ライフタイム

本間舜久(ほんまシュンジ)

第1話 過熱

 バブルの膨らむ間のことは、あまり記憶がない。断片的にはある。銀座でタクシーを捕まえようとすれば大変だった。銀座で捕まらず、コリドー街の方まで行く。その近くのガード下にタクシー会社があり、そこなら捕まりやすいという話があった。しかしそこにも行列がある。タクシーが使えないなら終電に乗るしかない。終電が終わったあとは、さらにタクシーは見つからなくなる。

「また、あそこか」

 フジワラは、ぼくに酔った目を向ける。街灯の白っぽい光の中で、フジワラは本当に酔っていた。そんな彼を見るのは初めてだったので、少し怖くなった。思わず「終電で帰る」と言いたくなった。

 フジワラはぼくの六年ほど先輩で、編集プロダクションの経営をしていた。いつもならぼくのような者と飲む暇などあるはずがなく、営業に、取材にと飛び回っている男だった。顎髭をふてぶてしく生やし、ときどき長い鼻毛が出ている。笑うと憎めない男だが、ラグビーを高校時代にやっていたからか体格がよく、ゴツイ印象でちょっと怖い。

 大学は麻雀で過ごし、マスコミ志望だったから、在学中から出版社や編プロに顔を出し、すでに記事を書いていた。

 そんな彼が、なぜか記者会見のときにぼくに目をつけた。当時の記者会見は、正式なものであるほど参加できるメディアは限られており、たとえば省庁で行われるものなら、それぞれの記者クラブに所属しているメディアしか参加できなかった。質問も幹事会社によって整理され、突発的な質問はまず通らない上に、下手なことをすれば、記者クラブを通じて会社に報告された。

 ぼくは小さな業界紙に勤務し、専門記者の記者クラブに属していた。フジワラはフリーランスなので、会見場に入れない。建物の外でぼくに話かけてきて「資料をコピーさせてくれないか」と言われた。問題はないだろう、とぼくは了承した。

 大したことのない記者会見で、一般紙では経済欄に一段の小さな記事になる程度のものだった。それでも、フジワラは会見で配られたわら半紙を受け取り、とても喜んでくれた。その頃、コンビニでコピーする、といったことはなかった。コンビニも大してなく、コピー機は各社にある状態だ。

「いらないので」とぼくは、自分が受け取った資料をあげたのだ。資料は記者クラブに事前に配られており、記者会見前にぼくは記事を書き上げていた。記者会見では特に追加するような発言もなかった。

 そんなフジワラから「記事を書いてくれませんか」と電話が来たのは翌週のことだった。ぼくあての電話だと、たまたま会社でワープロを前に記事を書いていたとき、上司から「内線の二番」と言われ、ピカピカ光っている電話機のボタンを押して受けた。フジワラと聞いてもすぐには思い出せなかった。

「謝礼も出ます」と言う。

 謝礼はどうでもいい。ただ、この頃、ぼくは社内で自分の書くものに自信がなく不満ばかりだったので、別の視点から原稿を見て貰うことに興味を持った。その夜に書いて、翌日、喫茶店で待ち合わせし、プリントアウトした原稿を見せた。

「いいですね」とろくに読みもせず、彼は細い茶封筒をぼくに押しつける。「中に領収書が入ってますのでサインしてください」

 1万円札が入っていた。コクヨの領収書にフジワラの社名がゴム印で押されていて、そこにサインした。

 それから何度かそういうことがあり、「今度、飲みに行きましょう」と言われるぐらいになった。もちろん社交辞令で、通常、飲みに行くことなどないのだ。それが、偶然、大使館のレセプションでフジワラとバッタリ顔を合わせ「今日こそ」と立食パーティーを抜けて、居酒屋で飲んだ。

「どうしていまの会社へ入ったんです? やっぱり記者に憧れがありましたか?」と聞かれ、ぼくはどこでもいいから書く仕事に就きたかったと答えた。

「なるほど。私はほら、『TIME』とか『LIFE』ってあるでしょ。あれに憧れてね。まあ、学生時代ですけどね。学校には行かず業界のいろいろなところに顔を出しているうちに、こうなりました」

 雑誌の世界はぼくも好きだった。だが、硬派ではなかった。タイムとかライフのような調査報道の世界は、別世界だと感じていた。かといって芸能などの方面にもあまり興味はなかった。

 原稿を頼まれ、それを届けると飲みに行くようになった。とはいえ、お互いに仕事が一段落してからなので、かなり遅い時間になってしまう。そこから飲みはじめると終電間近になる。

 朝の5時まで営業している喫茶店があり、何度かそこで過ごした。フジワラはワシントンポストとかピューリッツァー賞のジャーナリズム部門に詳しく、共通の話題はあまりなかった。沢木耕太郎と開高健ぐらいだろうか、当時ぼくが読んでいたノンフィクションは。

 タクシーが捕まらず、また、その居酒屋にいた。タバコの煙が濃く、天井が見えないぐらいだった。ぼくはタバコを吸わないのでこの環境はきつかった。フジワラは匂いのきついシガリロを楽しんでいる。饒舌で、いつかノンフィクションを書くのだと言っていた。

「読みたいですね」とぼくは、愛想ではなく、本気で彼に言った。

「ぜひ、読んでください」と年上なのに彼は偉そうにすることなく、うれしそうに水を飲みシガリロをふかした。

 彼はそれきり、行方不明になった。

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