四年目(5)

 久し振りの電話だった。にもかかわらず、

『――播上。突然で悪いけど助けてくれ』

 ただならぬ様子の声に、俺も思わず身構える。

「どうした? 何かあったのか」

『実は』

「ああ」

『ハンバーグを作ってみたんだけど、中まで火が通らなくて……』

 聞き違えたかな、と一瞬思った。

 それですぐに確認した。

「ハンバーグだって?」

『そうなんだ。お前に教えてもらったレシピ通りに作ったら、外はもう既に焦げてるのに中はまだ赤みが残っててさ。これ、どうしたらいい?』

 何を聞くかと思えば。

「……電子レンジでも使えばいいんじゃないか」

 脱力して答えると、電話の向こうではああ、と驚き交じりの声が上がる。

『その手があったか! ありがとう、ちっとも思いつかなかった』

「役に立ててよかったよ、うん……」

 何事かと思った。心配して損をした気分だ。

 電話越しに、電子レンジの戸の閉まる音が聞こえる。

『しかし、料理って難しいな。レシピを読むだけなら簡単そうに見えるのに、いざ台所に立つと訳がわからなくなる』

「段取りを決めてやればいいんだよ。その為のレシピじゃないか」

『簡単に言うなよ、播上。僕は初心者なんだからな』

 なぜか偉そうに渋澤が言う。


 久し振りの電話で何を話してくるかと思えば、奴は奴で相変わらずだ。本社に行ったからといってよそよそしくならないのはいいが、あまり変化がないようなのも面食らう。

 異動してからというもの、渋澤との接点は電話でのやり取りのみに限られていた。お互いにメールをマメに送り合う性格ではなかったし、お互い暇でもないから電話すら月に一度あるかどうかという程度だった。


『ところで、元気にしてたか?』

 渋澤の問いに、俺は正直に答えた。

「まあまあ元気だ。忙しいけどな」

『こっちもだよ。でもまあ、お互いに元気ならいいよな』

 答えの通りに元気そうな口調で奴は言い、

『総務の方は? 皆、変わりないか?』

 次いでそんな質問をされた。

 俺が黙っていたところで直に渋澤の耳にも入るだろう。そう思って打ち明けた。

「変わりはない。けど……藤田さんが退社することになった」

『あの人が? どうして?』

「結婚、するんだそうだ」

 告げた直後からしばらく、微妙な間があった。

 言わない方がよかったか、言うにしてももう少しさらりと言えないものかと後悔し始めた頃、電子レンジの終了を知らせる音が響き、ようやく渋澤が語を継いだ。

『そう、か。結婚するのか、あの人』

 ぽつんと、独り言のようなトーンだった。

 それで俺は慌てたくなって、

「いや、その、落ち込むなよ渋澤。清水に言わせるとこういう切り替えの速い人は別に珍しいものでもないらしくて――」

『いいよ、フォローしてくれなくても。複雑ではあるけど』

 渋澤が少し笑った。言葉通りの複雑そうな笑い方だった。

『実は前から思ってたんだ』

 レンジの開く音がする。

『藤田さんには僕じゃなくて、もっと他に好きな相手がいるんじゃないかって』

 更に笑って、

『もしかしたらそれは、播上じゃないかとも思ってたんだけどな。播上と清水さんを見る目が、僕を見る目とまるで違っていたから』

 と続けたから、一層慌てたくなった。

 当たらずとも遠からずな読みだと思う。俺自身が好かれているわけではないにせよ、ある意味非常に気にかけられていたのは事実だ。渋澤はいい目をしている。

「言っておくけど、相手は俺じゃないからな」

『わかってるよ』

 電話から、微かな笑い声がした。

『ただ少なくとも僕には、あの人の気持ちがどこまで本当なのか、本気なのか、よくわからなかった。前にも言ったよな』

「ああ、聞いた」

 渋澤が藤田さんの気持ちを見抜いていたのか、それとも藤田さんの気持ちが正しく伝わらなかっただけなのかはわからない。傍目にはどちらとも言い切れなかった。


 どちらにしても、渋澤は妥協をしなかったし、藤田さんは妥協をしたらしい。

 男と女の関係はややこしい。他人同士はただでさえややこしいのに、そこに性別の壁なんてものまであったら堪らない。一生わかり合えないんじゃないかとすら思えてくる。

 俺は次の言葉を探していた。

 でも、見つかりそうになかった。

 もてる男の気持ちなんてわかるはずもないと思っていたが、藤田さんや清水に比べたらずっと、渋澤の気持ちの方が理解できるような気がした。何か言ってやりたいのに、こういう時に限って言葉が出てこない。


