第8話 顔の見えない男の、その後
翌日のこと。
「
土筆の部屋にやってきた時峰が、悔しさを滲ませた顔で、頭を下げた。
「検非違使庁にも協力を仰いで、市中隈なく捜索させたのですが……」
ただの市民相手の詐欺ではない。権大納言の花房家と中平家の者に手を出し、命を
あの晩、花房邸に戻ってきた時峰は、土筆の話を聞くやいなや、すぐに宮中に出仕して検非違使庁に掛け合った。
近衛中将の権威は、それなりに使えたようだが、それでも、実際に検非違使たちを動かして市中探索させるまでには、それなりの時間を要した。
その頃には、おそらく狐笛丸はーーー
土筆は、時峰から、あの日の中平邸での出来事について、詳しく教えてもらった。
中平邸に現れた貴匁は、通り名の「狐笛丸」を名乗り、中平殿と北の方に面会したという。
狐笛丸は、病に伏せる北の方を見るなり、これは酷い悪霊だと、すぐに祓いのようなものを始めた。
まず、皆を部屋の外に追い出すと、北の方の口を開かせ、丸薬のようなものを飲ませた。
それから、狐の面を僅かにずらし、耳元に口を寄せて、何かを囁いた。
と、北の方は、突然、大きく目を見開き、ブルブルと震えだしたのだ。
家族たちの耳には、何度も「ごめんなさい…」と繰り返し謝る北の方の声が聞こえたという。
そして、意識を失った。
狐笛丸は、その北の方を、再び横たわらせて、立ち上がると、祓いが終わった旨を告げ、さっさと出ていってしまった。
だが、終わったと言われても、北の方は明らかに失神しているし、家人たちは、何が何やらわかぬまま。
それでも、祓いが終わったのなら、そのうち目を覚ますだろうと信じて待っていた。
時峰がやって来て、狐笛丸が毒物を飲ませた可能性があると言った頃には、すでに狐笛丸が去って一刻以上が経っていた。
その頃、狐笛丸は、花房邸の庭の橘の木の上。
土筆と話をしていたところ、引き返してきた時峰が花房邸に到着する直前に、颯爽と姿を消した。
時峰が、ため息をつきながら、
「せめて、あの男の人相が分かればと思うのですが……」
あの出で立ちでは、狐面を外して、着物を変えられれたら、捕まえようがない。
仮面を外した素顔を見ているのは、土筆と菫だけ。
土筆が上手く伝えることができれば良いのだが……狐笛丸の素顔ーーー橘貴匁は、非常に印象に残りにくい、伝えづらい人相だった。
目も鼻も口も、なんとも地味で、『ありふれた顔立ち』としか言いようがない。菫に至っては、どれだけ思い出そうとしても、顔が浮かばないと言っていた。
「仕方ありません。時峰さまのせいではないのですから……」
油断したのは、むしろ土筆。
時峰から忠告され、自分も胡散臭いと思っていたにも関わらず、屋敷に招き入れて、まんまと利用されてしまった。
「それにしても、あの男の目的が、中平家だったとは……。」
時峰は呟いてから、ふと、思い出したように、
「そういえば、狐笛丸は、北の方に何かを飲ませる際、懐から包みを開いて丸薬を選んだそうですが、その際、少し迷うような仕草をしていたようです。」
土筆は、あの日の貴匁との会話を思い出しながら、
「多分……いくつかの毒薬の中から、どれを与えるか、その場で選んだのでしょう。」
貴匁は思案し、そして決めたのだ。
殺さぬことを。
「貴匁が飲ませたのは、何らかの幻覚作用のあるものだと思います。」
あの晩、貴匁は、「殺してはいない。壊しただけです。」と言っていた。
貴匁は、もともと、親に対する関心も強い恨みもなかったという。ただ、復讐なるものが遂げられれば良いと。
貴匁にとって、北の方を殺す必然性はなく、だから殺さなかったーーーということになるのだろうが………果たして、本当にそうか。
