自分が読みたいタイプの追放悪役令嬢のやり直しモノ〜やっぱ正ヒロインとは仲良しになるパターンが良いよね〜
@jordi14
舞台説明・読み飛ばし推奨
━━━━夢を見てた。
ロワイヨーム国の名門フェアネス侯爵家御令嬢アンネセサリーは、自分の人生が、どうやらあまり上手く転がっていかないんじゃないか?という漠然とした不安を感じとっていた。
王国には3つの公爵家と13の侯爵家がある。その中でも、建国当初からロワイヨーム家に仕えてきたのは4つの侯爵家で、フェアネス家はそのうちの一つだった。
まさに理想的な貴族、というべき一族だった。
代々の当主は、煌びやかな美貌と優れた能力を備え、数々の要職を歴任し、国内の羨望と憧れを受け止めながら期待に応え続けてきた。フェアネスに暗君無し、というのは、直系だけでなく、傍流の一族までが恩恵に与るほどの威光を放っていた。
派閥は作らず、どちらかといえば中立孤高を好んで各家門の調停役をする事が多いため、同じ貴族諸侯からだけにとどまらず、教会や王都民たちからも支持が高い。当然、その領民は我がとこのご主人様を誇りに思い、盲目的に崇拝するほど病的に心酔していた。
特に当代は、家督を継ぐ前にとあるロマンスの主役として話題になり、王都民の絶大な支持を得るに至っている。その時の様子は多少の脚色をされ、10年以上経った今でも、歌劇の人気演目の一つになっていた。
その美貌のフェアネス一族ながら、アンネセサリー本人は、平凡な才能と劣る外見しか持ち合わせていなかった。
一族のほとんどが艶やかな金髪なのに、アンネは赤毛の母親の血からだろうか、燻んだように暗い茶色の髪をしていた。瞳も黒に近い緑色で、三歳下の双子や上の兄二人のような、華やかな金髪碧眼ではない。
体格も、父や兄たちのしなやかでスマートな爽やかさではなく、どちらかというと重心の低い、太っているわけではないが頑丈そうな身体つきをしていた。
兄弟たちとは似ても似つかない、とは、使用人たちすら遠慮しない、彼女に対する陰口のひとつになっていた。
そんなアンネは、なんと、この国の王太子レグノ・ロワイヨームの婚約者に選ばれていた。
王家側からのたっての要請で、派閥色を付けたくないフェアネス家は難色を示したが、王命ならば仕方ない、とアンネを候補者にする事を承諾した。
感激したのはアンネだった。
父や兄たちと比べて愚鈍な自分を欲してくれた、という事実が嬉しかった。フェアネスにしてはパッとしない容姿の自分でも良いと望んでくれた王太子に、感謝した。
しかも王太子自身は絵に描いたような美少年で、利発そうな雰囲気を漂わせた王国の小太陽だった。成長すれば、ロワイヨームに相応しい貴公子となるだろう。
そんな人の未来に、自分が関わる事が出来る。
この方の力になれる自分になろう。
フェアネスとは思えない落ちこぼれの自分だけど、王太子妃の名に恥じない努力をしよう。そう思うと、無力感だけだった自分にも、力が湧いてくるみたいだった。自己肯定感が満ちていくのを、感じれた。
レグノ殿下、わたしの希望。
その輝かしい未来も、すぐにへし折られる事となる…。
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婚約が決まった7歳から、通常の淑女としての教養に加え、王妃教育も叩き込まれた。
単純に計算して、普通の貴族令嬢の倍の勉強量だ。とてもじゃないけれど、愚鈍なアンネにはついていくのもやっとのこと。
自分の人生を犠牲にして必死に食らいつくも、すぐに落ちこぼれ、家庭教師の子爵夫人から、何度も何度も鞭で打擲された。
寝る時間を削って、吐きそうになりながら遅れた分を取り戻し、それでも全く足らずに翌日また叱責され、鞭で打たれ、更に積み上がった学習内容に押し潰される。
本来なら自分ひとりしか生徒は居ないのだから、自分に合わせた早さで教えてくれればいいはずだ。だけどそれでは、幼学校進学に間に合わないからと、容赦をしてくれない。
「貴女のお兄様方や従兄弟の方々は、こんな程度で躓いたりしなかったというのに…」
という呆れを含んだ嘆きの言葉は、子爵夫人の口癖のようになっていた。それを聞くたび、アンネは自分の哀れな脳みそを悲しく思った。何一つ出来ない自分が情けなすぎて、涙が出てくる。
(このままじゃ王太子殿下にも、父や母や兄たちのように失望をされてしまう…)
焦燥感に襲われ、ますます自室に篭って勉強する時間が増えた。
9歳になり、王都の幼学校に入学した。
王都に邸宅を持つ大貴族や有力貴族の子供たちが通い、将来の国家の中枢を担う幹部候補生の卵として共に学んでいく。王太子も、同じように一生徒として入学していた。
アンネは、レグノ殿下と逢える喜びで幼学校進学を心待ちにしていたけれど、実際は講義の合間に一言二言挨拶を交わせるくらいの交流しか持てない。
それでも、わずかに自由になれる時間は仔犬のようにレグノ殿下の元へ参じ、敬愛と忠誠を捧げた。殿下も心から慕うアンネに満足しているのか、アンネが来れば近くに招き、周りにもアンネは特別な存在だと公言してくれていた。
アンネはそれだけでもう感激し、ますますレグノ殿下に傾倒していった。