 すると、渋澤の声が聞こえた。

『お、中まで火が通ってる』

「……え?」

『助かったよ播上。これでどうにかハンバーグにありつけそうだ』

 一転、安堵の呟きが聞こえてきて脱力する。

 こっちまでしんみりしていたのに、いきなりハンバーグの話に戻られても。

『ところで、清水さんはどうしてる?』

 おまけに不意をつくように尋ねられたから、思わず答えに詰まった。

「い、いや、どうって……普通にしてるよ」

『どうして慌てる?』

「別に、慌ててなんかない。いきなり聞かれたからびっくりしただけで」

 すると渋澤はげらげらと、ひとしきり笑った後でこう言った。

『播上。僕とお前と、結婚するのは一体どっちが先だろうな?』

 そんなこと、考えてどうするつもりなんだろう。

 俺は素直に答えを告げる。

「渋澤じゃないか」

『どうしてそう思う?』

「お互いに相手がいない状況なら、渋澤の方が相手を見つけ易いだろうし」

『そうかな。僕は長らく、お前にハンデをつけられてる気分でいるけど』

 意味ありげな物言いに、またしても俺は言葉に詰まる。

 そして渋澤はまた笑った。げらげらと、随分楽しげに。


 月曜からはいよいよ慌しい日々がやってきた。

 総務課で一番仕事が増えたのは俺だった。藤田さんが受け持っていた仕事の大半を引き継ぐことになっていたからだ。

 それでも業務から業務へと追われるうち、不思議と楽な気持ちになっていた。集中しなければならない事柄があって、余計なことまで考えずに済んでいるせいかもしれない。総務の仕事にもようやく慣れてきたからかもしれない。食事の支度の手間を省けるよう、休日のうちにあれこれ準備をしておいたお蔭かもしれない。

 何にせよ仕事量の格段に増えた一週間も、どうにか乗り切ることが出来そうだった。


 ただ仕事以外のことにかまける時間は減っていた。

 と言っても料理の他に趣味があるわけではないから、要は清水と電話やメールをする機会が減ったということだ。

 月曜からずっと社員食堂に行く暇もなく、昼休みは総務で過ごしていた。だから清水とは顔を合わせることもなかったし、彼女からの励ましのメールも月曜と木曜に一通ずつ来ただけで、例によって一往復半で終わってしまうようなやり取りだった。彼女のメールは普段通りの文面で、今週の金曜日について触れてくることもまるでなかったから、俺も過剰な期待をせずに済んだ。


 それとは別に、実家からも電話があった。

 水曜と木曜の夜にそれぞれ不在着信が残っていたが、店の営業時間中に掛け返すのは気が引けた。だから金曜の昼休みに連絡をして、このところの忙しさを打ち明けた。

『あら、こんな暑い時期に大変ね。夏バテしないようにね、正ちゃん』

 母さんはいつも通りの調子で応じてくる。がっくりきた。

「……あのさ、母さん。俺ももう二十六なんだけど」

『そうそう、ちゃーんと覚えてるわよ! 二十六歳おめでとう!』

 年甲斐もなくはしゃいだ声を上げられた。問題はそこじゃないのに。

『今年のプレゼントは明日着くように送ったから、楽しみにしててね!』

 ありがとうと返しつつ、すっかり力が抜けてしまった。

 正ちゃんなんて呼ぶのもそろそろ止めて欲しかった。もし清水に聞かれる機会なんてあったら恥ずかしいじゃないか。

 そんな機会、あるかどうかわからないものの――もしも運良く清水と付き合えたとして、実家に連れて行くことがあったとしたら。


 もしもの話だが、それはそれで憂鬱だった。

 彼女がある程度料理の出来る子と知れば、父さんも母さんもあの店の話を持ち出してくるだろう。むしろ嬉々として店を継ぐよう促してくるだろう。

 確かに、彼女と一緒なら諸々の問題は解決する。清水の明るくて気丈な性格はいかにも人と話すのに向いているだろうし、秘書の経験を生かして細やかな接客が出来るんじゃないかとも思う。料理しか出来ない俺にとっては、足りないところを補って余りあるパートナーになるはずだった。

