第一部2

「何故トラーパニに? 引っ越したのかね?」


「いえ、パレルモのホテル暮らしは変わりませんわ。トラーパニには私立探偵の仕事がありまして。しばらくアパートに住んでいます」


「へぇ。夏のビーチにいても平気なのか? 毒の中にいるようなものだろうに」


「心配なさらないで。長居しなければ平気ですわ。あなたのことを思い出しましてね。ビーチを散歩していたらしんどくなってきて、パラソルの下で休憩しようと思ったらあなたがいたのです。面白い偶然もあるものですね」


「ああ、全くだ。私も君のことを思い出していた。君が夏をどう過ごしているか気になってね」


 イアンはパナマハットを脱いだ。

 拭えども拭えども湧いてくる汗は諦めることにした。


「暑いな」


「ええ。夏は特に嫌いですわ。ところで、あなたもパナマハットをかぶるのですね。一瞬、ミスター・バリスティーノかと思いましたわ」


「パナマハットはジャンのトレードマークだからな。あれからジャンとは会ったかね?」


「ええ、何度か。ミス・ジェンクスと一緒にいられるのをよく見かけました。食事にもご招待いただいて、あなたの話をたくさん聞かせてもらいました。もうアメリカに帰られたのかと思っておりましたけれど、トラーパニにいらしたのね」


「帰る気にはなれなくてね。どうしても君のことが忘れられなかった」


 汗で湿った金髪をかき上げると、オリガは視線を伏せた。


「私もあなたのことが忘れられませんでした。もしかしたら、私たちは運命の糸で繋がれているのかもしれませんね」


 オリガは冗談めかしたが、イアンはそう信じてやまなかった。


 小さな島の奇跡ではあるが、奇跡であることに変わりはない。


 イアンは奇跡や運命を信じない人間であった。


 家族が死んでから神の悪戯を信じなくなった。

 元から信じないたちではあったが、戦争によって大切なものを失うにつれてまるっきり信じられなくなっていった。


「オリガ、今夜食事をしないか?」


 何が背中を押したのか、イアンはオリガを食事に誘った。

 断られるとは思わなかった。

 彼女はもう拒絶しないと確信めいたものがあった。


「どこか海に面したレストランを予約しよう。君と話がしたい」


「ええ、いいですよ。キャロルのあるレストランにしてくださる?」


「ああ、いいとも。では、また今夜」


「ええ、また今夜」


 パナマハットをかぶり、イアンはビーチチェアから腰を上げた。

 以前ならオリガをアパートまで送ろうとしていただろうが、今日は引き際をわきまえた。

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