天然水の願いごと
芳原シホ
第1話 天然水な彼
「それじゃあ、またね、愛穂(まなほ)」
「うん、また明日!」
その日もそんな何気ない言葉で、私は友人と別れた。
塾からの帰り道、大通りを足速に歩く。いくら大通りで明るいといっても夜は怖いし、早く帰りたい。
「あれ?」
鞄をしっかりと抱え、家のある路地へと入ったところで私は首を傾げた。
「こんなところに自動販売機あったかな?」
高校生である私の背丈を越えるくらいの、白く四角い機械仕掛けの箱。それは街灯に照らされ、ぽつんと独り寂しそうだと思った。
「なんだか寂しそうだし、お姉さんがなにか買ってあげよう」
あまりに寂しそうだし、たまにはいいかな。そんな風に思うと、私は鞄からお小遣いの入ったポーチを出した。お小遣いを使ってまでなにかを買うことはあまりない。だから飲み物やおやつを買う程度では困らなかった。
取り出した硬貨が目の前にある機械に飲み込まれていく音が聞こえ、並んだボタンが点灯する。
「ええと、これにしよう」
私の指は引き寄せられるように水を選んでいた。大きな音と共に落ちてきたボトルを拾い上げる。
よく冷えていたそれは、思ったより冷たくて掴んだ手がぶるりと震えた。
私が震えただけなのに、なんだかボトルが飛び跳ねた気がして思わず街灯に照らす。それはただの水なのに、透き通ってなんだかとても綺麗だ。
しばらくそのボトルを眺めていたが、しばらくしてようやく我に返る。
「まずい、帰る時間!」
私はボトルを無造作に鞄に押し込み、慌てて家に帰った。
「ただいま」
「お帰りなさい、ちゃんと宿題やるのよ」
私が帰っても、お母さんはそれだけしか言わない。私になんて興味がないからだってもう知っている。
分かっているから、私は大人しく自分の部屋に向かった。
部屋に入って鞄を置く。さっき買った水を飲んだら、宿題をやっておこう。
たまに宿題をやらないで明日になってみようと思うこともある。そうすればお母さんは私に興味を持つかもしれない。
そんなことは、思うだけで実行したことはなかった。
鞄から出した水のボトルに指を掛け、軽く力を込めると音がして蓋が開く。
「きゃっ!」
ボトルが開いた瞬間、勢いよくなにかが噴き出した。
「やだっ、炭酸水!」
ラベルの表示に、炭酸という文字はなかった。なのに目の前が白い霧のようなものでいっぱいになる。
どれくらい溢れたかはわからないが、ジュースじゃなくてよかった。
しばらく経ったのか、すぐだったのかはわからない。
その声は突然、少し上から聞こえてきた。
「はー、やっと出られた。えらい目にあった」
「え?」
ぎょっとして思わず目を開ける。
まず見えたのは、噴き出した水で濡れた部屋の床だ。思ったより少ないから、これは拭けば大丈夫だろう。
声が聞こえたような気がしたけれど、気のせいかも。
ホッとして視線を上げたところに、その人はいた。
少し長めの髪こそ黒だったが、瞳は澄んだ水色だった。瞳以外もそれぞれのパーツがどこか人間離れした絶妙な整いかたで配置されている。すらりとした体型は、白と水色の和服のような格好をしており、朱色の紐がアクセントになっていた。
足元は裸足だった。その足は、さっきペットボトルから溢れた水で濡れた床から、ふわりと浮いている。嘘だと思いたかったが、間違いなく宙に浮いていた。
綺麗な顔が直視できないのと、床から浮いた足が気になるのとで、わたしはぼんやりと彼の浮いた足元を眺めていた。
「あー、コホン」
わざとらしい咳払いが聞こえてきた。ようやくゆっくり顔を上げると、その人は私を見て笑顔を浮かべた。
「助けてくれてありがとう。お嬢さん」
ゆっくりとした仕草で一礼する。顔とスタイルが整っているので、それはとても様になっていた。
「あの、どなたですか?」
赤くなりそうな顔をなんとか誤魔化し、とりあえず訊ねてみる。
その水の彼が話してくれた事情を聞いて簡単にまとめるとこうだった。
綺麗な水の流れる山奥に暮らしていたが、うっかり地下水で心地良くうたた寝をしてしまったと。気が付いたら地下水と一緒に汲み上げられ、ペットボトルの中だったということらしい。
「本当に山の天然水なんだ、この水って……」
別に天然水の出処を怪しんではいないが、信じてもいなかった。思わず感心してボトルを眺めていると、怪しい水の彼はまた注意を引くように声を出す。
「んー、ちょっといいかな」
「ああ、はい」
そう、問題はそこではない。
彼はいかにもお約束ですとばかりに私に告げた。
「助けてくれたお礼をしたいんだけど」
「え?」
思わずぽかんとして彼の顔を見上げた。水色の澄んだ瞳は、冗談を言っているようには見えない。
これは、所謂ランプの精霊のような状況なのかな。
しかし急に言われても、思いつくわけがない。
今、一番の願いといえば、明らかに年上の美形に覗き込まれているというこの状況から早く抜け出したいってことくらいだ。
なので私はそれを素直に口に出した。
「ありません、迷惑なんで帰ってください」
言葉が少しきつかったかもしれないと、言ってから反省する。
私の言葉が予想外だったんだろう。水の彼は吃驚した顔を浮かべて、もう一度繰り返した。
「願いごと、とかは?」
「とくにありません」
本当に思いつかないのだ。知らない人におかしなものを貰うわけにはいかない。人じゃなさそうだけど。
それに眠っている間にペットボトルに閉じ込められていた、なんてドジな彼に叶えられると思えなかった。
水の彼がじっと私を見ていた視線を少し逸らし、呟く。
「御爺の嘘つきめ!」
イケメンが困っているという状況は、なんだか申し訳ない気分だ。お礼をしてもらう立場の私のほうがなんだか複雑に感じてしまう。
「じゃあ考えておきますから、また明日来てください」
「それは、できない」
なんとお礼をしないと帰れないらしい。義理堅いのかそういう呪いなのかわからないが、帰ってくださいという願いは本当に通らないのだろうか。
なんと自称帰れないと言う水の彼は、結局、翌日も私の部屋にいた。
そのままその次の日も、またその次の日もそこに浮いている。
気まずくてなにもできない。そう訴えるとペットボトルの中に入ってくれたり、姿を霧のように透明にしてくれた。
でも、そういうことじゃない。
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