 でも、考えられない。

 考えたくなかった。俺はあの店を継ぎたくて、清水を好きでいるわけじゃない。挫折した夢を実現する為に彼女を選ぼうとしているんじゃない。


 今日は金曜日。

 俺の、二十六歳の誕生日だ。

 きっと何事もなく過ぎていく日になるだろう。

 ただこの間の、最後まで言えなかった誘いの言葉を諦めてはいなかった。あれのほとぼりが冷めたらもう一度彼女を誘ってみたいと思っている。

 多くは望まない。清水がいてくれたらそれだけでいい。だから今の忙しさだって乗り切れる。


 金曜の夜も残業だった。

 午後八時を過ぎると、総務課に残っているのは俺と藤田さんだけだ。

「弁当食べてもいいですか」

「どうぞ」

 了承を取る俺に、見えない位置にある席から藤田さんが答える。

 退職を控えて、課長から『今のうちに片づけておいて欲しい仕事』を押しつけられたとのことで、あまり機嫌のいい様子ではなかった。

「お弁当、播上くんが作ってきたの?」

 自分の机で弁当箱を開けようとすると、藤田さんからそう聞かれた。

「そうですよ」

 夜用の弁当は食中毒対策の為、凍らせたものを会社で解凍食べることにしている。ピラフと唐揚げ、それにカボチャのサラダ。もう一品欲しくなる組み合わせだったが、忙しいときは仕方がない。

「こういう時こそ清水さんに作ってもらえばいいのに」

 藤田さんはぼやくように言い、言われた俺は思わず苦笑した。

「無理ですよ。そんなこと頼める間柄じゃないですし」

「わかんないよ? ここでポイント稼いどこうなんて、張り切ってくれるかも」

「清水はそんなこと考える奴じゃないですから」

「思い込みで庇うのは危険な気もするけどね」

 相変わらずこの人の物言いはきつい。だが顔が見えない分、受け流すのも容易かった。

 俺は目の前の弁当だけを見据えて、適当に答える。

「自分で作った方が手っ取り早いですよ」

「だからもてないんだよ、播上くんは」

 返ってきたのは呆れたような言葉。これも今更だった。

「つけ入る隙のない男は駄目なの。ちょっとくらい隙を見せてないと、女の子だってポイントの稼ぎようがないじゃない」

「そんなもんですか」


 だから渋澤はもてるのかと、この間のやり取りを思い出してみる。

 ハンバーグが生焼けだと助けを求められたのは初めてだ。慌てていたにせよ、そのくらい冷静になってみれば考えつくことだろうに――でも女の子達は、そんな渋澤だからこそ、一生面倒を見たいなんて思うのかもしれない。

 唐揚げを一口頬張る。解凍の済んだ鶏肉は、ちゃんと中まで味が染みていた。冷めても美味しいというのは出来がいい証拠だ。


 ノックの音がしたのは、一つ目の唐揚げを飲み込んだ直後だった。

 俺よりも先に藤田さんが反応した。

「はい、どうぞ」

 おざなりな返答の直後にドアが開く。どうせ総務の誰かだろうと視線を上げた俺は、次の瞬間、箸を取り落とすところだった。

 清水が、開いたドアの隙間から顔を覗かせていた。

「播上、お疲れー」

 一週間かそこらぶりの彼女が、少し疲れた顔で笑う。

 その姿が妙に懐かしく思えて、途端に言葉も出なくなってしまった。

 どうして彼女がここにいるんだろう。

「清水さん? 何してるの?」

 藤田さんが訝しげな声を上げると、清水はぎこちなく会釈をしてみせた。

「播上の陣中見舞いに来ただけなんですぐ帰ります。入ってもいいですか?」

「いいけど」

「失礼しまーす」

 先輩の不満げなトーンもお構いなしに、清水は総務課の中へと立ち入った。後ろ手でドアを閉め、俺の机の傍まで寄ってくる。

 俺は箸を掴んだまま、ぽかんとしてその姿を見守る。とっさのことにどう反応していいのかわからない。

「あ、ご飯中だったんだね」

 清水が机の上の弁当箱を見てちょっと笑った。

「私もさっきまで残業。これから帰るとこなんだけど」

 言いながら彼女はバッグを開け、中から何かを取り出すと俺の机の上に置いた。

「これ、あげる。誕生日プレゼントって言ったらおこがましいけど」

「プレゼント……?」

「割とよく効くよ。私も夏場はこれ飲んで凌いでるんだ」

 机の上に置かれたのは、栄養ドリンクの三本パックだった。

 肉体疲労時の栄養補給に飲む類のあれだ。それも結構きついやつだった。

「誕生日おめでとう、播上。頑張って乗り切ってね!」

 活を入れるが如く、妙に威勢よく清水が言う。その笑顔が輝いているのも栄養ドリンクの効き目なんだろうか。

「あ……ありがとう、清水」

 まだ混乱する頭で、それでもどうにかお礼を言った。突然のことで思考が追いついてなくても、当たり前だが嬉しかった。

「うん。じゃあお先!」

 清水はもう一度にっこりすると、そのまま総務課を出ていった。

 退出する直前、

「お邪魔しました」

 と、藤田さんに挨拶をしていくのも忘れなかった。

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