五年目(6)

 翌日、いよいよ訪れた火曜日。

 昼の休憩に入ってすぐ、俺は秘書課まで清水を迎えに行った。彼女は昨日と同じように、机に向かって書類を片付けていた。

「清水、行こう」

 声を掛けると、彼女が頷く。

「うん」

 秘書課を出てきた清水は、心なしかそわそわした様子だった。

 弁当がそんなに楽しみなんだろうか。彼女らしい食いしん坊ぶりだな、とこっそり思う。


 俺は俺で、やはりどうしても落ち着かない。

 廊下を歩く足も自然と早くなっていたようだ。清水は俺の数歩後ろからついてきた。時々それを振り返り、気が逸っているのを自覚していた。


 混み合う食堂の隅で、俺達は並んで座った。

 そこで俺は、持参した弁当箱を彼女へ差し出す。清水の可愛いコレクションとは違い、俺の使う弁当箱はいかにも色気のない、アルマイトのつるりとしたやつだ。それを二つ持ってきた。

 中身は分量が違うだけで、品目は全く同じだ。

「今日も自信作?」

 彼女が楽しげに尋ねてきたから、当然胸を張っておく。

「もちろん、美味いよ」

 不味いはずがない。そこだけはめちゃくちゃ自信がある。

 それで清水はいそいそと蓋を開け、俺はその様子を隣から眺める。弁当の中身を一目見て、彼女がにんまりするのがわかった。どうやら見た目はお気に召したらしい。


 ちなみに本日のメニューはハンバーグ、これは以前好評だった照り焼きソースにした。

 それからうちの母さん推薦のほうれん草のオムレツ。栄養を考えて、とにかく野菜の入るメニューを心がけたつもりだ。

 同じ理由からアスパラのベーコン巻きも作った。それからコーンサラダも、これは甘党の彼女を意識した箸休めの一品。


「美味しそう!」

 清水はぱちぱち手を叩く。

 そういう仕種がまた可愛くて堪らず、ついつい声を立てて笑ってしまう。

 でも『美味しそう』は違うな。美味しいに決まっている。何せ俺が、清水の為に作った料理なんだから。

「だから、美味いって。食べてみれば?」

 俺が促すと、彼女は早速箸を取り、手を合わせた。

「そうする。いただきまーす」

「どうぞ」

 余程お腹が空いていたんだろう、清水が猛然と弁当を食べ始めた。食べながらいかにも幸せそうな顔をしている。見ていて飽きない。

 全てのおかずを一通りローテーションした後、ようやく彼女が息をついた。

「さっすが播上、とびきり美味しいよ」

「そっか。よかった」

 何だかんだ言っても、その言葉にはほっとした。どれだけ自信があろうとも、彼女からの称賛は欲しいものだった。それから俺も、ようやく自分の弁当に手をつけ始める。


 弁当の出来には自信があった。

 だが、食欲はあまりなかった。

 気分が落ち着かなくて、そわそわしていて、とてもじゃないが悠長に食事なんてしていられない。頭の中は一つの考えだけではち切れそうだった。

 いつ、彼女に切り出そうか。

 料理は言葉よりも雄弁だ、しかし言葉なしではその意味合いすら曖昧なままだ。はっきりと告げなくてはならないし、そうすべく脳内シミュレーションも重ねてきた。あとはタイミングだ。

 食べながら聞いてもらうのがいいか、それとも食べ終えて一息ついて方の方がいいか。俺は横目で清水をうかがいながら、そのタイミングを見計らっていた。お蔭でこっちの食事は全く進まない。


 だが、

「ところで、播上さあ」

 完全に箸の止まっていたところへ、清水の声が聞こえてきた。

「ん?」

 はっとして面を上げる。

 すぐに隣を見ると、彼女はおかしそうに少し笑った。それから首を傾げた。

「どうして私に、お弁当を作ってくる気になったの?」

 直球の質問だった。

 これだって予想の範囲内ではある。弁当のおかず交換は普通にしていたし、相手に料理を作ったことだってお互い、今までにも何度かあった。だが今日は弁当そのものを彼女に贈っている。初めてのことだし、彼女が疑問を抱くのも無理はない。


 ただ、ストレートに問われると動揺した。

 もうじきそれを、ちゃんと告げようと思っていたのに。

 どう答えようか、そのことすら一気に考えられなくなった。呼吸ごと何もかもをかき乱されて、俺は手元へ視線を落とす。ほとんど手のついていない弁当がある。彼女と、俺の為に作ったものだ。今日の日の為に用意をしてきたものだ。

