第2話 記憶喪失
あれは2日前、いや7月23日の深夜2時だったから昨日だ。
俺は繁華街を歩いていた。あの日は仕事帰りに上司の田畑部長に誘われて飲みに行った。田畑部長との飲み会はダラダラと長い。だから店を出たのが深夜だった。
家に帰るために、俺は繁華街を抜けたところでタクシーを拾おうとした。道路際でタクシー待ちをしていたら、後ろから誰かに押されて通りを走っていた車に接触した。
幸いにも軽いケガで済んだのだが、その事故で頭を打って、直近1週間の記憶の一部が思い出せない。医者には「しばらくしたら治るだろう」と言われた。
記憶喪失といっても、ごく一部が思い出せないだけ。ほとんどは覚えているから仕事には支障はない。だから、俺は今日も担当している連続殺人事件の捜査をしている。
俺が捜査している連続殺人事件は女性だけを狙ったものだ。
犯人には女性の死体から左手の小指を切り取って持ち去る、という変わった趣味がある。持ち去った左手の小指をどう使うのかは分からない。自慰行為でもしているのだろうか?
殺人事件の捜査をしていると、この事件のように俺には理解できない性的指向を持っている犯人がいる。
犯人は男性だと捜査本部は考えているようだが、俺にはそのプロファイリングが正しいのかどうか分からない。レズビアンの犯人の可能性もあるのだが、男性の犯人の可能性の方が高いから、犯人は男性と捜査本部は断定している。
あくまで確率の話だと思うが、優柔不断な俺は『犯人はレズビアン』の方向でも捜査した方がいいんじゃないかと思っている。ただ、俺がこれを言うと捜査本部が怒り出すから、言葉に出しては言わない。
ちなみにこの事件のことを、捜査員は『小指フェチ連続殺人事件』と言っている。犯人が小指フェチだから、みんなこう呼ぶ。でも、俺はこのネーミングはイマイチだと思っている。
だって、そのまま読めば小指フェチが殺された事件だと思うだろう。当然ながら、日本にそんな数の小指フェチがいるはずもなく、小指フェチを大量に殺害するのは無理がある。
日本全国の小指フェチの人数を考慮すれば、小指フェチが起こした連続殺人事件と理解できるのだが、紛らわしいネーミングだ。
この犯人は女性の左手の小指を手に入れるために、その女性を殺している。
つまり、犯行の目的が左手の小指の入手、その手段として殺人をしている。
俺からすれば信じられない発想だが、この犯人は大真面目にそれをやっている。
傷害罪と殺人罪は大違いだ。女性の左手の小指だけを狙った方が良かったんじゃないか、と俺は思っている。
さて、前置きはこのくらいにして、俺は犯人を調べるために今日も現場周辺の聞き込みをしている。地味な捜査だ。どうせ誰も見てないだろうと思うと、やる気は起きない。一緒に聞き込みをする後輩の石倉からもやる気を感じない。
俺たちは捜査本部に決められたエリアを聞き込みしていく。が、この季節はとにかく暑い。暑いから頭はボーっとするし、汗もダラダラ出てくる。エアコンの室外機が作り出す野外サウナの中、俺も石倉も意識が朦朧としている。
交番の前に『熱中症に気を付けましょう!』とポスターを張っているのだから、俺たち刑事が熱中症にならない捜査方法を捜査本部は採用するべきだ。
あまりの暑さにコンビニで涼んでいたら、後輩の石倉が俺に失踪した女性の件を話してきた。石倉が言った失踪事件は捜査一課の担当ではないから、俺は知らなかった。
石倉は「失踪したのは鶴崎 彩(つるさき あや)という25歳の女性」と言った。
2日前に勤めている会社を無断欠勤した。同僚が確認のために彼女に電話したが繋がらなかった。昨日も電話が繋がらなかったため同僚が自宅に行ったそうだが、彼女は自宅にいなかった。その同僚は会社に提出された身元保証人である母親に連絡を取ったのだが、母親も彼女の居場所を知らなかった。
両親と同僚は、彼女の自宅に入って異常が無いか調べたり、彼女の友人に連絡をとったりした。結局見つからず、捜索願を警察に提出することになったようだ。
俺が「顔写真は無いの?」と言ったら、石倉は「これです」と言ってスマートフォンに保存してあった鶴崎彩の写真を俺に見せた。
――えっ、奈那(なな)??
俺は石倉に気付かれないように平静を心掛けた。石倉のスマートフォンに表示された写真は、どう見ても俺の知っている顔だ。この女性には何度か会ったことがある。
奈那とは友人に誘われて参加したホームパーティで知り合った。たしか3カ月前のことだ。彼女は山本奈那と名乗っていた。俺と奈那は連絡先を交換して、その後、何度か会った。
――奈那に最後に会ったのはいつだった?
俺はスマートフォンの予定表を開く。この予定表が正しければ奈那に最後にあったのは7月21日、鶴崎彩が会社を無断欠勤した前日だ。俺は3日前のことを思い出そうとするが、奈那に関する記憶だけがぽっかりと消えている。なんて都合の悪い記憶喪失だ・・・
俺は奈那に電話をしようとしたが、思いとどまった。
奈那と鶴崎彩が別人であれば何の問題もない。でも、もし俺が知っている奈那と鶴崎彩が同一人物だとすると、失踪する直前に会っていた俺は捜査の重要参考人になる。
記憶が戻っていない状態で失踪した女性の携帯電話に履歴を残すのは危険極まりない。せめて記憶が戻ってから動くべきだ。
それに、俺のすぐ側には石倉がいる。このタイミングで電話すると石倉に怪しまれる。
最優先で調べるべきことは、奈那と会った7月21日に俺が何をしていたかを知ることだ。
俺はそう考えた。
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