土筆は、やはり貴匁が自ら進んで、『母を殺さないこと』を選んだのだ、と思っていた。
北の方が病を患ったのは、中平殿との間に子が生まれてからだという。立て続けに、男女3人の子を産んだ。
お産はいずれも、大過なく終えたにも関わらず、その頃から、少しずつ、少しずつ、気分が沈みがちになる日が増えた。
しかも、子が育つにつれ、北の方の病は酷くなり、やがて屋敷に塞ぎ込むようになったという。
何不自由なく大きくなる子らをみていて、自分が置いてきた子のことを思ったのではないか。
その子に対する贖罪の気持ちが、北の方を蝕む病の原因だったのではないか。
貴匁も、それに気がついた。
だから、関心はなくても、ほんの少しの憐憫の情が湧いた。
彼の中の、その僅かな情が、北の方の命を奪うことを躊躇わせたのだ。
全ては土筆の推測にすぎない。
やはり狐笛丸も人の子であった……と、思いたい土筆の、希望的な推測。
「貴匁は、毒物に対する知識を相当、深く学んだようでした。」
多分、幻覚作用のある何らかの薬を飲ませ、耳元で酷い恨み言の一つでもいったのだろう。
「北の方は、目を覚ますでしょうか?」
「……分かりません。」
殺してはないといった。あとは、貴匁が何を与えたのか、そして、北の方がその薬効に抗い、自分を取り戻せるか。
時峰がブルリと身を震わせ
「本当に……とんでもない男がいたものです。」
と、ため息をついたかと思うと、何かを思い出したようで、一転、安堵に緩んだ顔で、「ただ……」と、話題を変えた。
「
時峰は、槿の君を心底、案じていた。
「あの日以来、槿の君もずっと苦しい思いをして、床に臥せっていたようですが、これで元気を取り戻すでしょう。」
土筆は時峰に、あの晩の貴匁との会話の全てを、伝えてはいない。
だから時峰は、本当に槿の君が土筆を恨んでいたことも、呪い殺すために、狐笛丸に依頼したことも知らないままだ。
言おうと思えば、言うこともできた。
だが、土筆は、言わなかった。
それは、槿の君を庇ったーーーというほど、単純な話ではなかった。
槿の君は、狐笛丸が依頼通り土筆を呪い殺さなかったことに、気が付いたはずだ。それどころか、呪いをかけたはずの当人が土筆を助けたと知り、裏切られたと思ったかもしれない。
だが、仮に土筆が狐笛丸の正体を暴かなかったとしてーーー狐笛丸が、あのまま、まるで
なぜなら、声を上げることは、自分が土筆を呪い殺そうとしたことを明かすことだから。
だから槿の君は、どんなに疑われても、ただひたすら否定し、口を噤むより仕方がなかった。
そして、それは、狐笛丸の本性が知れ渡った今でも、変わらない。
狐笛丸は、生きている。
いつ、自分が本当に、土筆を呪い、狐笛丸を頼ったことが露見するか。
下手したら、自分が狐笛丸に呪い殺され……毒殺されることさえ有り得る。
狐笛丸のこと。それくらいの脅しは、しているはずだ。
あの男に直に会っていれば、あの男の身に纏う、情のない冷え冷えとした空気に気づいただろう。あの男が、いとも簡単に、人の命に手をかけるであろうことも。
槿の君は、これからもずっと、狐笛丸の影に震える。
土筆が話して、公に非難されるのと、一人抱えて怯え続けるのと、どちらが辛いだろう。
槿の君は、十分な罰を受けている。そして、これからも人知れず、受け続ける。
結局、人を呪ったツケは自分に戻ってくる、ということなのかもしれない。
だから土筆は、そのことを自らの胸の内に留めておこうと決めた。
……のだが、なぜだか、槿の君を信じていたと嬉しそうに笑う時峰を見ていると、心の奥底に少しだけ、モヤモヤとした灰色の気持ちが湧いて出た。
