第2話 エーゼルランド島の怪物②

 各人に割り当てられた部屋に通されると、ようやくブランチャードは一息つくことができた。

 宿の部屋の中は、右手側の壁の真ん中に、大きめのベッドが一つ。その脇には抽斗のついたクローゼットが置かれていた。左手側の壁には装飾のされた大きな鏡がひとつかけられている。その手前に丸テーブルが一つと椅子が二脚置いてあった。本棚もあったが、そこには何も置かれていなかった。クローゼットの中もまだ空っぽだ。

 トイレや風呂まで中世風ではないかと勘ぐっていたが、入り口を入ってすぐのところにあるシャワーとトイレは、かろうじて現代のものだった。ホッとする。さすがにテレビは無かったものの、ある程度快適には過ごせそうだった。歓迎会までまだ余裕がある。その間に、荷物を整理することにした。鞄を開け、一通り本や資料を取り出して本棚にしまい込み、衣服をクローゼットの中にかける。少ない荷物は思ったよりもすぐに片付けられた。ベッドに横になる。

 ぼんやりと天井を眺めたあと、不意に体を起こした。窓辺に立つ。眼下に見える古びた町並み。港と違って、女性もそこにいた。裾の広がらないワンピースを着た人々が多い。貴族の女たちもいるのだろうかと夢想する。絵画やファンタジー映画の中から飛び出してきたかのようだ。そこから視線を遠くへと向けると、ちょうど、エーゼルランド北部に存在する巨大な壁が見えた。

 天を突かんとするような巨大な壁――それは、『神の心臓』と呼ばれる巨大な山だった。

 エーゼルランドに存在するあまたの伝承の中で、唯一、住民の誰もが真実と疑わぬものがある。それがあの山に、神が住んでいるというものだった。あまりに単純で、あまりに神話的。おそらくこの地の元々の神話ではないかと推測できる。あの山にいる神こそがこの島を作り、この島の祖となった。ありがちな創世神話ではある。だが、山を見ているとその雄大だが不気味な佇まいは、奇妙な現実味を突きつけてきた。まるで人型だ。山そのものに瞳が二つあり、こちらを見ているような感覚。いや、そんなことはありえない。そんなものがいるなら、それは神ではなく間違いなく怪物だ。それでも、背中に汗が伝うような気がした。

 ブランチャードは喉の渇きを覚え、山から目を逸らした。確か、飲み物や軽い食べ物は談話室にあると言っていたはずだ。鍵を手に、部屋を出る。談話室と書かれた矢印の看板に従って行くと、ちょうど廊下の中央あたりには部屋が無く、代わりに広間になっていた。年代物のテーブルが中央に置かれ、テーブルを囲んで部屋よりも豪華な椅子とソファが配置されていた。壁には暖炉まである。よく見ると、暖炉は本物ではなく本格的な暖炉の形をしたファンヒーターのようだった。こんなところでも電気は通っているらしい。そういえばシャワーやトイレがあったことを思うと不思議ではなかった。もしかすると、予想した以上に近代化されているのかもしれない。既に文化形態そのものが観光化している可能性も頭をよぎる。

 テーブルの上には蓋付きの菓子入れがあり、ちょうど初老の男が蓋を開けているところだった。中にはよく焼けたクッキーが顔を覗かせている。

 初老の男はブランチャードに気付くと、顎を覆う白い髭を機嫌良くにんまりとさせた。

「やあ、ブランチャード先生」

「ミリアムさん」

 船で一緒にやってきたミリアム・バトンだった。

 ミリアムは植物研究者で、この島に上陸することをなによりも楽しみにしていた一人だ。

「ちょうどいい。今、お茶にしようとしていたところです。淹れてきましょう」

「いいんですか?」

「ええ、隣がキッチンになっていましてな。今さっき淹れたところです。まだ湯も温かいでしょう。コーヒーは無いので紅茶になりますが」

「では、お願いします」

 ブランチャードはその言葉に甘えることにした。

 いま歩いてきた廊下の反対側には簡素なキッチンがあるらしかった。ソファに腰掛けて待つ間に、こっそりと菓子入れの蓋を開ける。バタークッキーの良い香りがした。一枚取り出す。クッキーはどうやら外の国とそう変わらないらしい。見知った匂いに安心して口に入れると、サクッとした心地良い食感がした。