が、幼学校で学ぶ事と王妃教育で学ぶ事は、全く違っている。放課後はレグノ殿下たちと交流を深める時間など無く、即座に帰宅して、寸暇を惜しんで勉学に励む生活になってしまった。
アンネにとっては、唯一自分を求めてくれる大切な人と親しくなれるだろうと期待していたのに、結果、自分の愚鈍さで思ったように時間が取れず、名残惜しいまま毎度帰路につかなければならない。
当然のように、同じクラスの子たちとも仲良くなれるわけもない。ただただひたすらに、勉強だけを悲壮な顔してやりながら王太子殿下にまとわりついてる可哀想な子、と思われていた。
更に悲惨な事に、学期末の学力試験で、あれほどこれみよがしに勉強をやってみせているアンネの成績は、百人ちょっとの生徒数で総合14位という、優秀ではあるけど微妙な順位に終わっていた。その後も王妃教育との並行で疲弊し、トップ10にすら入れないどころか、最終的には30位近くまで順位を落とし、幼学校の五年間を卒業する。
フェアネスの令嬢が、だ。
同級生は、王都に住む上級貴族の子女たちだ。当然、フェアネス家と同格の家の子も居る。
その子たちが家に帰り、自分の親に何と言うか。そしてそれを聞いた口さが無い貴族の男たち女たちが、大貴族然としたフェアネス侯爵家に対し、どう思うか。
アンネの存在は、それだけでフェアネスの恥と見做されるようになり、主人を貶められる要因となったアンネを、執事や侍女といった使用人たちが更に嫌悪していくようになるのも、自然な流れだった。
それでもアンネは、ひたすらにひたむきに努力していくしかない。陰口が聞こえてきても、抗議してる暇なんて無い。
物理的に、無い。
いつの日か、王太子殿下の隣りに立つのだ。
それに足りる自分に、ならなければならない。
報われる日が、来てくれるはずだ。
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幼学校を卒業した貴族の子弟たちは、その後王都の王立学園に集められ、高等教育を施される事になる。
これには王都に住む有力貴族たちだけでなく、各地方の幼学校に通っていた男爵や子爵たちの子も含まれる。ほとんどが付き人を伴った寮生活で三年間の貴族教育を受け、その後の領地経営や国家経営に携わっていくことになっていた。
この三年間は、貴族としての立身を掴むためでもあるし、パートナーを探すためでもある。将来的な社交での予行演習のような、小さな社会を築いていた。
学園では建前上、身分の差は問わず公平に学びの機会を与えられる、と謳っている。が、地方出身と王都出身は外部生、内部生と呼び合って区別され、特に内部生の中の高位貴族の子弟たちは、代々少数精鋭のサロンを結成して、学園内での自治を司る憧れとなっていた。
フェアネス侯爵家令嬢アンネセサリーも、当然、王太子と共にサロンのメンバーに選ばれた。
今年は王国の小太陽とその妃候補が入学してくるという、期待に輝いている世代なのだ。先輩方も心待ちにしていらした。
なのにアンネは、その自身に注がれる視線を、心ならずも早々に裏切ってしまった。
王妃教育が終わったアンネには、王太子妃候補、つまりは次期ロワイヨーム国王妃としての公務がのしかかってきたのだ。
王立学園の自治などにかかずらわっている時間は、愚鈍なるアンネには、とてもの事だが取れるわけがない。
学園の自治活動にはほとんど参加せず、そのくせ華々しい催し物の時だけ、ちゃっかりと王太子殿下の隣りに座る。学業が特別優秀というほどではないし、見栄えも大してずば抜けているわけでもない。
ただ、フェアネスの家に生まれた、という価値だけの女。
「それも怪しいわよね(笑)」
学園内や貴族間の噂話、果ては口さがないフェアネス家のメイドたちまで、公然とアンネを嘲笑していた。
フェアネスらしくない、という致命的な一点で、アンネはフェアネスに対する嫉妬と羨望の吐口、程のいい中傷する的に据えられた。
なのに、その陰口すら、アンネの耳には入らないのだ。確かにほんの少しは入る。わざわざ面白がって御注進してくる生徒もいたりするからだ。
だが基本的に、学園には講義中しか居らず、終わればすぐに王城へ出仕して遅くまで公務に専念し、また授業を受ける時間のためだけに学園に通う。陰口の相手してる時間がそもそも無いし、わずかに耳にした侮辱も、アンネ本人が「確かにそうだ」と素直に頷く内容だから、腹も立たない。
自分自身情けなくはあるが、同級生たちの嘲笑なぞ心底どうでもいいのだ。それより目の前の書類を、少しでも片付けていかなければならない。
いつしか、休み時間にレグノ殿下の元へ通うのも無くなっていた。
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その少女の存在に気づいたのは、ニヤニヤといやらしく笑うクラスの女生徒たちに差し示されたからだった。
どうやら優秀らしき王太子殿下は、アンネと違って学業公務をなんなくこなした上で、三年間の学園生活も謳歌していた。
友人側近に囲まれクラスの中心となり、学園のイベントや催し物で評判を呼び、名声を得、すでに人気は貴族間のみならず、王都の民衆たちにも広がった王国の希望となっていた。
その王太子の側に、小柄で無邪気な少女が侍っていた。
(……誰?)