土筆は、慌てて首をふると、思い切って、話題を変えた。
「そういえば……どうして、あの時、時峰さまは、アサガオの花を送ってきたのですか?」
事態がこんなことになったことで、槿の君と同じ名前の花を送ってしまった失態に気付いた時峰は、バツの悪そうな顔をして、
「……他意はなかったのです。」
本当に、早咲きのアサガオを見つけて、珍しいから土筆に見せてやりたいと、純粋に思ったらしい。
「貴女は、珍しいものが好きだから、喜ぶかと……」
槿の君のことなど、全く頭になかった。何なら、槿の君が自分の本命のように噂されていたことすら知らなかった、と言い訳がましく謝った。
すると、横に控えていたタマが、堪えきれず、「あの……」と、口を挟んだ。
「中将さま。恐れながら……あの歌は、どういう意図で送られたのですか?」
中将の送ってくれた万葉集の歌のことを尋ねた。
穂には咲き出ぬ 恋もするかも
(口に出して言ったら不吉な事が起こるといけないので、朝顔の花のように秘めた恋をしています)
「あぁ、あれは……」
時峰は、ポリと頭をかいて、
「土筆姫なら、万葉仮名を読めるのだろうと思いまして。」
「でも、秘めた恋…というのは……? 中将さまの恋は、その……十分、皆さんに伝わっているかと……。」
タマの指摘に、時峰は、「いえいえ、全然。」と、今度は少し照れくさそうに笑った。
「私はまだ、私の心の奥底に抱えた姫への気持ちの、ほんの一端しか表に出していませんから。」
だから、胸の内に、もっと多くの恋心を秘めていのだと言って、土筆の方を見た。
「それほどまでに、貴女を愛しく思っている、と伝えたかったのですよ。」
「なッ………?!」
また、とんでもないことを言い出したものだ。
さすが中将、時峰。これくらいのこと、言い慣れているに違いない。
けれど、この手の経験の浅い土筆にとっては、誂われているだけだと分かっていても、動揺してしまう。
いや、もしかして、誂っているわけではないのかしら………?
御簾のうちで、土筆が、慣れぬ色恋事に慌てふためいていることなど知る由もなく、一転、中将が暗い顔をして、
「だけど……」
と、俯いた。
「秘めているつもりでも、十分、言葉と態度に表れ出てしまっているのでしょう。私のせいで、本当に、貴女にとって、良くないことが起こってしまいました。」
なるほど、一応、態度に表れ出ている自覚はあるらしい。
時峰は、目鼻立ちの整った顔をシュンと萎ませた。
「貴女に不幸が降りかかるのは、私の本意ではありません。このようなことなら、貴女の元に来るのは、少し控えたほうが………」
「そんな……そんな事はありません。」
土筆は、思わず口をついて出た言葉に、自分で驚いていた。
御簾の向こうの時峰も、「え?」と顔をあげる。
「あっ……えっと……」
土筆は、コホンと小さな咳払いを一つして、
「中将さまが、こうしてお話くださることは、いつも本ばかり読んで過ごしていた私にとって、どれもとても興味深いことばかりです。」
「………そう…ですか?」
「はい。」
それは、本心。
それまで家の中に籠もっていた土筆の世界を、外に広げてくれたのは、時峰だ。
「だから……これからも、どうぞ、時々、こちらにいらして、私の話し相手になってください。」
確かに、あの件は、中将に思いを寄せる槿の君がいたから、起こったことをかもしれない。
それでも、中将自身に落ち度はないのだ。
だから、そんなことで、交流が途絶えてしまうのは、嫌だった。
そう。嫌だったのだ……ーーー
言ってしまってから、改めて、自分は、中将のことを、そんなにまで良き友と認めていたのだなと驚く。
