いっとき

 母の遺影の前で手を合わせている青年がいる。供え物もかかしていないようで、仏間はきれいに掃除されていた。ただ、彼の母の遺影は笑っていなかった。


 青年はとある料理店で料理長をしている、今より若い頃から修行を積み、確かな料理技能を習得して今の地位を得ることができた。


 仕事で腕を振るった、ある日。青年は仕事の帰り道にシルクハットの老人とすれ違った。


 ただすれ違っただけではない、老人はすれ違いざまにこう言った。


「あんたには影があるな。少しわしと話をしてみんか」


 青年は不審にも不思議にも思ったが、家に帰っても特にすることがなかったのもあり、老人との話に時間を割くことにした。


「なぜ、私に影があると?」

「あんたは中学生の頃に母親を亡くしておるな」


 青年は愕然とした。まさにその時期に母親が亡くなっている。


「いっときだけ、わしは今のあんたに、元気だった頃のあんたの母親を引き合わせることができる。どうする? やってあげようか?」


 青年は老人の言葉が最初理解できなかったが、老人の目をじっと見て、嘘ではないと信じ、老人に要望を伝えて、その一概に信じられないことを頼んだ。


 翌日。


 青年が勤める料理店のランチタイムが終わった頃の、ある時間。不意に店の戸が開き、一人の女性が入ってきた。厨房から見ていた青年にはひと目で分かった。紛れも無く青年の母だ。


 ランチタイムも終わった頃で、ちょうど他の店員は休んでおり、店内にいるのは青年と青年の母の二人だけだった。


「いらっしゃいませ、ご注文は何にしましょう?」


 青年は努めて平静を装って、母親に話しかけた。老人が母親と引き合わせる条件として提示したのは、母親に青年のことを説明せずにここに連れてくることと、青年が名乗らないこと、息子だと言わないことだった。


「オムライスをお願いします」

「かしこまりました、少々お待ちください」


 青年は注文を聞くと、厨房に戻り、心をこめて鍋を振るった。


「お待たせしました」

「ありがとう」


 青年の母はゆっくり時間をかけてオムライスを食べた。


「おいしかったよ、ありがとう」


 青年の母は、そう言いながら笑って青年に代金を支払った。青年は涙をこらえ、


「ありがとうございます、またお越しください」


 と、平静だけを装って言った。


 その日、家に帰った青年は一通の封書があるのに気付き、それを開けて読んだ。それには、「サービスじゃ。お母さんの遺影を見てみなさい」とだけ書かれている。


 青年は遺影を見た。


 母は穏やかなほほ笑みを浮かべている。

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