という疑問は、したり顔の女生徒が答えてくれた。
フィーユ・シャルマン男爵令嬢。
近頃頭角を顕してきた新興の地方貴族で、王都に住まない成り上がりながら、王家の覚えも悪くないらしい。
フィーユ嬢は外部生ながら学業も優秀、屈託無い可愛らしさだけでなく、しっかりとした意見も言える爽やかな少女として、レグノ殿下から目をかけられているそうだ。
なんでも、内部生と外部生のいがみ合いから、一年目二年目と当初は衝突していたのに、お互い競い合っているうちに認め合うようになって、今では内外の架け橋として、学園の皆から期待される関係になっているとか。
(知らなかった…)
自分の預かり知らぬ間に始まった彼らだけの物語は、もうどうしようもないとこまで進んでいたのだ。
(じゃあ私は、どうしたらいいの…っ?!)
レグノ殿下を盗られる、そう気づいた途端、焦燥に駆られ、冷や汗がドッと噴き出した。
視界がグルグルと眩むように回り、心臓がバクバク早鐘を打つ。思わず、理性も何もかも無くして飛び出してしまっていた。
「殿下っ!!」
悲痛な叫び。向けられる数多の視線。件の男爵令嬢は、怯えて目を見開いている。
だがそれらは一切、アンネの目には入らず、ツッと流して向けられたレグノ殿下のえもいえぬ冷たい視線に、(あ…っ)と絶望へと叩き堕とされた。
あの目、知ってる…。
誰よりも、痛いくらいに。
奈落の闇で、呼吸が止まった。
もはやわたしの言葉は、存在は、レグノ殿下にとって無意味なゴミとなったのだ。
自分が与えられた仕事をこなせぬまま生きあぐねている間に、レグノ殿下の中で存在価値を失っていたのだ。
そう、フェアネス家で両親や兄達から向けられているのと同じ、侮蔑の対象に成り下がってしまっていたのだ。
視界が、暗転した━━━━━━━━━━━━
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気がつけば、見慣れない天井だった。
あの後昏倒し、介抱してくれた事務員たちの手で、学園の医務室に寝かされていたようだ。
重い頭を抱えて、のそりと起き上がる。医務官からは、疲労が蓄積した貧血だろう、と言われた。しばらく安静にして休みなさい、と。
(休めるわけ、なんてない…)
額に手を当てつつ窓から外を見れば、もう日が暮れているようだ。あの男爵令嬢は気になる。それ以上に、王太子の心持ちが危惧される。
しかし直近、今日やり損ねた公務の事務作業をどうしたものか、悩ましい。
公務に穴を空けたのだ。それを取り戻すのに何日かかるのか。要領の悪いアンネセサリーでは、持ち越した仕事と当日の仕事ですら、どこから手をつけたものか困惑してしまうのだ。
だから遅れを解消するため、寝食を削らねばならない。
安静になど、していられるものか。
なんやかやで、数日学園を休んで、公務の処理をした。
王太子と件の令嬢がずっと気になっていたため、いつもより更に効率が落ちて、遅れに遅れた。幸い食欲もわかず、眠る事も出来なかったため、効率の悪さはその分の時間を充てて、なんとかカバーした。
それでも脳に栄養がいってない上に余計なことも考えていたから、小さなミスをいくつか起こし、その修正でまた時間を取られた。
ようやく事務作業が平常に追いつき、久しぶりに学園に向かった。今度は週巡りで抜けた学業の埋め合わせをしなければならない。
だがそれより真っ先に、アンネセサリーには確認しなければならない事がある。
そう、王太子の事だ。
いつもなら予習復習で必死になる休息時間に、隣りのクラスの王太子の元へ向かった。
が、居ない。
どちらへ?と近くの令嬢に訊くと、クッと鼻で笑うそぶりを見せて「いつものところですわ。お邪魔するなんて野暮な事は、およしになられたら?」と言われた。その令嬢の視線を追った先に、第一と第二教棟の間の中庭で、仲睦まじく寛ぐ男女の姿。
いつものところ━━━━。
そうなのか。もう皆が、あれをそういう認識で見ているのか。
自分は用無しになった。分かっていた事だ。
フェアネス家の落ちこぼれなど、王太子には相応しくない事など…。
嫌だ!捨てられたくないっ!!
けれど、今更すがりついたところでどうにもならないのは、アンネは自分の家の中での人間関係で、痛いほど身に染みて理解している。
それでもあきらめきれない。王太子殿下は、一度はわたしを必要だと言ってくれた人なのだから。
女生徒たちの制止を振り切って足早に階下へと駆け降り、学園の内外部生たちが温かく見守って取り巻いている輪の中に、ズカズカと土足で乗り込む。眉を顰め、軽蔑の視線を送ってくる数多の目が痛い。
それでもアンネセサリーは、言わねばならない。
「殿下、わたくしという許嫁が居ながら、他の女生徒と近しくなされているのは、どういう御了見でしょうか?」
嫌味ったらしく詰ったアンネを、王太子は呆れたように一瞥し、
「学園内での生徒同士での交流は個人の自由だろう。君は許嫁といえど、他人が口を挟むものではないんじゃないかい?」
少し馬鹿にしたため息と共に、嘲笑った。
「わたくしは…っ!」
あなたの妃となるべき者ではないのか?それを他人というのか?