 ためらってはいけない。

 今日でなければいけない。

 五年目の今日でなければ、これまでにもこれからもチャンスはない。


 無駄にはしない。今日までの用意、今日の為の決意、そして昼休みのこの時間。

「播上?」

 清水が、俺を呼んだ。

 俺は彼女の方は見ず、ああ、と短く答えた。

 それから賑々しい食堂に紛れるほどの、彼女の耳にだけ届く声量で、

「――清水」

 名前を呼び返した。

「何?」

 彼女の怪訝そうな声。深呼吸の後に語を継ぐ。

「俺、さ。清水には、早めに言っとこうと思ったんだけど」

 まず、事実を口にした。

「……俺、辞めるんだ。この仕事」

 その直後も、少し間を置いてからも、彼女は特に反応しなかった。


 昼の社員食堂はざわめきに満ちている。その中でここだけがやけに静かだ。ほんの短い間だが、お互い全く口を利かなかった。

 俺は続きの言葉を組み立てる為に。

 彼女は驚きのせいで、口が利けないようだった。

 驚かれるのは仕方ない。五年も勤め上げた職場を離れるなら、相応の理由があってしかるべきだ。そして俺には理由がある。


「年度末で辞めることになってる。辞表も出してきた」

 なるべく穏やかに打ち明けようと思った。

「ずっと迷ってたんだけどな。この仕事も楽しいし、悪くなかったけど」

 迷いと言うなら、それこそずっと前から迷っていた。

 この仕事に慣れる前から。入社してすぐの頃から。家業を継ぐ覚悟がなくて、父さんと母さんの積み上げてきたものを壊してしまうのが嫌で、今の仕事にしがみついてきた。辛いことがあっても、苦しい時があっても、俺にはこれしかないんだと言い聞かせてきた。

 でも、気が変わった。

「やっぱり……他にやりたいこともあったからさ」

 誤魔化すのは止めようと思った。自分の気持ちを。やりたいことを。小さな頃から抱き続けてきた夢を、誤魔化さずに叶えようと思った。

「仕事辞めて、店、継ぐつもりなんだ」

 その夢をはっきりと告げる。

 彼女にも共有してもらえたらいい。そしてこれからもずっと、一緒にいられたらいい。夢も願いも全て叶えたかった。

「清水にはいろいろ世話になっただろ? まだ皆には言ってないけど、お前には言っとこうと思って」

 そこまで言ってようやく、俺は清水の顔を見た。

 彼女はまだ驚いているのか、ぽかんと素の表情をしている。

「上には話通ってるけど、皆にはまだ黙っててくれ」

 そう言った時は、多分、ぎこちない笑顔になっていたと思う。

 直にそれも打ち消さなければならなくなったが――清水が、いつまで経っても黙っていたから。

 彼女の表情は硬かった。強張っていた。

 じっと向けてくる眼差しは鋭く、それでいて不安げにも見えた。知らなかったことを改めて思い知らされたような、愕然とした顔つきにも映る。

 彼女の内心を推し測るのは難しかったが、どちらにしても予想だにしない反応だった。

 待っているのも辛くなり、結局俺は尋ねてしまった。

「清水? 怒ってるのか?」

 すると彼女はかぶりを振った。事実、その時の表情は怒りの色には見えなかった。

 むしろ泣き出しそうに見えた。


 きゅっと結んだ唇が震えている。

 悲しげに眉尻が下がり、眉間には切なげな皺が寄る。

 いつもは朗らかな瞳が潤んで、今にも涙が零れ落ちそうだ。

 彼女のそんな顔を目にするのは、五年の付き合いでも初めてだった。

 俺は呆気なくうろたえた。清水は何かあっても泣くような性格とは思っていなかった。入社当初の一番辛そうな頃だって、仕事に追われていた頃だって、絶対にこんな顔はしなかった。

 負けず嫌いで気が強くて、でも気配りにも長けている清水が、こういう時に泣きそうになるなんて本当に予想がつかなかった。


 どうしよう、どうにかしなければ。

 俺が慌て出した時、彼女がやっと、動いた。

 隠すように置いていた紙袋、そこから何かを取り出した。

「播上、これ、あげる」

 グラシン紙に包まれた、これは、お菓子のようだ。

 俺が手を出せずにいれば、清水は弱々しく言い添えてくる。

「バレンタインデーのチョコ。少し、早いけど」

 今度は俺が驚かされた。

 二月十四日よりも少し早かったから、だけじゃない。

 彼女からチョコレートを貰ったことなんて、今まで一度もなかった。彼女は義理チョコを配らない主義だと聞いていたから、こちらから催促したこともない。義理で貰うくらいなら、別に貰わなくてもいいと思っていた。

