佐藤さんが隣で笑う
その朝、佐藤さんが教室にいた。
窓から二列目、一番後ろの席に座っていた。
覚束ない足取りで隣の席に着こうとした僕に、彼女が声を掛けてくる。
「おはよう、山口くん」
それから佐藤さんは微笑んだ。
「すっごく久し振りだね。当たり前だけど……」
「そうだね」
僕は頷く。
だけど、どういう顔をしていいのかわからない。
まさか今日、佐藤さんが来ているとは思わなくて――いや、本当ならいるのが当たり前なんだけど。僕の隣の席にいるのが普通のことなんだけど、長らく顔を見ていなかったから緊張した。
鞄を机の上に置く、それだけの音がやけに響く。
数日間の病欠が明けて、佐藤さんはようやくクラスに戻ってこられたらしい。
心なしか痩せたみたいで、頬の辺りがやや細い。だけど思っていたよりも血色がよく、笑う顔も以前のままだ。ほっとする思いと同時に、何だか居心地の悪さを感じた。
隣の席が空いていることにすっかり慣れてしまったせいだろうか。
ほんの数日空っぽだった右隣には、本来の主が座っている。そのことに慣れるまで、また時間がかかるのかもしれない。ちょうど隣の席をちょくちょく気にする、奇妙な習慣がついてしまったみたいに。
一つ結びの髪を揺らして、彼女は教室を見回している。
「本当、何でも全部久し振りな気がする。休んでたの、ほんのちょっとの間なのにね」
懐かしそうに呟いてから、自分の言葉に笑う。
「みんなの顔を見れて嬉しいな」
言いながら、目が合ったクラスの女子に手を振り返したりする。クラスメイトたちから向けられる視線は温かい。
佐藤さんが教室全てに向ける目も、同じように温かい。
僕は、そんな佐藤さんの表情や仕種を忘れてしまったつもりはない。
たった数日会ってなかっただけなのに、彼女がここにいることに戸惑ってしまう。
どうしてこんなにぎくしゃくしてしまうんだろう。
「もうすっかり良くなったの?」
それでも何気ないそぶりで尋ねた。
佐藤さんがこちらを向いて、小首を傾げる。
「うん、お蔭様で。食欲も出てきたし、すっかり元気だよ」
「修学旅行近いけど、行けそう?」
「ばっちりだよ。もう本調子だもん」
頬の血色のよさからして、それは本当なんだろう。
よかったと僕は言い、佐藤さんは少し残念そうに笑った。
「でも皆勤賞はだめになっちゃったけどね。あーあ、惜しかったなあ」
皆勤賞ってそんなにいいものなんだろうか。僕は端から興味がなかったから、佐藤さんのがっかりぶりが滑稽だ。
「まだ言ってる。身体の方が大事だろ」
思わず笑う僕に、佐藤さんは力を込めて語った。
「私、小学生の頃からずうっと無遅刻無欠席だったんだよ」
「へえ……」
「賞が貰えるなんてこんなことくらいしかないしね。本当、惜しいことしたあ」
確かに佐藤さんなら他に誇れることもなさそうだ。
成績がいいわけでもなく、授業で指名されてもいつも答えられないし、おまけに運動音痴で体育の授業でも足を引っ張っている。不器用そうだしとろいし気が利かないし、彼女に向いている教科なんてあるだろうかとさえ思う。
でも、彼女は約束ごとはきちんと守る子なんだろう。
彼女の性格において誠実さだけは誇れるところだと僕も思う。きっと、だからこその皆勤賞だ。
「だけど山口くんには本当に感謝してるの」
佐藤さんが改まった口調になる。
僕は嫌な予感がして目を逸らした。
次に何を言われるか、わかった気がした。
「私、ぼんやりとしか覚えてないんだけど……あの時、具合悪くした日のお昼休み、山口くんが声を掛けてくれたんだよね」
思い出すようにゆっくりとした声が言葉を紡ぐ。
確かに懐かしい声だった。しばらく聞いていなかった声、だった。
「まあね」
僕は曖昧に答えた。
彼女の言う通りだったけど、目一杯肯定するべきことでもない。お礼なんて要らないよと先んじて言ってやった方がいいだろうか。じゃないと佐藤さんはしつこいだろうから。