ぐっと唇を噛み、
「そちらの女性が、殿下の近くに侍らせるに相応しいお方だとは思えませぬ」
「それを決めるのは僕だ。君じゃない」
絶望。
忠告もお願いも、アンネの言葉はもう王太子には届かない。
自分の考えをしっかりと持った立派な王国の小太陽は、許嫁の情に絆されて意見を曲げるような不義はなさらないそうだ。
取り巻いている生徒たちが、ヤンヤヤンヤと喝采を送る。
居た堪れなくなったアンネは唇を噛んで、下を向いた。
悔しさと屈辱と、それ以上の情けなさで、ワナワナと色が変わるほど強く握り締めた拳を震わした。
キッ!と、憎々しい件の令嬢を睨みつける。
令嬢は一瞬、ビクッと肩を飛び跳ねさせ、しかしすぐ気丈にも、こちらを見つめ返してきた。
━━━━貴族らしくは、ない。
どちらかと言えば純朴。学園での一、二年間でも垢抜けしきれていなくて、小柄で華奢で、それでいて芯の通った眼差しをしている。
そんな男爵令嬢を庇うように、王太子とその側近候補の貴公子たちが割り込んで背に隠して、全員でアンネをギロリと睨みつけて威嚇してきた。
「フェアネス侯爵令嬢、あなたはもっとご自分の立場を考えられよ。身分の権勢を笠に着て弱き者を詰るなど、未来の王太子妃がやられるような事ではありませぬぞ」
王太子の側近のひとりが、凛として宣言する。
言下に、「みっともない」と侮蔑を含んで。
(あぁ、彼らの中では、わたしはとっくの昔に悪者になってたんだな…)
諦めよりも徒労感が、暗澹たる心にドッとのしかかってきた。
「そのようなつもりはありません。お話しがしたいだけです。わたくしは」
何も、知らないのだから━━━━。
言葉をつまらせるとほぼ同時に、予鈴のチャイムがカーンカーンと鳴った。
時間切れとなり、ゾロゾロと次の講義に向けて立ち去っていく生徒たち。王太子とその側近たちも、男爵令嬢を守るようにこの場を後にしていった。
惨めさいっぱいで残されたアンネセサリーは独り、トボトボと講堂に向けて重い足を引きずっていくしか、出来なかった。
翌日から、なんとか王太子殿下と話し合いは出来ないものかと、あの手この手で縋りついた。
しかし、側近たちの妨害に遭い、王太子からもあからさまに避けられ、休み時間の少ない猶予では、全く上手くいかない。
どころか、アンネセサリーの邪魔によって王太子殿下と男爵令嬢との憩いの時間が阻害されていると、アンネは関係のない生徒たちからも白い眼で見られるようになった。
学園全体が、ふたりの関係を応援しているのだ。高等部入学から二年以上かけて、彼らの物語はゆっくり丁寧に積み上げられてきたのだ。
いまさら悪役にしゃしゃり出てこられても、迷惑でしかない。
━━━━少しは空気読んで大人しくしとけばいいのに。
王太子を追いかけ回すアンネセサリーを、生徒たちは冷ややかな目で軽蔑していた。
フェアネスの出来損ない。
あれが王太子妃、ましてや将来のこの国の王妃になるかと思うと、怖気が走る。
そんな風に、皆がアンネセサリーに嫌悪を抱き出した頃、アンネが学園から長期で姿を消す事になった。
なんという朗報!
学園は再び、王太子と男爵令嬢のグループを中心とした、穏やかな日常を取り戻したのだった。
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政務で大問題を抱えたアンネは、ひとまず学園を休んで、問題解消に全精力を傾ける必要に駆られていた。
十数年前に発見された、世界の極限にある亜人の国と、ロワイヨーム王国は交流を図って少しずつ易路を広げていっていた。
お互いに珍しい物品同士を売買し、交易はなかなかの利益を上げている。
だが根底に、未開の僻地の野蛮国だろうという意識があったのだろう。やり取りが増えるにつれ、徐々に、王国側の傲慢さが顕になっていった。
結果、王国は貿易で大損害を叩き出した。
そしてその解消に動いた外交上でも非礼をしでかし、亜人国から断交を宣言されてしまう。
それでもまぁ所詮は未開の亜人国、と軽視した王国は、別の国々との交易路を亜人国の干渉で細められてしまい、それまで世界で優位に立てていた制海権を圧迫される事態に陥いる大失態を演じていた。
ほんの少し前まで国を鎖ざしていたような亜人国家にしてやられたロワイヨーム王国は、事態の収拾に外交力の全てを注がざるを得ない羽目になった。
アンネはその手伝いに、資料集めやら情報集め、使者の歓待その他、求められるあらゆる裏方の雑用を担わされた。
国家の難事に、激務に追われる官僚たちの補佐をする。
彼ら実務者たちに比べれば、学生身分で遊んでいるだけのアンネセサリーは、時間が余っているだろう。ならば、それくらいはやってもらわなければ困る。
そうしてアンネは、将来の王太子妃として課せられた責務を全うするため、積み上がる業務を必死にこなしていった。
だがやはり、愚昧な脳みそだ。学園を休んで十分に確保したはずの時間でも足りず、亜人国の礼儀作法や流儀を調べて学ぶだけにも手こずり、交渉に交渉を重ねて問題解決に漕ぎ着けるまで、最終的には半年以上の日数がかかってしまった。
ようやく王国の損害を最小限に抑えつつ、亜人国側と手打ちをして新しい調印式を行えたのは、もうじき年も明けようかという、冬の頭の頃になっていた。
(もう少し調整をつけてから学園に戻ろう…)
亜人国とは、お互いの文化的価値の齟齬から行き違いが生じないよう、それぞれに外交使節団を置くようにした。相手との交渉前に、出先機関と接触してから事に当たる。もう先のような、無駄なこじれは御免だ。
その亜人国との交渉窓口役を、アンネセサリーは若輩ながら国王から命じられた。押し付けられた、とも言っていい。
他の閣僚大臣有力貴族たちはまだ亜人国を敬遠し、またはいざこざ時の無礼への憤りもあり、貧乏くじを引きたがらなかったのだ。
アンネセサリーとしては、早く面倒な残務処理を終え、業務を安定化させなければならない。その上で、亜人国との交易管理の役職を、旨味のあるものにする必要があった。
(今のままじゃ、成り手が全然居ないもの…)
違法な事は論外だけれど、役得を何か作れれば、愚鈍なアンネより優秀な人物が、亜人国との交渉役に就いてくれるだろう。王国と亜人国のためにも、それは最優先で構築しとかなきゃね。