 前例のない、催促だってしていない、初めてのバレンタインのチョコレート。

 彼女の細い手から、それを慎重に受け取る。

「開けてもいいのか?」

 俺が問うと確かに頷いてくれた。


 包みを解く。

 中から現れたのはチョコブラウニーだった。手作りなのだとすぐにわかった。しっとり、美味しそうな色をしている。

 すぐ隣にいる清水の横顔を窺い見た。

 彼女は何も言わない。いつもみたいに負けず嫌いの台詞さえ口にしない。

 俺は貰ったばかりのお菓子を一切れ掴んで頬張った。どっしりと重い生地は甘く、そしてほろ苦く、ほのかにブランデーの風味もしていた。

 その方が好みだと、前に俺が言ったから、だと思う。

 彼女も覚えていてくれた。俺と同じように、食べてもらう相手の好みを。

「美味しい」

 すぐに伝えた。

 だがこういう時、口下手なのが実に悔やまれた。


 たった一言だけでは伝えきれない想いが、胸のうちでふくらんでいた。

 この期に及んで、俺は清水の内心を読み誤っていたらしい。長い付き合いだから、五年の年月は伊達じゃないから、彼女の気持ちくらいわかっていると思っていた。彼女は俺をメシ友としか思っていなくて、それでも驚くほどの純粋な好意と友情を抱いてくれていて、この先も一緒にいたいと願っていて、一緒にいることに何の疑いも持っていない――俺の読みはこうだった。

 なのに、違った。肝心なところを外していた。

 俺の清水への想いが五年の間に変化したように、彼女の内心もまた移り変わっていたようだ。気づけなかったのは多分、彼女自身が気づいていなかったからなんだろう。

 どうして彼女は、初めてのチョコレートを作ってきてくれたのか。

 どうして彼女は、俺の言葉に泣きそうな顔をしているのか。

 思い知らされるまでにお互い、五年掛かった。


 喜びよりも強く、打ちのめされた気分になった。

 五年の付き合いは伊達じゃない、俺はその間、彼女に対してさまざまなことを思い、そして想ってきた。でも彼女の全ては見抜けなかった。肝心なところに今の今まで気づけなかった。

 清水だって恐らく同じだろう。彼女は俺のことをわかっていないに違いない。俺がどうして、この会社を辞める話をこういう形で切り出したのか。この後、何を告げようとしているのか。まだ知らないだろうし、予想も出来ていないはずだ。

 俺達にとっての五年は、全くもって短すぎた。

 五年ぽっちじゃちっとも足りない、これからもずっとずっと一緒にいたい。

 言いたいことはたくさんあった。たった一言では伝えきれないくらいたくさんあった。


 その時、夢から覚めた顔をして、清水がふと笑んだ。

「チョコのお返しに、連絡先教えて」

 涙が溢れ出さないよう、懸命に堪えている笑顔だった。

「お店、絶対行くから」

 震える声に胸が詰まる。

 そんな顔をさせる為に打ち明けたわけでも、弁当を作ってきたわけでもない。いつだって清水には幸せな、美味しそうな顔をしていて欲しかった。

「清水、お前さ」

 先の言葉には答えず、俺は彼女に呼びかけた。

「……何?」

 抑揚のない反応が心苦しく気が逸る。

「女将になる気、ない?」

 そのせいか俺も、いつになく重い物言いになった。

 少し気まずい。もっと軽く、器用に言いたかったのに。改まった告白は出来そうにないから、せめてするりと告げたかったのに。

「女将?」

 清水が寝惚けた声を上げた。知らない単語を発音してみたようにきょとんとしている。

 視線を彼女から外し、俺は告白を重ねる。

「今、すぐじゃないけど」

 俺は年度末でこの会社を辞める。

 故郷へ戻ったら今度は別の用意を終えて、必ず清水を迎えに来る。

 そう思って、続けた。

「……いつか、一緒に店、やれたらなって」

 およそスマートではない言い方になった。

 でも、そんなものは端から諦めておくべきだったのかもしれない。


 告白の後の待ち時間が、随分と長く感じられた。

 数分が過ぎた頃、深呼吸が聞こえて、彼女からの答えがあった。

「か、考えとく。前向きに」

 らしくもない裏返った声だった。

 隣へと視線を戻せば、清水の目も泳いでいた。ぎくしゃくと俺を見たものの、表情は硬く、前髪の下で眉を顰めている。

 口元は相変わらずきゅっと結ばれていて、だが頬はほんのり赤い。目が潤んでいるのはさっき、泣きそうになっていたからだろう。彼女の言う『前向きに』がどの程度の確率なのか、顔からは察しがつかなかった。

 わかるはずもない。


 あの清水でも、プロポーズの言葉を告げられる局面ではうろたえることがあるらしい。

 俺の不器用な告白でも、彼女をどぎまぎさせるくらいは出来るらしい。

 五年の付き合いだっていうのに、今ようやく知った。


 急に笑いが込み上げてきた。

 狼狽する清水が可愛かった。前々から可愛いのは知っていたが、新たな魅力を発見したみたいだ。とても嬉しかった。

 笑い出した俺を見て、清水もつられるように、その時ようやく笑ってくれた。

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