「保健室に連れて行って貰わなかったらどうなってたかと思って。本当にありがとう」
「いや、別に」
「ごめんね。あの時ちゃんとお礼が言えたらよかったんだけど、熱のせいであんまり覚えてないの。ごめん」
佐藤さんは申し訳なさそうにしていた。きっと表情も同じように、しょんぼりと僕を見ているに違いない。
だからあえて目を逸らしたまま応じた。
「いいよ、具合悪そうなのはわかってたから。保健室でもうなされてたぐらいだし、覚えてないのも無理ないんじゃないかな」
「うなされてた? 私が?」
「うん」
僕は顎を引いた。
それからふと、目の端で佐藤さんの方を見た。
右隣の席の佐藤さん。
少し痩せたように見える佐藤さん。
それでも血色はよくて、僕の方を怪訝そうに見ている顔も以前と同じだ。
その彼女が熱に浮かされて、うわごとのように言った言葉を思い出した。
待ってたって、あれは、何のことだったんだろう。
僕には知るよしもない。だけど、気にならないわけじゃない。
だって約束は守ろうとする佐藤さんを『待たせて』おいて、がっかりさせた奴がいるんだとしたら、そいつは大層な悪党じゃないか。
佐藤さんには約束を守ること以外のとりえはないのに、それだけが彼女の誇れることなのに、踏み躙った奴がいたとしたら腹立たしい。もしかしてそいつのせいで風邪を引いたりしたんだろうか。だとしたら――。
まあ、僕の考え違いかもしれないし、そもそも僕には関係のないことだけど。
佐藤さんは僕の隣で笑っている。
「私、どんなふうにうなされてた? 変なこと言ってなかった?」
「ああ……いや」
変なこと、言ってた。佐藤さんは言ってたよ。僕にはちょっとわからないようなことを口走ってた。何の関係もない僕があれこれ考えて、想像を巡らせてしまうようなことを言っていた。
だけど僕はかぶりを振る。
部外者らしく、何も知らないふりをする。
「単に唸ってただけだよ。具合悪かったんだから気にすることない」
「唸ってたなんて恥ずかしいな。山口くん、忘れちゃってね」
「わかった、努めるよ。ところで」
話を逸らす為だけに僕は、机の上に置きっ放しだった鞄を開けた。
ルーズリーフを閉じたバインダーを取り出す。ここ数日分の授業のノート、振り仮名つきの特別仕様だ。それを佐藤さんに差し出した。
「授業のノート、要るよね?」
一瞬目を瞠った佐藤さんが、すぐ笑顔に戻る。
「ありがとう! 借りちゃっていいの?」
「いいよ。遅れてるから頑張らないとな」
「うん、すぐ書き写しちゃうね。本当に山口くんにはお世話になっちゃって」
笑う佐藤さんは以前とあまり変わりない。
自分のノートを広げる手つきの不器用さも、ペンを走らせる時のもたつきもそのままだ。佐藤さんは少し痩せたこと以外は変わらずに、隣の席に戻ってきた。
なら、変わったのは僕の方なんだろうか。ぎこちなく思うのは僕がおかしいせいなんだろうか。佐藤さんとどう接したらいいのかがわからなくって、言いたいことの半分も告げられなかった。
「お礼、なかなかできないなあ。お世話になりっ放しでごめんね」
佐藤さんは簡単にそんなことを言う。
僕は上手く言えない。
首を横に振って、別に、と返すだけだった。
彼女がいない間にはいろんなことを考えていたのに、結局言えないことだらけだ。
本当は言いたいことが、他にもあったのに。
「病み上がりなんだから無理はしないようにね。修学旅行もあるしさ」
ぽつりと言って、話を逸らしておく。
「そうだね。皆勤賞は逃しちゃったけど、修学旅行は絶対行きたいもん」
佐藤さんが大きく頷いた。
隣の席で笑っている。いつものように、変わりなく。
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