第11話 大切な花言葉
禊はさばさばとした女性だった。やはり大人びていて、雰囲気が凛としている印象だ。聞くと、年齢は舞桜と同じらしい。
「まあ、公園の立ち話で済ませる内容ではないわね。ついてらっしゃい」
言うと、ベンチから立ち上がり、きびきびと歩き始めた。杉原もついていく。
知らない場所を歩くのは新鮮だった。今までも何回かあったのかもしれないけれど、おそらくこの場所は初めてだろう。日も沈みかけて、夜の雰囲気に変わりつつある街を見渡す。様々な家の灯り、店の灯りがきらきらとしていて、杉原がいる街より都会というか、賑やかな印象を受ける。
そんな中、禊がすたすたと歩いていくのは閑静な住宅街だ。閑静というか、人気がない。家が建ってはいるが、誰も住んでいないような。不気味とまでは言わないが夜景を見た後だと不安には感じる。
「えっと、どこに向かっているんです?」
「もうじき着くわ」
と数メートル歩いた先で、禊は立ち止まった。
「ここよ」
そこは一軒家。けれど、なんだか仄暗くて、人が住んでいる、という感じはしない。ここに住んでいるのだろうか。
禊は躊躇うことなく玄関の扉を開けた。鍵はかかっていなかったようで、がちゃりと無抵抗に開くドアに杉原は無用心と思った。
禊について入ると、奥の方からとたた、と足音がした。人がいるようだ。おそらく幽霊ではない。お化け屋敷と呼ぶほどの不気味さはなかった、はずだ。
「お姉ちゃん、おかえり! もう、びっくりしたよー。急に出かけるっていうから」
出てきたのは杉原より背丈が少し低い男の子だった。禊と似た顔立ちをしているから、姉弟なのだろう。学ランを着ている。さして寒いとは思えない気温のはずだが、首にマフラーを巻いていた。
「ええと、お邪魔します……」
「あ、お客さん? いらっしゃいませ。特に何もないですけど、ゆっくりしていってくださいね」
杉原に対しても、急に来たにも拘らず、愛想よく笑って受け入れてくれた。というか、この対応力は自分より年下とは思えない、と杉原は感心した。
「弟の
手短に禊が紹介すると、実はぺこりとお辞儀した。
「杉原健と言います」
「実、これから魔法を使うから、お前は二階にいろ」
「……はい」
魔法、という単語に姉弟間の空気が気まずくなるのを感じた。何かあるのだろうか。
実が二階に上がっていったのを確認すると、禊は一階の廊下をすたすた歩き、蝋燭のついた居間に杉原を案内する。
そこで杉原はずっと思っていたことを口にした。
「禊さんたちはここに住んでいるんですか? なんだか電気も点いてないですけど」
「ああ、ここはただの空き家だからな。電気もガスも、水道も通ってないぞ。何なら明日には出払うし」
「ええっ?」
すんなりと紡がれた事実の数々に驚かずにはいられなかった。一体どんな生活をしているのだろうか。
「私たちは行き場がないの。魔法使いだけど紅葉寺から逃げてるしね。制服着てるけど、学校にも通ってない。名前も目立つし」
確かに実は一般的だが、禊という名前はなかなかいないだろう。
「勿忘草の魔法使いを味方につけたなら、たぶん、私のことも血眼になって探しているだろう。橘の魔法は追憶。記憶を取り戻すためのものだ。勿忘草の力を使ってやったことが水泡に帰すからな」
確かに。明葉がどういう目的で玲奈の力を利用しているのかはわからないが、相反する能力が阻害になる可能性は高い。
「……それに、実も狙われている」
「えっ、弟さんも魔法使いなんですか?」
「いいや」
禊は遠い目をして顔色を翳らせる。
「ただ、発症してもおかしくないとは思う。私たち橘の一族は唯一遺伝発症する魔法なんだ」
「遺伝発症なんて、魔法にあり得るんですか?」
「残念ながらな。ただ、橘だけの特性なのかもしれない」
禊から説明を受けた。橘の魔法は一族にしか存在しない、と。橘の血を引く者のみが橘の魔法を発症し、魔法で見てきた記憶を血の繋がりの者に受け継いでいくのだ、と。
実際、橘の魔法は橘家の者にしか発症しておらず、その橘の家も禊の家系の者のみらしい。
「これには橘の由来である古事記の物語が関わりがあると囁かれているが、それはまあさておき、だ。本題に入るぞ。
私が実を別の部屋にやったのは、魔法使いの傍にいて、魔法を行使する傍にいると魔法を発症しやすくなるからだ。そうなると、実も橘の魔法使いになり、紅葉寺に目をつけられることになる。それは避けたいから、あんたもあまり実に近づかないでおくれよ。
さて、記憶を取り戻したいんだったな。紙当てをするから待っていろ」
「かみあて?」
杉原の疑問には答えず、禊は箪笥から何やら取り出す。見たところ、障子に使うような和紙のようなものだ。それを卓袱台の上に起き、硯と筆、墨を容易する。何故か安全ピンも添えられていた。
何をしたらいいのか想像がつかない。墨と筆があるから一筆何か書くのだろうか、というくらいだ。安全ピンだけがものすごく場違いである。
「ここいら一帯は空き家だらけで誰もいないんだ。私たちは紅葉寺から逃げなければならないから、都合がよかった。誰にも目撃されなければ、紅葉寺の耳にも入らないだろうからな。