━━━━この利益誘導の手口がどういう事態を招くか、アンネの軽い頭は気にしようともしなかった。
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学園に戻ったアンネには、一つの目論見があった。
王太子とのこじれた仲をどうにかしたいが、あの日から半年以上が過ぎている。とてもじゃないけど、現状を改善出来るとは思えない。そこまでアンネは鈍感ではない。
何を言ったところで、王太子殿下やその側近たちには届かないだろう。
諦めることなんて出来ないけど、とりあえず今のところは、諦めざるを得ない。
代わりに目をつけたのが、例の男爵令嬢だ。
アンネが不在の間、学園内外でのレセプションやイベント式典で、レグノ殿下のパートナーを務めたのが彼女らしい。
僻目だという事を差し引いて見ても、王太子殿下の隣りに立つに相応しいとは思えない。だって彼女は、下級の地方男爵令嬢にすぎないのだから。
王侯貴族の礼儀作法など、学んではいないだろう。
(わたしなら、曲がりなりにも十年のキャリアがある)
愚鈍だから、洗練されたものとは言えないけれど、一通りは知っている。
それを、彼女に教える。
そうだ、王太子殿下たちから距離を置かれている現在、彼らにこれ以上見捨てられないためには、自分が有用な人間だと思ってもらわなきゃならない。使える、と思ってもらわなきゃいけない。
━━━━彼女の教育係になれば、必要だと思ってもらえるんじゃないか?
もうアンネセサリーの王太子妃候補という肩書きは名ばかりのようになっているが、レグノ殿下に近侍する人物を育てる立場としてなら、価値を認めてもらえるかもしれない。その知識は、ある。
アンネは件の男爵令嬢の事を調べ、事あるごとに彼女に接近し、様々な忠告や指導をするようになった。
休み時間だけでなく、授業でも女生徒のみの淑女教育の時などは、いちいちお節介をかけて上級マナーを伝えようとした。
だが、当然上手くいかない。
なにやら必死なアンネセサリーの姿は嘲笑の的となり、邪魔をされる。男爵令嬢自身が警戒する以上に、彼女を守る他の生徒たちが少しでも近づいたアンネを威嚇し、すぐ王太子グループに通報して助けを呼ぶ。
そのたび、即座に現れた王太子派の貴公子の誰かがアンネを追い払い、激しく警告を口にして男爵令嬢を逃してしまう。
結局アンネは、男爵令嬢にマナーを教えれないまま王太子によって遠ざけられ、本来自分が立つはずの式典のレグノ殿下の隣りで、男爵令嬢がはしたなく無邪気に笑い、喋り、手を叩きモノを口にする姿を目にする事になった。
(あれでは殿下の名声、果ては王国自体の評判に傷がつきかねない…)
学園内での式典なら最悪、問題は最小限に納められる。だが王太子が祝辞を述べたりする会であれば、外部の耳目が入るかもしれない。
その時に、あの男爵令嬢が今の振る舞いのまま隣りにいたなら、侮られる。
アンネセサリー本人が、これまで散々痛感してきたのだ。フェアネスの令嬢がこの程度か、という嘲けりが、どれほどの傷になるか。
同じ目に、遭わせたくない。
アンネはそれ以降もしつこく、男爵令嬢に付き纏った。多分に自分の都合ではあるが、男爵令嬢のためでも、王太子殿下のためでもあるのだ。わたしはあなたたちにとって、有益な人物なのですよ?
そうしていたある日、逃げてばかりの男爵令嬢が意を決したようにアンネの顔を真っ直ぐに見つめ、向き合おうとする時が訪れた。
あぁ良かった、まずはここからお話しを、とアンネがその手を取ろうと気を抜いた瞬間、男爵令嬢のご友人たちが即座に彼女を守るよう壁となって立ち塞がり、王太子の取り巻きの貴公子がアンネをドンッと突き飛ばした。
「あなたの行動は目に余る!ご自身の身分の高さを笠に着て目下の者に嫌がらせをするなど、それが淑女のやる事か!」
そんなつもりは…っ、と反論しようとしたが、自身に突き刺さる数多の白い目に、息を飲んだ。
自分はここまで敵視されているのか。愕然とした。学内の生徒が、全て男爵令嬢側の味方に付いているみたいだった。
誤解だ!と言い訳しようにも、男爵令嬢や王太子側からすれば、誤解でもなんでもない。男爵令嬢に付き纏うのをやめろ、というのだから。
サッと血の気が失せ、アンネはすごすごと逃げ出した。心が折れ意気消沈したアンネは、数日にわたり王城の仕事部屋に引きこもった。
吐き気と胃痛に悩まされながら、現実から目を背けて逃避するように、積み上がった学業と公務の課題に没頭した。
あそこにはもう、わたしの居場所は無いんだ━━━━
焦りと不安に、心が蝕まれる。涙が滲む。
その闇を誤魔化すように、ただ日々が過ぎ去ってくれるのだけを、怯えるようにして望んだ。
学園を卒業すれば、王太子殿下と式を挙げる。実務には、あの男爵令嬢を伴うのかもしれない。だが、わたしは国が決めた王太子妃候補だ。
名ばかりでも王太子妃という肩書きさえ得られれば、またわたしも呼吸が出来る時が来るはずだ…。そう信じて。
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冬休み前、年末プレ晩餐会の招待状が届いた。
内部生と、一部成績優秀な外部生たちが招かれ、将来の舞踏会などの模擬練習も兼ねた学園で一番華々しい行事だ。
だが、招待状を見て、アンネは失望するしかなかった。
アンネセサリーはこの国の最高位に近しいフェアネス侯爵家の令嬢だ。このレベルの身分の子弟は、プレ晩餐会から更に一段階上の、特別に選ばれた者だけが参加出来るサロンにも呼ばれるはずだった。
去年一昨年は、アンネは王太子妃候補として、当然そちらの招待状も受け取っていた。
それが最終学齢の今年、同封されていない。
どころか、プレ晩餐会の案内状自体が、外部生向けのと変わらない、単色のオーソドックスな定型文のものに格下げされているのだ。
━━━━パートナー同伴不要の、一招待客の扱いに。
ここまで侮辱されなければならないのか?とアンネは陰鬱たる気分に落ち込みながら、それでも形だけでも未来の王太子妃としての立場から、欠席するわけにもいかなかった。
(どこで間違えたんだろう?)
