四年目(8)
小さな頃の夢だった。
誰かの為に料理がしたい。知らない人に、より多くの人達に美味しいと言ってもらいたい。
そしてその幸せを、他でもない彼女と共有したい。これは大人になってから、初めて抱いた夢だった。
『――私もね、小さな頃の播上と同じように思ってたよ』
不意に清水が、打ち明け話の口調で言った。
気恥ずかしさと甘えが入り混じった、少し幼い声だった。
「もしかして、清水も料理人になりたかったとか?」
『ううん』
彼女は、更に照れた様子で答える。
『私ね、子供の頃はずっと、お母さんになりたかったんだ』
「お母さん?」
『そう。うちのお母さんってすごいの。播上ほどじゃないけど、料理がとっても上手なんだ』
今まで知らなかった清水の一面が、聞こえる言葉の端々から覗く。
『前に話したけど、うちってお兄ちゃんが三人いたの。だから三人がいっぺんに食べ盛りを迎えた時期なんかは大変だったみたい。ご飯にしろおやつにしろ、一度にたくさん作っておかなきゃいけないから』
こういう時の彼女の話し方は、いかにも妹っぽいなと思う。
『でもね、お母さんは毎日ちゃんとご飯やおやつを用意してくれてたの。私がまだ幼稚園に通ってた頃は、お母さんがおやつを作るのを傍でじっと見てたなあ。お兄ちゃん達が帰ってくるのに合わせて小麦粉をふるって、ホットケーキやクレープを焼いたりして』
語られる思い出は温かい。
ごくありふれた家庭での、ごく普通の幸せがそこにある。一番近しい人の為に作られる料理。美味しいものがもたらす幸せが確かに存在している。
小さな頃の清水はどんな子だったんだろう。
四人兄弟の末っ子で、上には賑々しいお兄さん達がいて。
お母さんがおやつを作る姿を眺めながらお兄さんの帰りを待っていて――想像するだけで楽しげな、思い出だった。
『私にとって、お母さんの手は魔法の手だったの』
聞き覚えのある言葉がその時、口にされた。
『播上と一緒。もちろん、播上の方がうちのお母さんよりもっとすごいけど……』
懐かしそうな声で。
『あの頃はお母さんが、本当の魔法使いみたいに見えてた』
そういうことだったのか。
魔法の手。初めて告げられた時は脈絡のない、だがロマンチックな言葉に聞こえていた。込められた意味を知り、俺はちょっとだけ笑う。
そうか。お母さんの手、か。
「じゃあ俺の手は、清水のお母さんの手みたいなものなんだな」
『うん。私もいつかそうなりたい手だよ』
今の言葉を藤田さんが聞いたらばっさりやられるだろう。
――播上くん、これって脈なくない?
多分、そんなふうに言われるだろう。
脈がないのは今更の話だった。今の俺が、妥協のしようもない程度の男だっていうのもわかっている。それでも清水にとって、目標として位置していられることが幸せだとも思う。
彼女は料理を作る人間だ。俺と同じだ。
美味しいという言葉を、何よりも幸せに思うはずだ。
『小さな頃は、お母さんになりたいって思ってた』
俺の思案をよそに、清水はそこで溜息をついた。
『もっとも、これも昔の話だけどね。今はさすがに諦めてる』
「もったいないな、どうして?」
『だってお母さんって、一人じゃなれないでしょ?』
今度は乾いた笑いに聞こえた。
当たり前の話だが、さすがにどきっとさせられた。
『現実的な話になっちゃうけど、お父さんになってくれる相手が必要だし、お金だってある程度はなきゃいけないし、それに子供が出来たところで、どうやって育てていいのかわからないし』
思い出とは違い、現実を語る彼女は淡々としている。
『それにね、たかを括っていたところもあるんだ。どんな職業より一番容易くなれるのがお母さんなんだって。よくよく考えたらそんなこともないのにね、お母さんの魔法の手は、一朝一夕で身についたものじゃないのに』
そして気のせいか、寂しげにも響いた。
好きな子がそういう物言いをするのは聞いている方だって寂しい。俺は思わず尋ねた。
「清水は、結婚はしないのか」
『多分、一生しないと思う』
彼女の答えに、冗談の気配は微塵もなかった。
「一生って……これから、そういう相手が見つかるかもしれないのに」
むしろ俺がなりたい、そんな思いで口を挟んでも、
『どうかなあ。私はそんな気がしないよ。前にも話したけど、日々を生きるので精一杯、恋愛なんてしてる暇ないし』
清水の答えは以前と同様、冷めていた。
外の気温は蒸し暑いくらいなのに、その声だけはさらりと涼しげだ。
『恋愛どころか、新たに知り合いを作るのだって無理な気がする。人間関係を広げるとか、新しい趣味を持つとか、そういう余裕が全くないの。気持ちの問題って言ったらきっとそうなんだろうけど』
俺は相槌すら上手く告げられなかった。
彼女の余裕のなさは、あの栄養ドリンクにも如実に現れている。
『そういう意味では、播上がいてくれるのがありがたいよ。お弁当作りだって続けていられるし、料理が趣味だって胸も張れるようになった』
そう言って、彼女はまた息をつく。あとには静かな呟きが続いた。
『だから私、播上がいてくれたらいいな。ずっと一緒に昼休みを過ごせて、お弁当作りが出来て、勉強にもなる友達がいてくれたらそれだけでいいよ。結婚も恋愛も、他の趣味だって要らない』
藤田さんの言う通りだった。
清水は相当手強い女だ。
日々を全力で生きている。それは彼女の意思からというより、そうせざるを得ないのだという方が正しい。負けず嫌いの彼女は何にも妥協をする気なんてないのだろう。生き方一つとっても、仕事にしても恋愛にしても、小さな頃の夢にしても。