「とうとう来ましたな。わしは年甲斐もなくわくわくしておりますよ」

 ミリアムは戻ってくると、ブランチャードの前にいそいそと紅茶のカップを置いた。

「ここに来るまでは、本当にエーゼルランドが存在しているのかどうかさえわからなくなっていました。ところが、いやぁ、諦めずにいるものですな」

 紅茶からはダージリンに似た、風味の良い香りがした。

「本当ならば、いますぐにでも飛び出していきたいところです」

「私もですよ、ミリアムさん」

 カップを手にすると少しだけ冷まし、口にする。

 やや渋みのある、しかし爽やかな味がした。

「ミリアムさんは、植物の研究者でしたな」

「ええ。ここは本当にガラパゴスのようです。独自の生態系があり、見た事も無い花も咲いている。見ましたか、この宿の入り口に植えてある花壇――あそこのほとんどが見た事の無い花でした。いや、少し違いますか。先にここへきた者が持ち帰った写真では、見たことがありました。その写真を見てからずっと、ずっと本物を見たいと思っていたのです。それが、あんな――まるで取るに足らない花のように植えてある! 草ひとつに至るまで調べ尽くしたい気分ですな」

 ミリアムは興奮を抑えきれないようだった。きっと誰かに話したかったに違いない。

「文明が中世で止まっているなどと揶揄する者もいますが、とんでもない。ここはまさに未知の島だ。人類によって作られ、また同時に人類に残された秘境の一つですよ」

 電話すら繋がらないここでは、撮影したものもすぐには送れない。インターネットの普及によって世界は加速しているが、衛生電波さえまだ届かないここは、いまだ神秘の秘境として存在している。

「そういえばブランチャード先生は、この島に何をしに?」

「私ですか」

「布教のためですか?」

 ブランチャードは一瞬、なんと答えたものか迷った。

「確かに、私は牧師としてここに来ましたが、純粋に、この島に興味があるんです」

「というと?」

「この島は特異な状況にあります。キリスト教の影響を多大に受けているのにも関わらず、何故か土着の神を信仰している」

「ふうむ。確かにそうですな。暮らしぶりや人々の姿は、まるでタイムスリップしたようなのに、教会だけが無い」

「この国の伝承では、早い話、あの山に神がいる、とされています。ですが……」

 ミリアムの反応を少しだけ見てから、ブランチャードは続ける。

「何度も是正の機会はあったはずです。事実、この国は言語や風習に至るまで――この建物の様式を見ても、ヨーロッパ文化の影響が見られます。そうした文化を取り込みながら――なんといいますか」

「我々の神だけがそこにいない、と」

「そう……です」

 ブランチャードは頷いた。

 これが三大宗教でもある他の宗教が入り込んでいるのならまだ理解できた。だが、そうではない。

「そうですなあ。先生の前でこんなことを言うのはなんですが、古代においての布教の際には、祭儀の乗っ取りを行ったという話も聞きますな」

 もともとキリスト教も長い歴史の中で、原住民の信仰する神や祭儀を取り込んで融合したり、逆に神を悪魔として貶めてきた過去がある。

「ええ。よくご存じですね。布教の際、簡単に言えば――現地の祭儀を融合して乗っ取りを行い、いまの形の大本ができました。クリスマスなどがそうですね……」

 ミリアムはちらりとブランチャードを見てきた。おそらくはブランチャードがそれほど怒らないことに安心したのだろう。顎に手を当てながら言う。

「なぁに、つまんだ程度の知識です。しかしこの島に関していえば、まるで土着の神の方がこちら側を乗っ取ったような……。多神教であれば神の一人とされてしまうこともままあるでしょうが、ここはそうではない。なにゆえこのような事が起こったのでしょうな」

「ええ。私もそこに興味がありまして。間違ったものが、間違ったまま正しき信仰の乗っ取りを謀り、そのまま信仰されている……どうして今もそんなことが起きているのか」

「間違ったもの、ですか。これは手厳しい。しかし、振っておいてなんですが、確かにわしも多少は妙な気分になりますな」

 ミリアムがそう言ったので、ブランチャードは少しだけ安堵した。

 この人間も間違ってはいない。間違った人間ではない。

「しかし、サリム君に聞かれなくて良かったですな。彼は若いですからな」

 ブランチャードは目を瞬かせたが、少しだけ苦笑した。

 ミリアムは爆笑し、話を変えるように口を開いた。

「さて、このあとの歓迎会が楽しみですな! どんな料理が出てくることやら!」

 ブランチャードとミリアムはしばし、未知の料理に思いを馳せた。


 それから二時間もした頃には、ぞろぞろと来訪者達が食堂に集まった。

 食堂とは言われていたが、二階分吹き抜けになった広い空間だった。左右にそれぞれ長テーブルがあり、名前の書かれた札の席に座った。

 テーブルには赤ワインと前菜が置かれていた。小魚の酢漬けとオムレツ、それからオリーブのベーコン巻きの載った皿だ。何人かが赤ワインに手を出して熱心に嗅ぎ、何事か話していた。どうやらこのあたりの地酒ではないかという推測を立てていた。