いっそあの男爵令嬢にこの立場を譲る事が出来ていたならば、王太子妃候補の義務から解放されていたかもしれない。
いや、後悔しても詮ない事だ。わたしは王太子殿下に与えてもらった居場所に執着していたのだから。
王太子殿下の心はわたしから遥か遠くに離れてしまっている。取り戻す術など無い。
このまま忌避されたお飾り妃として生きていくのか?
かといって、実家にだって自分の居場所は無い。フェアネスの家の中では、使用人たちにすら厄介者扱いされているのだ。
学園卒業後に予定通りに王太子妃になれなければどうなるのか、それを考えると、意地でも今の立場にしがみついておかないといけない。
式典の時にだけ着るいつものドレスを手にし、アンネセサリーは覚悟を決めた。
どのような侮蔑を受けようと、プレ晩餐会を耐え忍んで乗り切り、学園を卒業し、実家を離れ王家に入る。
名ばかりお飾りで構わない。王太子殿下との結婚生活など、無くても仕方ない。自分に魅力なぞ無いのは、十分すぎるくらい知っている。
でも王家に入りさえしてしまえば、今までのような学生の片手間でさせられていた雑務とは違う、正規の公務を扱わしてもらえるはずだ。そこに僅かな隙間でも、自分の居場所を作りたい。
亜人國から友好の証としてアンネ個人に贈られた翡翠の首飾りを、祈るようにギュッと固く握り締めた。
これ以上は悪くならない。これが底辺だ。学園生活は失敗に終わったが、ここからは努力して少しずつ這い上がっていくんだ。
きっと…。
実家の馬車にすら乗らず、友人たちと連れ立つこともなく、寮から独りでパーティー会場に向かう。受付の衛士に招待状を見せると、事務的にホール端の一般招待客のテーブルに通された。
周りは全て外部生や学園関係者たち。侯爵家の、しかも最終学齢の令嬢が案内されるようなエリアではない。
案の定、浮いてるアンネは陰口と噂話の格好のネタになった。クスクスと笑い声があちこちから聞こえる。内情をあまりよく知らない来賓の招待客たちが、腫れ物に触るような居心地悪そうな目で見てくる。
アンネとて王太子妃候補の立場で外交の宴を経験してきているから、社交が出来ないわけではない。だが公務でない今、何をどう取り繕って周りと交わればいいのか分からない。
なるべく惨めな思いを感じられずに済むよう、壁の花となってジッとしている。
(口の中が乾燥してベタつくわ。何か飲みたいけど…)
給仕ですらアンネに近づいて来ない。仕方なく、自分で取りに行く。それすらも、チラチラ野次馬してくる外部生徒たちの嘲笑のタネとなった。
グラスに入ったレモン水で、少しずつ唇を濡らして時が過ぎるのを耐えていると、会場中央の大階段を降りてきた主催者たちにより、パーティー開演の挨拶がなされた。
王太子の隣りには━━
(え、居ない…?)
不思議な事に件の男爵令嬢は伴われておらず、王太子の側近の侯爵令息や伯爵令息、公爵令嬢などのサロンメンバーのみが主賓になっている。
気づいて見渡してみたが、招待された外部クラス生にも男爵令嬢は居ない。
なんで?と思ったが、同時にゾクゾクッという暗い歓びが背筋を駆け上ったのも否定出来ない。ザマァ見ろ、という澱んだ悪意が、一瞬だけアンネの溜飲を下げたのも、否定出来ない。
だが直ぐに、自分のその感情を後悔する事になる。
ゆっくりと手を振りながら会場を見廻した王太子は、アンネに目を留めると、
「アンネセサリー・フェアネス侯爵令嬢!」
と名指しし、此処へ、と壇上へ上がって来るよう促した。
ドキッとした。えも言われぬ歓喜に高揚した。
同じ意味に受け取ったであろう外部生たちの、驚いた表情が気持ちいい。
いそいそと、会場の中央へ進み出る。つい紅潮した頬が弛む。
「アンネセサリーフェアネス、お招きにあずかり罷り越しました」
ちょんっと優雅にカテーシーを示し、王太子殿下に敬愛の眼差しを向ける。
王太子は少し間を置き、
「……なぜ自身が呼ばれたか分かるか?」
重く、低い声。
(え?このパーティーのパートナーにわたしを選んで下さった、んでしょう…?)