彼女に妥協をさせるのは並大抵のことではないと、改めて思う。
唇を結んだついでに、ジャングルジムの上に座り直した。金属製の枠がそろそろ尻に痛い。日付も変わる頃だった。
時間を確認したそのタイミングで、清水が逆に尋ねてくる。
『播上は? いつかは結婚したいって思う?』
当の清水にそれを聞かれると、こっちは苦笑いしか浮かばない。
正直に答えてもいいかと思ったものの、結局は別の本音を答えた。
「いつかはしたいと思ってるよ」
『……そうなんだ』
電話越しに、驚きの反応が伝わってくる。違う答えを予想していたんだろうか。同じように余裕のない俺を見て、恋愛しているはずがないと踏んでいるんだろうか。
あいにくと恋愛をする余裕はあった。
いや、余裕がない日々だからこそだ。恋愛のありがたみと、清水の存在の貴さを、毎日のように噛み締めている。
「今すぐにとは思わないけどな。他にやるべきこともあるし、今の俺はまだ未熟だ」
思う。俺の隣には、いつでも必ず、彼女がいてくれたらいい。
そして彼女にも、同じ幸せを味わって欲しい。
俺と同じく彼女にも、料理を作る人間であって欲しい。
彼女が望み通りの魔法の手を持つ日も、必ずやってくるはずだ。俺はその夢を叶える手伝いが出来たらいい。それと同時に、俺の夢を叶える手伝いを、彼女がしてくれたらいい。
その為には彼女に妥協をしてもらわなければいけない。
全力で生きている日々よりも、俺の隣で生きる日々を選んでもらえるように。
「自分の出来ることを全てこなして、今よりも成長して、生活の基盤がきちんと用意出来たらだ。その時まではまだ考えられない」
俺が言うと、清水は感心した様子で、
『偉いね。播上は将来のこと、ちゃんと考えてるんだ』
そのくせ他人事みたいな物言いをした。また苦笑させられる。
「もう二十六だからな」
『あ、何それ。私が全然考えてないみたいな言い方じゃない?』
「いいよ、清水は。考えられる時に考えてくれたらそれで」
婉曲的な本音を口にしてみた。
『そうだよね。じゃあしばらくはマイペースでいようっと』
あっさりと笑った彼女は、間違いなく何も気づいていない。電話を切った後も、多分気づかなかっただろう。
清水に俺を選んでもらうには、今のままでは駄目だ。
俺が今の未熟さを脱却し、自身のあり方に納得するまでは、隣にいてくれなんて頼めもしない。
そして小さな頃の夢を叶えられるかどうか、確かめるまでは――二十六歳になった俺の、これからの一年間は仕込みの時期となる。何もかも全ての用意が整うまでは、大切なメシ友にだって秘密だ。
俺は、妥協はしない。
自信のなさの陰に隠れて、忘れきれない夢を誤魔化し続けているうちは何も手に入らないはずだ。欲しいものがあるなら自分の手で掴み取る。父さんが開いたあの店も、小さな頃の夢も、隣にいて欲しい奴のことも、全部だ。
役目を終えた携帯電話をしまい込み、空になった手に視線を落とす。
この手が魔法の手だというなら諦める理由はない。胸裏で呟きながら、ジャングルジムから飛び降りた。
生温い風が傍を過ぎり、革靴の底には衝撃がずしんと響いた。
翌日の土曜日、アパートの俺の部屋には実家からの荷物が届いた。
プレゼントとして贈られたのは新品のエプロンと、なぜか一昨年と同じくカボチャだった。大きな段ボール箱の中身を検めた後、俺はすぐに実家へ電話を掛けた。
「勘弁してくれ、母さん」
『正ちゃん、荷物届いた? 美味しそうなカボチャでしょう?』
母さんとはもう何年も顔を合わせていないが、口調はいつものように屈託ない。
「一昨年も言っただろ、こんなに貰っても食べ切れないんだって」
『でもあれから正ちゃんのレパートリーも増えたんじゃない?』
「そりゃまあ、多少は」
清水からカボチャを使ったお菓子のレシピを教わっているし、俺は食べなくても彼女の為に作って持っていく手はある。誕生日プレゼントのお礼なんて口実でどうだろうか。
思索に耽る耳元に、母さんの元気な声が聞こえてくる。
『それに本当に美味しいカボチャだから。早速食べてみてちょうだい』
「わかったよ。余った分はお菓子にでもするから」
溜息まじりに応じたら、
『あら、いつからお菓子作りなんてハイカラなことするようになったの?』
妙に鋭いツッコミがあった。
「え? いや、俺だってそのくらいはするよ」
『もしかして、ガールフレンドでも出来た?』
「――で、出来てない」
いい読みだった。
伊達に二十六年、俺の母親をやってはいないようだ。
『正ちゃんがお菓子作りなんて、てっきり作ってあげたい子が出来たのかと思ったわ』
信じないわよと言いたげに母さんは唸る。
『まあいいわ。彼女が出来たら是非連れて帰ってきてちょうだいね。お母さん、正ちゃんが選んだ子なら何にも文句言わないから』
母さんらしい物言いだ。
何でもお見通しなのかもしれない。料理のレパートリーが増えたことも、好きな子が出来たことも、それから――。
「彼女はいないから、連れて帰れないけど」
俺は照れながら母さんへと告げた。
「今度そっちに帰るよ。お盆は忙しくて無理だろうから、多分、来年にでも」
四年目にしてようやく、就職してから初めての里帰りを決めた。
その理由も母さんなら、そして母さんから話を聞くだろう父さんなら、全部お見通しかもしれない。
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