で、だ。空き家だから水道も流れていないと言ったが、水はなんとか調達できる。できれば火を通して清めたいのだが、ガスはどうしようもないな。変に一ヶ所だけ灯りが点いていても不審に思われるだろうし。
というわけで、やることはかなり簡素だ。だから記憶もあんたが印象に強く残っている部分しか浮かばないかもしれない。それでもかまわないか?」
「はい」
今彼女以外に頼める人物もいない。わざわざ奪ったのだから玲奈が返してくれるとも限らないだろう。そもそも返却できる代物でないかもしれないし。
杉原が頷くと、禊は墨を硯に垂らし、筆につけた。
「端にあんたの名前をフルネームで書きな。漢字でな」
「は、はい」
何が始まるのだろう、と緊張する。そもそも魔法に道具を使うなど初めて聞いた。紙当てという言葉の謎も残っている。
渡されたのは小さい筆だった。なるべく小さく書けということだろう、と紙の端に小さく「杉原健」と書いた。筆なんて毛筆の授業でくらいしか持ったことがないので、あまり上手くない。
ただ、上手い下手は関係ないのか、禊は何も言わず、水で墨汁を薄め、薄墨にして大きな筆を執り、紙に大きく「橘」と書いた。書き慣れているのであろう堂々として大胆な筆運び。癖のない教科書で見るような文字がうっすらと紙に浮かび上がったように見えた。
書き慣れているということはやはり、この手法をよく使っているということだろう。ただ、ここまでやっていることは毛筆の授業とそう変わりない。
そうして観察していると、禊が安全ピンの針先を出してこちらに差し出した。
「これを指に刺して、紙の上に血を垂らしてくれ。一滴でいい」
「は、はあ」
「痛いと思うが」
それはそうだろう。だが、従うしかない。
ぷつっ、と安全ピンの針を人差し指の先に刺す。少しぴりっと痛みが走ったが、耐えられないほどではない。
紙の上にぽたっと一滴落とす。すると、禊が紙に手を翳した。ふわん、と不思議な光が紙を透かし、杉原の名前と橘という文字を際立たせる。それから、禊は杉原の名前が書かれた部分を千切り、杉原の額に貼りつけた。テープや糊が使われたわけでもないのに、不思議とぴったりくっついて、離れない。まあ、剥がそうとも思わないが。
「髪に当たれ、神に当たれ、紙に当たれ」
樹文だろうか、禊が何やら呟く。どういう意味だろう、と考えようとしたところで、頭が回転させようと思った方向と逆方向に回される感覚に陥った。思考が今から未来に進むのではなく、強制的に過去に向かわされる、というか。
一瞬の間に様々なことがフラッシュバックした。杜若の魔法少女に殺されそうになったこと。花粉症シーズンは罵詈雑言にまみれること。雑木林の中で場違いに鮮やかな銀杏の木。その傍らに生える伸ばされた手。たった二人で台風に立ち向かったこと。酸性雨を止めたこと。舞桜と一緒に遊んでいたこと。美桜と初めて出会ったときのこと。母が自分を着せ替え人形にして遊んでいた昔。一歳の誕生日に父が記念写真を撮ったこと……普通なら思い出そうとしても思い出せないことまで、頭の中を駆け巡った。印象的な部分しか思い出せないかもしれないという前置きは、謙遜だったのかもしれない。
途中、妙な場面もあって、複雑な心境だが、大切なことをちゃんと思い出すことができた。
「杏也……」
あの雑木林に行くたびに、伸ばされた手を握る。その手は元は人間だったのが信じられないくらい冷たくて、凍ってしまったのかと思った。
けれど違った。あの銀杏は、どこぞの病院の桜と同じく、いつも黄葉している。黄葉というのは暖かだった空気が一気に冷え込むことで起こる変化なのである。
だから冷たいのだ。
「……思い出して、後悔はなかったか?」
「あるわけありません。大切な記憶ばかりです」
「だが、泣いているぞ」
禊に指摘され、頬に触れる。杉原は静かに泣いていた。
「これで、よかったんです。何気なすぎて忘れていた、とても大事な言葉も思い出せたんですから」
「そうか。もう忘れるなよ」
何気ない日常の一部で、杏也が杉原に語ったのはロスト討伐をした帰りのこと。
「健くんは、杉の花言葉って知ってる?」
「ええと、堅実と堅固だっけ」
花言葉は大抵のものは覚えるようにしていた。樹木草花魔法使いは花言葉によった力を持つことが多いから。銀杏も「鎮魂」という花言葉があるから、鎮魂の力を使えるのだ。
杉の花言葉は一般的かと言われると微妙だが、植物である以上、あるにはある。それが堅実と堅固。風が使えるのと何か関係があるのだろうか、と思ったが、そうでもないらしい。稀に花言葉ではなく、植物の性質が力になる魔法もあると聞く。杉は受粉を風に頼るから風使いなのだ、という説が一般的なようだ。
「ふふ、実はね、杉って花だけじゃなくて葉っぱにも花言葉があるんだよ」
葉についた言葉は果たして花言葉なのか、という野暮ったい揚げ足取りについては考えなかった。純粋な興味で「どんなの?」と聞き返すと、杏也は答えたのだ。
「杉の葉っぱの言葉はね──」
その言葉を胸に抱いて、杉原は今日も生きている。
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