隣の席の佐藤さん

森崎緩

本編

隣のあの子と絆創膏

 ルーズリーフの端っこは、刃物みたいに僕の指先を切り裂いた。

 予鈴が鳴ったから授業の準備でもするかと思った拍子にこれだ。

 人差し指の先には、ぷくりと赤い血が盛り上がっていた。


 僕は急いで制服のポケットに手を突っ込む。

 左手はいらだつほど不器用で、右のポケットからポケットティッシュを取り出す動作がもたついた。結局ハンカチしか掴めなくて、仕方なくそれを取り出す。

 ハンカチで指先を押さえるとたちまち赤い染みができた。ルーズリーフにも血の痕がついていたから、これはもう捨てなきゃならない。

 最近ついてないな。ひりひりする傷口を見下ろし、僕は溜息をつく。


「山口くん、大丈夫?」

 不意に、左手側から声をかけられた。

 それでしょうがなくそちらを向けば、隣の席の佐藤さんが僕を見ている。

「切っちゃったの?」

 全く無関係なのに、心配そうに聞いてきた。

 僕は曖昧に頷く。

「大したことないけどね」

 思ったより血が出ていて、ハンカチは殺人現場の遺留品みたいに赤く染まった。

 すると佐藤さんが、スカートのポケットから何かを取り出す。

「これ、使って」

 控えめな微笑と共に差し出されたのは絆創膏だった。


 薄いピンク地に、無表情な猫の顔が描かれている。

 一昔前はよく見かけた、小中学生の女子が可愛い可愛いと連呼しながら集めてそうなキャラクターものの絆創膏だ。


 当然、僕はためらった。

「それはちょっと……可愛過ぎるよ」

「うん、可愛いよね。でも気にせず使って、たくさんあるから」

 佐藤さんは明らかに誤解した様子で言った。

 そういう意味じゃない、と僕は心の中で呟く。

 こんなの指に巻いてたら皆に何を言われるか。高校生にもなって。好んで持ち歩いてる奴がいるとは思わなかった。

 もう昼休みも終わってしまったし、保健室まで代わりの絆創膏を貰いに行く時間はない。贅沢を言ってられないのも確かなんだけど。


 僕は佐藤さんが苦手だ。

 運悪く席替えで隣の席になってしまって、本当についてないなと思ってる。

 そもそも全然可愛くない。クラスの女子の中でもとびぬけて地味だし、スカート丈も校則遵守の膝下丈だし、髪型なんていつも野暮ったい一つ結びだ。

 それでも話してて楽しい子ならまだマシなのに、佐藤さんはとにかくつまらない。気が利かないし冗談通じないし、会話のテンポだって常に合わない。隣同士になって話す機会が増えたけど、大抵いつも噛み合わないままで終わる。

 だったら構わなきゃいい話なんだろうけど、佐藤さんは気が利かないくせに誰にでも親切にしたがる。

 大して親しくない僕に対しても、こんなふうにありがた迷惑なことをしてくれる。


「気持ちは嬉しいんだけど……」

 僕はその先の言葉に詰まり、差し出された絆創膏を見つめていた。

 心の中では当たり障りのない断り文句を考えていた。こんな時、八方美人な自分の性格が悔やまれた。要らないって正直に言って、佐藤さんを突き放せたらいいのに。

 そんな僕を、佐藤さんは不思議そうな顔で見る。

「山口くん、どうしたの?」 

「いや、この絆創膏……」

 僕がやんわり言いかけると、すかさず彼女が目を見開いた。

「あっ、そっか。ごめんね、気が利かなくって」

 自覚はあったのか。

 ともあれ、気づいてくれて良かった。

 僕が胸を撫で下ろした時、佐藤さんは立ち上がり、手にしていた猫柄の絆創膏を開封した。

「ちょっとごめん」

 そう断ると僕の隣まで近づいて、いきなり僕の右手を掴む。

「えっ」

 驚きのあまり、汚れたハンカチが机に落ちた。

 断ればいいってもんじゃない。仲良くない相手の手をいきなり掴むとかどうなんだ。ましてや佐藤さんなんかに触られたって全然嬉しくない。

 でも不意を打たれたせいで、そんな思いを口にすることはできなかった。

 僕の手を握る佐藤さんの指はひやりと冷たく、柔らかい。その感触に戸惑っていれば、彼女は僕の指先にくるりと絆創膏を巻いた。

 そして顔を覗き込んでくる。

「利き手じゃないから巻けなかったんだよね? これでどうかな?」

 にっこり笑って、当たり前みたいに聞いてきた。


 すぐ傍から見上げた佐藤さんの笑顔は、やっぱり地味で可愛くない。

 だけどあまりにも近くで見たから、とっさに目を逸らしたくなった。

 慌てて目を伏せても、見たばかりの残像が僕を追ってくる。

 興味もなかったはずの佐藤さんの笑顔が、冷たい指の感触と共にやけに記憶にこびりついてる。


 それから数秒と経たないうちに、先生が教室までやってきた。

 お蔭で僕は佐藤さんに、当たり障りのないお礼を言うことさえできなかった。


 そして五時限の間中、僕の指先では無表情な猫がこちらを睨みつけていた。

 何か言いたげな顔をして、ひりひりする痛みを僕に与え続けた。指先以外にもどこか痛んでいた気がしたけど、突き止めるつもりはなかった。むしろ気のせいだって思いたい。

 左隣の席を見る気にはなれず、こっそり溜息をつきたくなる。


 僕は、佐藤さんが苦手だった。

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