってた」
信号の赤が車内に射し込む。そのせいか、彼女の顔も赤らんで見える。
きっと俺も同じだろう。三月の夜には場違いな赤さでいるはずだ。
「だから、これからは播上のことを毎日考えながら、乗り切るよ。一日だって忘れたりしないから」
結ばれていた視線がその時解けた。
面映そうな彼女がまた正面を向き、ゆっくりと車が動く。
俺は運転席を眺めて、彼女を見つめながらいろんなことを思った。
今日までの五年間で思ってきた、全てのことを思い返した。
それらの思い出が、清水にまつわる何もかもが、今日まで俺を動かし、そして夢見た未来まで運んでくれる。
「清水は優しいし、それに、すごくいい女だ」
酔いに任せて、思いの丈を言ってやった。
フロントガラスを注視する清水の横顔が、途端に緊張で強張った。
「播上、相当酔っ払ってるでしょ」
「そうらしい」
「大丈夫? 素面に戻ってから、どうしてあんなこと言ったんだろうって後悔しない?」
さっきの言葉はまるっきりスルーして、清水はそんな心配を始める。話を逸らそうとしているのかもしれない。
「明日からはしばらくお前と会えなくなるし、今ならどんな恥ずかしいことを言っても平気だ」
顔を合わせられないという事態は当分免れることが出来る。気恥ずかしさも、次に会う頃にはいくらか紛れているだろう。
それどころか、もっとすごいことを言いたくなっているかもしれない。
「なるほど。そういうことか、ずるいなあ」
彼女は唸り、それから目の端で俺を見る。
車はなかなか動かない。
エンジン音の狭間に深呼吸が聞こえる。
清水の表情がきゅっと引き締まって、意を決したのがわかった。
「播上」
「ん?」
「……播上も、すごく、いい男だよ」
言葉の端が照れたように笑っていた。
自分で言っておきながら、清水はくすぐったそうに目を伏せる。そのくせ信号だけはしっかり見ている。こっちを見てくれたらいいのに、と酔っ払った俺は思う。
だから、言ってみた。
「俺……やっぱ明日の朝までいようかな」
「えっ、だ、駄目だよそんなの、せっかく恥ずかしいこと言ったのに!」
「今ので帰りたくなくなった」
「駄目だってば、ほらもう着くよ! 駅見えたよ!」
慌てふためく清水に追い立てられるようにして、俺は駅前のロータリーで車を降りる。そのまま駅へ駆け込み、改札を潜った。
その時、午後九時四十五分。ぎりぎりで間に合った。
間に合わなくてもよかったのにな、とこっそり思ってみたりもする。
夜行列車の座席に着いた後、窓ガラスに映る自分の顔が見えた。
真っ暗なホームを背景に、酔っ払いが一人で、やたら幸せそうににやついていた。
清水は今頃、どんな顔をしているんだろう。今日までの五年間を思い出しているだろうか。それともついさっきの出来事を思い出して、やっぱりにやついているんだろうか。
そろそろ午後十時になる。
そしてもうじき、俺達の五年目が終わる。
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