「来て……よろしいのですか?」
「はい。是非お越しください。」
中将が、パッと花開いたように笑った。
「よかった………」
女なら、誰でも心動かされてしまいそうな笑顔に、思わずつられて「フフフ」と、笑う。
和やかな花房邸の午後だった。
◇ ◇ ◇
その日の晩。
花房邸、土筆の部屋よりさらに奥。三女、菫の部屋に面した小さな庭の桃の木に、一人の男が座っていた。
男は、大きな扇で顔を隠して、部屋の主に声をかけた。
「こんばんは、お姫さま。」
半分開けてあった御格子の向こうから呼びかける声に、菫はあわてて扉の掛け金を開けて、部屋の外側に出た。
「……こんばんは! 桃の精さん。」
簀子にちょこんと座った菫は、小首を傾げて男に挨拶をした。
菫と男の間には、几帳も何もない。
二人の間にあるのは、男の持つ扇一つのみ。
「最近、来てくれなかったのね。」
「こちらの家は、随分と騒がしかったようだからね。」
扇の向こうから、よく通る、耳障りの良い声。
「お姉さまの体調が優れなかったの。」
「そのようだね。ボクも噂で聞きました。」
男と会ったのは、ちょうど
ふいに聞こえた笛の音に驚いて、恐る恐る部屋の外を覗くと、この人が桃の木の上に座っていた。
その時も、男は扇で顔を隠していた。その扇を少しだけずらして、瞳を覗かせ、
「やぁ、はじめまして。貴女が、有名な菫姫だね?」
と、挨拶をしたのだ。
「……あなたは………誰?」
「ボク? ボクはまぁ……通りすがりの公達……とでも、しておこうかな。」
「通りすがりの……公達…?」
それが、菫と桃の精との出会いだった。
桃の精というのは、名前を教えてくれないこの人に、菫がつけた名だ。
それから男は、時々、こんなふうにして、菫の庭の桃の木の上に、忍んで訪れる。
顔を見せない、この人のことを、聡明な姉の土筆に相談したこともある。
けれど姉は、あからさまに怪訝な顔をした。
その反応に、菫は怖くなった。
もし、この人のことが知れたら、こうして会うことに、反対されるかもしれない。菫の部屋に見張りをつけたり、以前みたいに、自分と部屋を変わるように言われるもしれない。
それで菫は、これ以上、この人のことを話さないと決めた。
誰にも話さない。
二人だけの秘密の逢瀬。
大丈夫。
だって、こんなに素敵な人が危険であるはずないんだもの。
菫は、木の上で、扇をひらめかせている桃の精を改めて、見つめた。
桃の精は、指先の先まで、人を引き付けるような上品で優美な動きをする。本当に天上の楽園から、舞い降りてきたのではないかと思うほどに美しい。
眺めているだけで、菫の口元は自然に綻び、頬が緩んでしまう。
「桃の精さん。今日は、菫とゆっくりお話してくださるの?」
「そうだね。」
桃の精が頷いた。
菫の心が小さく跳ねた。
桃の精が言う。
「それでは、貴女のお姉様の身の上に起こったことでも、教えてもらおうかな。」
あの、陰陽師を名乗る男の騒動と、姉が鮮やかに見抜いた真相のことだ。
「ボクに語ってくれるかい?」
「えぇ。勿論いいわ。」
それなら、話すことはたくさんある。
なんせ、自慢の姉なのだ。でも………
「長くなってもいいの?」
「勿論。今日は、時間はたっぷりあります。」
その言葉に、菫の心はふわりと浮き立った。
二人で話す時間は、たっぷりある!!
なんて幸せなことだろう!!
男が枝の上で姿勢を変えた。
その動きに合わせて、男の薫香がほのかに香り、菫の鼻先をくすぐった。
静やかで、凛とした独特の香りが、菫の心を満たしていった。
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