 やがてネハクトルが再び姿を現すと、拍手があがった。

「食前酒にはこの国の地酒であるハネーシャというワインをご用意させていただきました。ぜひともお楽しみください」

 彼の説明に、さきほど熱心に嗅いでいた何人かがすぐに反応した。

 思えば、こうした文化の研究者もいるのだろう。

 ネハクトルの挨拶が終わると、今度は次々と料理が運ばれてきた。歓迎会とはいうが、ほとんど普通のディナーのようなものだった。なにげなく出てきたサラダを口にしたものの、冷蔵庫が入ってきたのがごく最近らしく、まだ貴族ですら生野菜を食べた者は珍しい――という話があり、驚くことになった。普段は温野菜にして食べるのが普通らしい。メインにはこのあたりで捕れるというカモシカに似た動物の肉が使われているらしく、テーブルのどこかで声があがった。どうやらこの島にしかいない動物らしい。本当ならば保護されても良いような珍しい動物で、本物を見る前に味わってしまった、などという誰かの発言に笑いも起きていた。


 ブランチャードはカップの中の水を飲み干してしまうと、少しだけ目線を動かした。テーブルのまわりを歩き回っている給仕たちを探し、視線を送る。しかし手をあげる前に、後ろに人が立ったことに気付いた。

「どうです。水のお代わりはご入り用ですか」

「あ、はい。お願いします――」

 振り向いて少しだけ驚いた。にこりと笑っていたのは、ネハクトルだった。案内人とは言うものの、貴族に似た服装をした彼が自らそんなことをするとは思いもしなかったからである。彼は空のカップに水を注ぎながら、話しかけてきた。

「お食事は口に合いましたでしょうか」

「ええ、とても美味しいです。ありがとうございます」

「それは良かった。この宿ではエーゼルランド屈指の料理人が腕を振るっているのです。お客様へのもてなしは最大限行わせていただきます」

「おお、それはそれは……」

 本当に、国をあげての歓待ということなのだろう。

「ところで、ブランチャード様は牧師様だとか……。この国には布教に?」

「あ、ああ、いえ。そうなのですが、実は純粋にこの国の伝承に興味がありまして」

「ほう。伝承に、ですか」

「ええ。あなた方の神の話をぜひお聞きしたく」

「それは良い時においでになりましたな」

 ネハクトルはにっこりと笑った。

「実は、もう少しすると祭りがあるのです。神へ豊かな収穫を感謝し、来年の豊作を祈る、感謝の祭りです」

「なるほど。祭りですか」

「祭りでは神域でもある山に入るのですが、そのときにお客様にも公開しようということになっているのです」

「それは……祭壇のようなものがあるのですか?」

 ブランチャードは思わず目を見開いた。

 ネハクトルが頷く。

「ええ。あの山、『神の心臓』は神域であると同時に、供物を捧げる祭壇でもあります。それもあって普段は立ち入りを禁止しているのですが……」

 彼は一旦そこで言葉を切ってから、続ける。

「それ以上に、あの山は整備されていません。クマや狼が生息していますし、遭難しやすいのです。お客様ともなればなおさらです。以前、研究者の方や、布教に来た方々がお一人で入られて襲われてしまったり、遭難してしまった事件もありましてね。それ以来特に慎重に精査させて頂いているのです。しかし、祭りの時だけは少人数にでも、公開しようということになっているのです。それで、伝承に興味のある方々に向けて、手続きができるようにしているのですが」

「ぜひお願いします!」

 自分の声がうわずっているのに気付いた。


 部屋に戻ってベッドに横になる。ブランチャードは自分が予想外に高揚している事に気付いた。ワインが予想以上に強かったというのもある。ネハクトルによると、祭りは二週間ほど後に行われるようだった。本当にギリギリのところで入国できたらしい。

 ――そういえば、以前聞いた話でも祭りのことがあったな。

 年に一度、神へ供物を捧げて、収穫を喜ぶ祭り。それほど期待していたわけではない。時期があえば僥倖、というくらいだった。だが偶然にも、そんな時期にやってきたのだ。

 ――それにしても、あの山はそんなに危険なのか。

 クマや狼と言っていたが、頂上の方は岩肌が見えているし、見ただけで危険だというのはわかる。今は暗くて見えないが、星空を隠す山の輪郭がはっきりと見えた。思わず息を呑んだ。昼間に見た時よりも、巨大な人間がそこにいるように見えたからだ。見られている。目が合った気がして、しばらく目を逸らせなかった。きっと気のせいだ。首を振って、別のことを考えた。登山を強行したのは、研究者だったからか。布教に来た方々とも言っていたから、もしかすると勝手に乗り込んでいったのかもしれない。ブランチャードも、ずっと若い時であれば強行していたかもしれなかった。それとも……。考えながら目を閉じる。ブランチャードは胸躍らせながら眠りについた。

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