王太子たちの表情からくる違和感に、アンネセサリーはちらりと不安になった。
「フェアネス侯爵令嬢!貴殿の身分を傘に着た数々の問題行動、王太子妃候補という立場を利用した様々な悪逆行為は目に余る!よってこらよりその罪を暴き、綱紀の粛正を行う!」
え?え!?え??!
高らかに宣言した王太子の言葉が、アンネはひとつも理解出来ない。一体何をおっしゃられているのか?
訳のわからぬまま混乱し戸惑っているアンネセサリーをよそに、王太子の側近の文官貴公子が文書を手に、アンネの罪状を読み上げていく。学園内で同学年の女子に対する各種嫌がらせを暴行傷害と言い、公権を恣にして私利私欲に走った、という。
「特に、亜人國との癒着で私腹を肥やした汚職は国家叛逆に匹敵し、看過できるものではない!」
アンネが任じられた亜人國饗応官の地位を、まるでアンネが食い潰していく利権のように断じられた。
「そんな、まさか!無茶苦茶な…っ!」
アンネは国に命じられてやむなく就いただけの役職だ。しかも重要かつ激務なコレは愚昧なるアンネには荷が重すぎるため、早目に誰か優秀な事務官に引き継ぎたいと思ってる仕事だ。
「そのような公職でわたくしが汚職するなど、あり得ぬ話です…っ!」
必死に否定する。この公の耳目が集まる場所で、言いがかりで貶められるのはマズい。そもそもの味方の居ないアンネには致命傷だ。
「まだ、そのような言い逃れをされるか…」
のそりと王太子の後ろから進み出たのは、辣腕と名高い新進気鋭の若手宰相だ。アンネにとって最悪の相手だった。
「ここに全ての証拠が揃っておりますよ。貴女が亜人國饗応官に利益が集中するよう画策した一部始終がね。よくこれだけ阿漕に金を掻き集める仕組みを作ったものだ」
と、くっくっくっと笑う。
「いや、それは…」
国の役職手当として別段何も不思議ではない、どこの部署でもやってる事じゃないか!むしろ他の部署の方があからさまな役得を享受している。アンネは陰に陽に、大量の公文書を処理してきたから知っているのだ。
「亜人國饗応官になるには、それくらいの旨みが無いと誰もやらないでしょ!」
この悲痛な叫びが、アンネの致命傷となった。
ザワッと会場の空気が変わった。
━━━━王太子妃候補自らが私腹を肥やしていたのか
瞬間、自分の失言に気づいたアンネはサッと一気に血の気が失せ、すぐ周囲へ言い訳を言い募った。
「違…っ、饗応官は重要な仕事で、わたくしの手には余るから、どなたか相応しい方に引き継ぎたくて、でもやってくれる人が居ないから、やって貰えるように饗応官の手当を厚くしようとしてただけで…っ!!」
醜く無様な自己弁護。会場の空気が冷えていくのが分かる。それまでの馬鹿にしたような嘲笑と違い、アンネへの不信感、忌避感が広まる。
「そうして亜人國と癒着した証拠が、コレですな」
宰相がアンネの首元に手を伸ばし、翡翠の首飾りを引きちぎった。
「返して!それは…っ!」
アンネが唯一、自分の仕事の成果として、相手側から贈られた大切な品だ。たった一度だけの、感謝の手紙と共に与えられた思い出だ。
「調査協力のために提出して頂きましょう」
すがるアンネを片手で押し退け、宰相は翡翠の首飾りを衛兵に預ける。
(なにが調査よ!単なる私怨での嫌がらせじゃない!!)
悔しくて涙が出た。
だが泣き崩れる間もなく、王太子殿下が高らかに宣言する。
「アンネセサリーフェアネス!たった今この場において、ロワイヨーム王家の名のもと王太子妃候補の資格を剥奪する!及び、職権濫用国家背任の罪で逮捕する!連れて行け!」
王太子の威厳に満ちた堂々たる命令を受け、控えていた衛兵がアンネセサリーを取り押さえて引き摺るように連行する。
「待って!嘘よ!話しを聞いて!わたしは嵌められたの!信じて!」
ぶわっと浮き出た脂汗で額に髪をへばりつけ、アンネは半狂乱になって弁解した。見捨てられるどころの話じゃない。存在を抹殺されようとしているのだ。身の潔白の申し開きなどではなく、慈悲にすがる命乞いだった。
しかし王太子と側近たちは情に流されるような事はしない。冷徹に厳格に、アンネセサリーの断罪に対処した。
泣き喚き情けなく取り乱すアンネを一瞥し、「醜悪な」と少し眉をひそめるのみで、分厚い扉はバタリと無慈悲に閉められた。
いくら暴れたところで、たかだか十七、八の小娘の力だ。屈強な衛兵たちに抗えるはずもない。
恐怖に震えながら男たちに取り囲まれ、宮殿の外へ連れ出される。
そのまま弁明の余地もなく、用意されていた鉄枠の無骨な護送用馬車へ入れられた。
(もう全部準備されてたんだ…)
絶望的すぎて笑けてくる。自分はここまでされるほど憎まれていたのか?
冷たい鉄板で囲まれた箱の中は、腰を落ち着ける椅子すら無い。わずかに上部に開けられた通気孔から、かろうじて外気の音が聞けた。
ワッと沸く歓声と、それにつづく万雷の拍手。
何があったか分からないが、アンネが居なくなった事で、憂いなく喝采が起きたのは確かだろう。
その声を聞きながら、アンネセサリーは惨めに消えるように、表舞台から去っていったのだった……。
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移送されたのは郊外の砦。寒々しい岩山から風が吹き荒ぶ。
アンネは一張羅のドレスから簡素な貫頭衣に着替えるよう命じられ、囚人扱いで地下の石牢に収容された。
独房は狭く、横は両手を広げられない程度。奥行きは粗末なベッドひとつと、底を地下水が流れるだけの排泄便器。
頭上高いところにある小窓から、月明かりがかすかに零れる。 本当に人間が独り立って寝て出来るだけのスペースしか無い。
(裁判があるはずだ、わたしの言い分を聴いてもらえる機会が、あるはずだ…)
生乾きの臭いのする汚れた毛布にくるまり、不安と恐怖と寒さに震える。
いってもアンネは貴族の娘だ。断頭台は無いはずだ。だが実家のやることを考えると、アンネの首ひとつで収まるのなら、あっさりと籍を削除して、連座の責任を回避するだろう。
今回の失態で、ただでさえ邪魔者扱いだったアンネセサリーに対する感情は、最悪なものになったに違いない。
死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない…っ!!
固く閉ざされた牢獄の鉄扉に向けて、何度も無実を訴える。たまに刑吏から、五月蝿ぇゾ!と怒鳴られる。それでも、誰かに話を聞いて欲しい。涙しながら虚空に訴える。
数日経ったろうか、実家からの手紙だ、と刑吏が閉した扉の小窓から差し入れてくれた。
勢いよく飛びつき、ソレを目にする。父ではなく長兄からのようだ。薄暗い牢獄では、字の判別も難しい。じっと目を凝らして、一文一文を読み下す。
何か、助けになる事は書いてくれてないか?
裁判はいつになるのか教えてくれてないか?
しかし読み終えて、アンネは呆然とするしか無かった。
アンネにとっては身に覚えの無い罪状で身柄を拘束されたが、王太子の婚約者としてそれまでに公務で機密文書を扱っていたため、保持のため一生涯牢獄に閉じ込めるという王家の方針が書かれていた。死刑は無い。それもフェアネス侯爵家に、王家から恩を着せる形で減刑された、という。
連座で父は大臣の職を辞し、兄も役職を解かれたという。
アンネに弁明の機会は与えられぬ代わりにフェアネス家が全てを認めた事で、王太子妃候補が絡んだ大疑獄事件は落着したらしい。
(有り得ない…)
わたしの事を一切信じてくれないのか…?
手紙には、父と兄がありありとアンネに失望した様子が滲み出ていた。お飾りとして家の邪魔をしない程度の事すら出来ず、あまつさえフェアネスの名声にキズをつけ泥を塗るような馬鹿をやらかす。無能なだけでなく害悪をもたらすなど言語道断。
フェアネスが、王家に比す伝統あるフェアネス家が、王家に借りを作ったのは恥でしかない。後の事は自分で始末をつけろ。
手紙と一緒に差し入れられた、黄ばんだ液体の入ったガラスの小瓶。
フェアネスの家の者が刑死する不名誉を免れる代わりに、獄中にて自裁せよ、というのだ。
小瓶を鷲掴みにして壁に投げつけた。小瓶は石壁石床に跳ね返ったが、割れずにそのまま転がった。
薄汚れた不潔な牢獄の中で、その小瓶だけがキラリと綺麗な光を反射していた。
牢獄で与えられる食糧は少なく、しかも半分腐ったような糸を引くパンとスープで、アンネは凍えながら食べられるところだけをひもじく口にして生きながらえる。
時に腹を下し、悪寒に震え、糞尿に汚れても衣類や毛布に替えは無く、髪はボサボサになり伸びた爪には垢が溜まる。
もう何日幽閉されているのか?体調崩して嘔吐しても看てくれる人は居ない。狭い空間に足は萎え、関節があちこち軋む。
(本当に、何の希望も、ないのか…?)
ずっと暗闇の中に居て、視力も衰える。全身の痒みすら、心を動かすのに足りなくなった。
ただ身体を横たえ、扉から差し込まれる腐った食事を口に運び、糞尿で出す。
あれから外がどうなったのかは知らない。
アンネ独りの不幸の上に享受される幸せを皆が謳歌しているのか、それも分からない。
心折れ、精神の泉の枯れたアンネセサリーにとっては、どっちだろうがどーでも良かった。
小瓶は、寝台の枕元にある。気力の擦り切れたアンネでも、手を伸ばして取れる位置に飾ってある。
この悪臭漂よう汚れたゴミ溜めの中で、唯一美しいもの。
アンネはそれを手にし、握力の入らない震える指で、栓を抜き取った。
躊躇いもせず、ごく自然に口に当て、トロトロと飲み下した。
何も起らず、ぼんやりとした思考で?となった瞬間、ゴボッと大量の血を吐いた。
次いで、腹の底から焼けつくような激痛とともに、ドロっと溶けて壊れた内臓の肉塊が、目や鼻から溢れ出す。
身体を引き裂くような痛みに身を捩らして悶絶し、バランスを崩して石の寝台から落ちると、床に打ちつけた骨がメキョッと砕けた。
たまらず断末魔の咆哮のような叫びを上げようとした喉が裂け、腐った汚物が弾けた。
アンネセサリーは、全身の穴という孔から血と体液を噴出させてのたうち回り、思わず目を逸らしてしまうほど惨たらしく原型を留めない姿になって、苦悶のうちに死んだ。
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